「女性としての自分」を考える
25歳になった。
なんだか、24よりもどんっと来る数字だ。20代のどまんなか。もう借り物の顔をした20代ではない感じ。
そんな25歳の誕生日とその前後は、思いがけず「女性としての自分」を考える機会に出くわした。
先週、東京の実家に帰った。簡単に誕生日も祝おう、ということで少し早めだけど祝ってもらった。
25になっても家族全員とまではいかなくても両親と妹が祝ってくれるなんて幸せだけれども、今年はいつもの誕生日より母からのプレッシャーが強かった。
「適齢期なんだからね」
うわわー。来ますね。なるべくそちらからは話をそらそうと頑張る自分がいた。
結婚もしたいし、恋するのもデートも好きだけれど、一般的に「モテる」タイプの女性像になろうとは全く思わない私。なれない、というのもあるけれど。笑
お母さんは、私にずーーっと言っている。「やせること」「肌をきれいにすること」、最近はそれに「歯の矯正」が加わってきている。
たしかに、そのみっつは今の私に足りないことだし、それらはたしかにきれいな女性になるための一歩ではある。
「きれいになる」ってなんだろうか。
「幸せになる」という話と同じで、「きれいになる」にも人それぞれあるんじゃないだろうか。そのなり方も、たくさんあっていいような気がする。
それを、「きれいになるにはどうしたらいいんだろうね」「そもそもきれいってなによ」から始められたらいいのだけど、「きれいになるにはこうすべき」「きれいとはこういうこと」と最初から決められたような気がするから、母に言われたときに辛いのかもしれない。
ああ、きっとそうなんだろうな。書いていて気付いたな。自分にとっての「きれい」を考える前から、なんだか世の中の「きれい」のあり方を見せつけられて、それでどこか劣等感を感じてしまうことってあるような気がしている。
母の言葉の何が辛かったのか、実は自分でもよくわからない。でもはっきりと「辛い」と思ったことだけは覚えている。今の自分を否定されているから、そりゃそうなのだけど。
そんな東京での時間のあと、誕生日当日に、初めて助産院へ行った。
「助産院」と言っても、普通の一軒家だった。新潟市西区にある「みちつき助産院」。
新潟県では1つしかないのだそう。ここを運営しているのが、助産師の更科先生だった。
特に妊娠を予定もしていないし、体調が悪いわけでもないけれど、助産師の知り合いが1年くらい前からとてもほしかった。
想えば、小川糸の「つるかめ助産院」を読んだ頃ぐらいからかもしれない。
私がどんなタイプの人かを知っている、体のことを相談できる人がほしいと思った。検索でいくら情報を仕入れられても、その安心感にはかなわないと思った。
今回はさくらちゃんが、お台所みかこさんを通じて更科先生と知り合い、会を開いてくれたのだった。出産DVDを見て話す会だった。
更科先生は、助産師は英語では「女性の隣にいる人」として訳されると言った。
「まさに!」と思った。なんて素敵な職業だ。
病院で働いている時期もあり、でも病院でできるお産の形は限界があったという。
今、みちつき助産院でのお産は、どれも妊婦さんの気持ちや状態に合わせたお産。
「良いお産」に必要なのは、正確性の高い設備や手順ではなく、より本能的になるために必要なことを整えることだという話が興味深かった。
好きなものをそばに置いたり、好きな体勢で産んだり、好きな人にいてもらったり。
ここでもたぶん、大事なのは「自分にとっての」心地良さや気持ち。
改めて「何を感じているのか」をちゃんと自分に聞く重要性を感じる。
分析でも解釈でも意味でもなく、「嬉しい」のか「悲しい」のか「寂しい」のか「気持ちいい」のか。そういう単純なことを。
何人かの女子でお菓子を食べながら出産のことやそのほかいろんなことを話すのは楽しかった。こんな場があるなら生きていけそうだと思った。
良い助産院さえあればよっぽど移住したくなるわ!と思った。笑
もう少し、「女性としての自分」を私も考えたいし、私のまわりの女子たちにも一緒に考えてほしいと思った。
それは「女性だから」というものに縛られたくないからこそ、「井上有紀」は「井上有紀」だ!と言いたいからこそのものでもある。
自分の性別のあり方なんて自分で決めなくてどうするんだと思うから。
ただ少し、ふだんの会話や職場や飲み会でふらっとできない話題もあるから、場を作って考えたいかもしれない。
最後に、大好きなリトルプレスでの大好きな部分がありまして。
本能にはふたつあって、「子孫を残す」というのの他に「個体を生かす」というのがあるって話がとても好き。子供産まなくても「自分自身を生かす」「自分を大切にする」っていうことも種の生存なんだ。
— いもうえ (@rippesan) June 15, 2018
出産ができるという素晴らしいことも女性は持っているけれど、別に生むことだけが種の生存になっているわけでも、本能なわけでもない。
「自分を大切にする」それも立派な本能で。
それぞれ「自分にとっては」を持ちながら、軽やかに生きれるといいなあ。
大好きなリトルプレス「うかうか」はこちら。
案内したくなる町
最近、たくさん散歩をしている気がする。雪もなくなって、寒くもなくなって、晴れの日も多くて…だからかな。嬉しくて、快適で、ほんの数か月前、街が灰色と白で埋まっていたことなんて結構忘れてしまう。
ひとりで歩くのも好きだけど、誰かと歩くのもとても好き。
春になって、遠くから新潟に、市外から長岡に、人がやってくることが多くなって、
その度にけっこう「案内」をしている。
半分仕事も「案内」だしなあ。
案内はしてもしなくてもいいのに、自分の時間を使ってするということは、
「案内したい!」と思わせる場所あって人がいるからだ。
この場所を案内することで、純粋に知らなかった場所を知ってもらうのもあるし、私が好きな場所はこういうところなんだよっていう紹介でもある。
そして、その人といる時間が楽しくなるかどうかもかかっている。大事だ。
そんな大事な案内先は、できるならば、グーグルやテレビ・雑誌で見たから、以上の理由がある場所がよかった。
行ったことあるから、も。もう一歩。
良いなと思える人がやっているとか、ストーリーを自分が話せる場所。
そうだ、その場所にひとつでも物語があって、それを自分の感情込めて話せる場所だ。
そういう場所が一番多いのは、結局内野だった。1年間、車なしでどっぷり商店街に住んでいたから無理もないね
今は車でびゅんびゅん、内野にいたときの何倍もの範囲で飛び回ってしまっているから、
歩いて回れる案内には限界がある。ドライブも楽しいけど、一度に何か所も行けない。
それでも、最近はなんだか、長岡にも歩いて案内したくなる、そんな場所が増えてきた。
私が住んでるシェアハウスは最初からだけど、最近できた音楽図書室。もねちゃんの新しいシェアハウス。自分が棚を作っている文進堂。
喫茶店・飲食店などもちょこっと。
それだけで。それだけなのに、生活がとても楽しい。人を迎えるのも楽しい。
みんな、住んでいる町に案内したくなる場所が増えるといいんじゃないか。そんな風に思う。
小さくても、自分が自分の言葉でストーリーを話せる場所が。
だから、文進堂で「自分の棚」を持つことも良いかもよ。笑
住みやすくなってきた、長岡。
自分の感覚を信じて、過ごす時間を、ともにいる人を選んでいきたいです。
といって、長岡ではない駅。笑 トトロの道
5つの私
明るくて社交的そうな子が「実は私根暗なんだよね」と言うシーンに、意外と多く出会う。
影がある感じ、知らない部分がありそうな感じの方がそそられるよね、という話は置いておいて、
ヒトはいくつもの面でできているよなあ、と思う。
何より自分がいくつもの自分でできていることを実感していて、その考え方は結構楽にいれるので
今日はその話を書いてみようと思う。
SNS上の自分がいる。発信されたものだけを見て私のイメージを形づくっている人たちがそこにいる。
まあ、だからこそイメージ戦略なるものができるのだけど、逆に何層もある、何面もある私をそこで知ってもらうのはとても難しい。
別に何層もの自分を知ってもらわなくてもいいのだけど、少なくとも自分は自分のことを少し重層的に理解していたい。
なので、ここ最近の、半年くらいの私を「5つくらい」に分解して理解を試みようと思う。
いったんこうして自分を整理しておくと、たいていのことは、「あーまたこの自分が出たかー」と思って落ち込まなくてすむし、「お、これは今までにない自分かもしれない」と新しい気づきにもなる。きっと。笑
さあ、最後までかけるかなー。
1.軽やかさと場の心地良さを大事にしたい私
たいていの、まだ個人的な付き合いが浅い人には、この私が一番出ていると思う。
偶然や自然な流れ、場の空気に乗っかって何かが動いていくのが好きで、それは「ただその場にいた」というだけで何かが始まる面白さがあると、何回かの経験で実感しているからかもしれない。だから、基本的に軽やかでいたい。
今の仕事のきっかけも、今の暮らしのきっかけも、そもそも新潟に来たきっかけも、すべては偶然にのっかったからなのだ。
そして、私は場の心地良さをすごく大事にしてしまう。
目の前の人をまずは肯定したいし、同じ場に居心地悪そうな人が一人でもいるのが苦手で、とにかく不安だけは取り除きたくなってしまう。
そのせいで、ああ、ちゃんと本当に思っていたことを言えばよかった、とかあとで思うこともある。
本当は気まずくなることや多少場の空気が壊れることを恐れないところから生まれることもあると、頭ではわかる。
けれどそうふるまわずにはいられない自分がいるのだ。
2.私のために丁寧に暮らしたい私
この私は、コメタクを始めた2015年から、突然存在が大きくなってきた私である。
自分のために、日々の暮らしの小さなことを少しだけ「丁寧に」する。
別に自給自足とかをするわけではなく、料理をするとか、ふらっと散歩をするとか、詩集を買ってきて読むとか、手紙を書くとか、花をかざるとか、ふらっと日帰り旅をするとか、好きなカフェや商店に行ってたわいもない話をするとか。
このことが、どんなに私を楽にするか、私を整えるかが、仕事をしてますます感じられてきた。
仕事やイベント主催などで忙しくなってくると、いつもこの私との闘いだ。
よく陥るのは、仕事では誰かの丁寧な暮らし・ライフスタイルへのきっかけを作ろうとしているのに、自分ができてないじゃんっていう矛盾。
葛藤はよく起こすけれど、私はこの私がいることで保てている気がする。
3.とにかく自分がやりたい私
この私も、なかなか強い。そして面倒だ。
このやりたいというのは、プレイヤーになりたい、私が体を動かしたいという言い方もできるかもしれない。
面白そうだなということを思いつく。この困りごとはこうすれば一歩突破すればいいんじゃないかということを思いつく。
例えば、地域の人と仲良くなること。そこから何かを一緒にやること。
思いついたら、それを「私が」やりたくなってしまう。飛び込みたくなってしまう。
飛び込んだ人が、一番喜ぶ人の顔を目の前で見られて達成感があるというのを知ってしまっているからかもしれない。ずるいんだよね、ほんと笑
まあ、それは少し他の人に任せられるようにもなってきたけれど。
イナカレッジも、コメタクも、内野のことも、木沢のことも、本屋のことも、城内町のことも、
なかなか私はこれ一本!となれない。しばらくはまだこの私とお付き合いかな。。。
4.愛と関係性に執着する私
これもやっかいなものです。笑 でも、私らしさ、ここにあり!という感じでもあります。笑
なんというか…「この人だから」という理由が大きくなりがちなのです。
感動しいなのかなんなのか、「心を通わせられたかも」「大切な瞬間や価値観を共有できたかも」と思った相手はもう、すぐ好きです。笑
好きだから、その人の今までとか、これからとか、今とか、とても気になってしまいます。あ、別にこうするべきとかは思わないのだけど。
高校まで、「親と私」「友達と私」「兄弟と私」という関係性の中でしか育ってこなかったせいもあるのか、それ以外の「お父さんみたいな米屋」「親戚みたいな海産物や」「50個離れたおしゃべりともだち」とか、面白くて素敵な関係性が新潟をはじめいろいろなところでできてしまい、その関係性が思いもよらない出来事や物を生む可能性があるということを信じちゃってるのです。
関係性はたしかにすごくいろいろなものを突破するとは思うのですが、私の場合は愛が増えすぎて、離れることが寂しくなったりということも。
5.表現に触れたい、作りたい私
これはわりと、最近認識している私。
私が心からぐわっと喜びを感じる瞬間が、その人の「個」が出た表現に触れること、だということ。
音楽も、詩も、絵も、文章も、動画も、演技も、空間も…
まわりに受けるように、とつくったものじゃなくて、その人の「こうしたい」が出ている表現が美しくて、だけどなんだか減ってきているような感じもあって。
感動するかどうかは、プロかどうかとは全然関係なくって。
おばあちゃんがつくったものでも、小学生がつくったものでも、「その人」が表れているものが好きすぎて、これをどうにか、身の回りに置きたいし、世間に増やしたい。笑
ちょっと最後手抜きしましたが、あくまで「ここ最近」の私ですし、濃淡あるし、これより小さいけれどまた別の私もいる。
よく「このことで自分は変わりました」「この時期から意識が変わって…」というけれど、一人しかいない自分が変化したというよりは、自分を構成している何人もの中に新しい自分が加わった、っていう感じじゃないのかな。
できれば、「この自分は好きだなあ」と思える自分の割合を増やしていきたいものである。
嫌いな自分も、まあいてもいいよ、と言いたいけどね。
自分を構成している自分たちの中には、小さい頃すごく大きな存在だったのにいつのまにか新しく来た自分の後ろに隠れてしまっていた自分もいる。
そういう自分を思い出してあげることも、良いような気がする。
あー、そういう自分もいたのねって。ごめんね忘れてたなって。
汚い自分だって、かっこわるい自分だって、過去にもいたし
未来にもいるかもしれない。
なんとなく、こんな風に自分を整理してみるのもありかもしれないよっていう、話でした。
料理をする
1週間全くしていないと、むずかゆくなってくるものがある。
それが、料理だ。
いや、むずかゆくなってくるというのはうそかもしれない。
別に平気っちゃ平気だ。ホンモノの面倒くさがりかつシェアハウスに住んでいる私が、料理をせずに、1週間を過ごすことくらい、なんてことはない。
料理をしなくても、辛くはない。やらずにはいられない!というほど好きでも得意でもない。
でも、ちょっと疲れたなー、なんか体が重いなー。という日が続いたときに料理をすると、驚くほど回復していることがある。
なにがあるかな、と確認して。米をといでセットして。野菜を切って、ぐつぐつ煮たり炒めたり。ビールあるかな、あーないか。梅酒でいいか。
あ、にんにくあるじゃん、入れよう。
そんな、行き当たりばったりで無計画な作業。コンロにかける鍋の順番を間違えたり、物の置き場がなくなったり、ばたばたしている。
けれど、良い感じに頭が空っぽになる。目の前の野菜や鍋に無意識的に手を動かすのは楽しい。
この時間は、私が私に定期的にプレゼントしてあげなきゃいけない時間なのだと思っている。
きっと料理じゃなくても良いのだろうけど、(畑とか手仕事とか…)今の私が一番しやすいのは料理だ。
夜ごはんをゆっくり作る他にも、朝少し早く起きてお米炊いて、おにぎりを昼に持っていくのも効果的だ。
なんていうか、本当に、自分を大事にするちっちゃい行為ってこういうことなんだと思う。
こういう日常を小さく良くする大切さに気付くことの方が、キャリアや結婚や移住などの大きな決断のためのアドバイスよりうんと重要な気がしている。
だから、暮らしの手帖の「暮らしのヒント集」、松浦弥太郎の「今日もていねいに」って本が大好きだし、実家をはなれる学生に読んでもらいたいなと思う。
あ、そういえば!こないだ私が古本を置いている本屋で、「今日もていねいに」を買っていってくれた大学生がいました。ノートに一言書いてくれているんだけど、もうそれが嬉しすぎて…
選択肢と愛
ここ最近、少し余裕はないけれど、素晴らしいことばかり目の前で起こっている。
わからない、文章で説明してもそれは伝わらないかもしれないけれど、少なくともたしかに、私の心は喜びに震える瞬間に定期的に出会っている。
東京からイベントで知り合った高校生が遊びに来てとても良い顔をして帰ってくれたり、
集落のおばあちゃんにとっても嬉しいことを言われたり
手書き新聞をわたしたら、シェアハウスの大家さんが朝ケーキを焼いて持ってきてくれたり
事務局でインターンしてくれてる子が自分を出せるようになっていたり
農業法人でバリバリ売り上げをあげていたインターン生が報告会で話したことが小さな幸せの大切さだったり、
ああ、この瞬間のためにやってきてよかった、と思える瞬間が本当にやってくる。
その量は、忙しさにも比例しているような、していないような…頑張っているごほうびだと思うことにしよう。
そんな今日は、これからインターン生と一緒にプロジェクトを始めるある小さな町の個人スーパーでの打ち合わせがあった。
「このスーパーがお客さんに届けたいものはなんなのか」という議論が中心だった。
受入の中心となるのは、専務のお母さん。年齢を聞くとびっくりするほどの若さと元気で、スーパーでは知らない人にも声をかけ、かごの中に入っているものを見ては、
「今はこっちの方が旬ですよ」と物を買えるように進めたり、お客さんの子供がうるさくしすぎたりしているとちゃんと叱ったり、冷蔵庫の中身を聞いて一緒に献立を考えたり、
それはそれは愛とインパクトのある、少しおせっかいすぎるくらいの接客をする。
うーんと1時間半話し合って、「作業ではない買い物そのものの満足感」というようなところに落ち着いたのだけど、改めて「おすすめを教えてくれる店」「相談できる店」というものが身近にあることって本当に大事なんじゃないかと思った。
おすすめがあるということは、そこに意思があるということ。
そして、自分が儲かるかどうかというよりは、本当にその人にとっていいと思うから、これが良いと言う。表明する。無償の愛に近い。
相談できるということは、そこに場の雰囲気や地域がつくれる関係性があるということ。
困りごとや欲しているものは、刻一刻と変わる。そんな中、その時その時に合ったサービスを消費するのではなく、相談できる人が一人いることはとても安心だ。
ふと、3週間前くらいに参加した「ハックツ合宿」を思い出した。
全国で10代のための本屋関係の活動をしている人たちが集まる合宿である。
その時にこんな話が出たのだった。
「多様な選択肢があることって、それだけで本当に幸せなのだろうか?」
日本の教育の同調性や同一性に対する意見として、「多様性の尊重」の話は本当に多くの場でされている。
私も、ツルハシブックスや全国の地域、タイでまさに「多様性」を実感したことが大きな価値観の転換にはなったし、それぞれが好きなものを選べばいいよねって考えで、基本的にはいたいと思っている。
他人には縛られたくないし、他人を縛りたくもない。
自分の「良い」の感覚はあくまで自分のもので、みんな違う感覚があっていい。
根底でそう思えることは、まずは自分を救うと思う。
そのうえで、思う。
たしかに多様な選択肢を知れる環境が増えた。多様な暮らしや仕事や価値観が認められるようになってきた。
あなたはあなたのやりたいように、やりたいことを。そんな教育も増えてきた。
でも、ハックツ合宿に参加した高校生は言った。
「選択肢が多すぎて、どうしていいかわからなくなる」
「自分が何も持っていないことへの不安にも襲われる」
最もだと思った。
多様な選択肢を知ったうえで、愛のあるお節介が必要なのではないだろうか。
お節介は、一方的で、勝手だ。
「あなたにはこれがいいと思う!」「これが美味しいと思う!」
と決めつけてしまうのだから。
でもそれが、言う人側の利益に関係ないことなら、きっとそれは愛だ。
人生に関わる大きな決断でなければ、若者はみんなもしかしたら、こんなふうな
誰かの一方的で勝手な愛を潜在的には欲しているのではないだろうか。
それがたくさんあるのが集落で、商店街で、地域なのかもしれない。
日常の何気ない買い物だって、いや買い物こそ、
ただたくさんの選択肢がある大型スーパーの他に、
選択肢はなくともお節介を焼いてくれる人や、信頼できる相談相手のいるお店にたまに行けることがとってもとっても大事なのではないだろうか。
あなたの道をいこう
1,2月はとても忙しかった。(まだ終わってないけど)
自分がやりたい、と言い始めたことで自分の首を絞めていたような気もするが、なんかかんか仕事が多かった。
それに加えて、大雪。
来週の予定が毎週どうなるか分からない状態で、とても疲れた。
これが全部空から降ってきたことが信じられないほど、町は真っ白で、
宇宙からやってきた白い化け物に襲われたみたいだった。
そんな雪と戦いながら(それはそれで学びもすごくあったのでまたブログに書こう)しごとをしている中で気づいたこと。
最近ますます違和感アンテナが敏感になっているような気がするが、その時も違和感アンテナがびびびと反応したのだった。
イナカレッジと同じような事業を、成功させ、全国的に評価されている人たちとの研修の中でだった。
その人たちは、全国にネットワークを作り研修などを行うことによって、そのような事業を成功させるためのノウハウを皆に共有し、
成功する団体を増やそうとしていた。とてもすごい。そこにいる人たちは、こんなことまでできてるのかー!と思うことをたくさんなしとげている。
「学生そのものを見すぎる人を学生を育てることはできない」「この人だから、という理由でできたりできなかったりする状況をなくしたい」と言った言葉にも軽い衝撃を受け、それについてしばらくぐるぐる考えた。
それらによって生まれた問いは、究極的にはこれだ。
「何かしらの成果を出したいときに、人によってそのやり方は変えていいのか?」
今の、今のところの、私の答えは、「変えていい」だなと思っている。
「変えていい」であってほしい。
いやいや、そこを、このやり方ならどんな人でも成果出せるよ!というノウハウを探していくのが大事なんでしょ、と言われると思う。
だってその方が効率がいいし、そのノウハウを横展開できるし、売ることもできるから。
でも、それの何が違和感かというと、「努力できる」前提でそのノウハウがあることだ。
「もし成果を出したいなら、きつくてもそのやり方を実行せよ。」
「頑張れないなら、できないよ」
そんなメッセージを感じる。
わからないけど、「頑張る」しか道がないという状況はわたしはとっても不健全だと思う。
「誰かに言われた正解に向かって頑張る」以外の道を、いかにつくるかだと思う。
この道を車でまっすぐに行けばゴールにたどり着くことは、先人たちのおかげでわかったのかもしれないけど、
他にもゴールに行ける道や手段はあるかもしれない。
泳ぎが得意なら泳いでいけばいいかもしれないし、スキップしながら行ったっていいし、草刈りをして新しい道を作ったっていいし、
スキーですべって行ってもいいかもしれないし、
それはね、たくさん経験を積んで、自分のやり方が確立できるようになったらそうすればいいんだよ。
若い時はまずは頑張らなきゃ。
そういわれるかもしれないけど、私はどんなに若くてもちゃんともう個は形成されていて、その個に合ったやり方でやればいいと思う。
個に合わせたって人と関わりながら学ぼうとしながら何かを進めていく限り、ちゃんと勝手に育っていく。
そうやって、それぞれに合わせて新しいやり方を作っていきたい。
人と人をつなげてプロジェクトを作っている私たちは、どこまでもオーダーメイド精神で良いのだと思う。
イナカレッジの上司たちは、根底でそれをわかってる。
だから、「この人ができるやり方」を、ちゃんと探す。
ああ、ここで働いていてよかった。改めてそう思いました。
※「仕組みを作る側」「現場で動く側」という役割によって違う考えはあっていいなと思いました、あとで
「カルテット」と「それでも生きていく」で知る、成就するものだけが良いわけではないこと
1月頭くらいに書いていた、書きかけのブログがある。やっぱりちゃんと書ききろうとすると一発じゃ終わらなくて、そうすると結局、書きかけのまま放置することになってしまう。
まあ、ざっくりいうと内容は「私のやりたいのはやっぱり、感性を磨くお手伝いをすることだって気づいた」って話です。平田オリザの本の影響もあって。
で、今日はそれの続きを書く気力もまだないので、大好きなドラマの話をします。でもきっとどこかでつながってる。年始に書こうとした内容とね。
2018年は、惜しまず個の表現に触れようと思いました。
映画も見たいし、舞台も見たいし、展示やライブにも行きたい。
芸術や表現と言われるものだけが感性を磨くことになるわけではないけれど、一人でできる感性みがきはそういうことがやっぱりやりやすいし、実際そういう表現を通してみる日常とは違う世界の威力ってすごいんだ。
だから、1月はすでに映画を4本見てます。わたしにしてはとても多い。DVDもあるけど。なんだろう、とてもいい。これはまた今度言語化しよう。
で、映画ではないんだけど、2017年1月からやっていた「カルテット」というドラマがとても好きで、あとたしか2011年の夏ごろにやっていた「それでも、生きていく」というドラマもとても好きで、このドラマを見て考えた「好きという気持ち」についての話をします。
「カルテット」は弦楽四重奏のできる4人が軽井沢で共同生活しながら、お互いをだましたり好きになったりしながら生きていく話。
4人のキャストの演技も、セリフも、予想を超えてくる展開も、秀逸すぎて毎回映画を一本見たような気分になっていました。全然あり得ない設定なんだけど、人間ってこんなふうに多面的だよなあ、ほんとは。というのが根底にある感じがあちこちからします。
「それでも、生きていく」は、妹を殺された青年と犯人の妹が出会い、心を通わせる中で家族と自分の生き方に向き合っていく話。
こちらは重い話なんですが、どうしようもないことに向かう人間のありようがすごくリアルで、日々は続いていくんだよってことが時に悲しく、時に笑えるような雰囲気で描かれる。
うーん、大竹しのぶの演技も良いし、瑛太も満島ひかりも素晴らしすぎて、だいぶファンになりました。だいぶ泣きました。
・・・全然説明できている気がしない。笑 まあ、本当にこのふたつのドラマの良さを語り出したらものすごいことになっちゃうので、今回はこのへんにしておきましょう。笑
「それでも、生きていく」を見たのは高校3年生のとき。受験勉強の合間に、これだけは、、と思って地デジじゃないテレビで見てました。
注目すべきは、このドラマの結末。陳腐な言葉を使うと、めっちゃせつないです。
(※たまたまYouTubeで最終話の最後があがっていた。最高)
お互い、とても好き。でも、離れる道を選んだ2人。
2人は、それぞれの日々のささいなこと、でも相手を想い出した小さなことを手紙に書きます。
でも、それは相手に送らずに木の枝に結んでいくのです。
カルテットのすずめちゃんは、別府さんのことが好きだけど、こう言います。
「いいの、片思いで。いった旅行も思い出になるけど、行かなきゃった旅行も思い出になるでしょ。」
「ちょっと頑張らなきゃいけない時、その人が、ちょっといるの。で、エプロンかけてくれるの。それでちょっと頑張れる。そういうくらいの、好き。」
・・・・・・・・・
これね、なんか説明するのが野暮な気がしてきました(笑)
もうね、まずは見てほしいんですが、このドラマを久しぶりに思い出してふと思ったのが、
「成就する恋だけが意味があるわけではない」ってことです。
どっからが恋なんだ、みたいな話をすると果てしないので、まあ、「好きだと思う気持ち」として。
その人が居ない時にその人のことを思い出して、ちょっと自分が行動を変えてしまうようなこと。会いたいなと思うこと。会えなくても、その人の幸せを想うこと。
たぶんねえ、その気持ちそのものに価値があるなあって、思います。
世の中にたくさんそんな気持ちが生まれたらいいのにって思います。
成就するかどうかなんて、たぶんあんまり関係なくって、その気持ちを持ってるだけで、うん、まずは十分。
その気持ちは見えないから、みんな目に見える成果や契約を求めてしまうし(付き合うとか、結婚とか)、いやいやアプローチしなきゃ意味ないでしょ!って言う人多いけれど、
ひとを好きになるってそれだけで、褒められていい。えらい!
ええと、何が言いたかったんだっけ。笑
でもそういう、ちゃんと「いろんな色を持つ気持ち」に敏感でありたい。大事にしたいのです。うん。