選択肢と愛
ここ最近、少し余裕はないけれど、素晴らしいことばかり目の前で起こっている。
わからない、文章で説明してもそれは伝わらないかもしれないけれど、少なくともたしかに、私の心は喜びに震える瞬間に定期的に出会っている。
東京からイベントで知り合った高校生が遊びに来てとても良い顔をして帰ってくれたり、
集落のおばあちゃんにとっても嬉しいことを言われたり
手書き新聞をわたしたら、シェアハウスの大家さんが朝ケーキを焼いて持ってきてくれたり
事務局でインターンしてくれてる子が自分を出せるようになっていたり
農業法人でバリバリ売り上げをあげていたインターン生が報告会で話したことが小さな幸せの大切さだったり、
ああ、この瞬間のためにやってきてよかった、と思える瞬間が本当にやってくる。
その量は、忙しさにも比例しているような、していないような…頑張っているごほうびだと思うことにしよう。
そんな今日は、これからインターン生と一緒にプロジェクトを始めるある小さな町の個人スーパーでの打ち合わせがあった。
「このスーパーがお客さんに届けたいものはなんなのか」という議論が中心だった。
受入の中心となるのは、専務のお母さん。年齢を聞くとびっくりするほどの若さと元気で、スーパーでは知らない人にも声をかけ、かごの中に入っているものを見ては、
「今はこっちの方が旬ですよ」と物を買えるように進めたり、お客さんの子供がうるさくしすぎたりしているとちゃんと叱ったり、冷蔵庫の中身を聞いて一緒に献立を考えたり、
それはそれは愛とインパクトのある、少しおせっかいすぎるくらいの接客をする。
うーんと1時間半話し合って、「作業ではない買い物そのものの満足感」というようなところに落ち着いたのだけど、改めて「おすすめを教えてくれる店」「相談できる店」というものが身近にあることって本当に大事なんじゃないかと思った。
おすすめがあるということは、そこに意思があるということ。
そして、自分が儲かるかどうかというよりは、本当にその人にとっていいと思うから、これが良いと言う。表明する。無償の愛に近い。
相談できるということは、そこに場の雰囲気や地域がつくれる関係性があるということ。
困りごとや欲しているものは、刻一刻と変わる。そんな中、その時その時に合ったサービスを消費するのではなく、相談できる人が一人いることはとても安心だ。
ふと、3週間前くらいに参加した「ハックツ合宿」を思い出した。
全国で10代のための本屋関係の活動をしている人たちが集まる合宿である。
その時にこんな話が出たのだった。
「多様な選択肢があることって、それだけで本当に幸せなのだろうか?」
日本の教育の同調性や同一性に対する意見として、「多様性の尊重」の話は本当に多くの場でされている。
私も、ツルハシブックスや全国の地域、タイでまさに「多様性」を実感したことが大きな価値観の転換にはなったし、それぞれが好きなものを選べばいいよねって考えで、基本的にはいたいと思っている。
他人には縛られたくないし、他人を縛りたくもない。
自分の「良い」の感覚はあくまで自分のもので、みんな違う感覚があっていい。
根底でそう思えることは、まずは自分を救うと思う。
そのうえで、思う。
たしかに多様な選択肢を知れる環境が増えた。多様な暮らしや仕事や価値観が認められるようになってきた。
あなたはあなたのやりたいように、やりたいことを。そんな教育も増えてきた。
でも、ハックツ合宿に参加した高校生は言った。
「選択肢が多すぎて、どうしていいかわからなくなる」
「自分が何も持っていないことへの不安にも襲われる」
最もだと思った。
多様な選択肢を知ったうえで、愛のあるお節介が必要なのではないだろうか。
お節介は、一方的で、勝手だ。
「あなたにはこれがいいと思う!」「これが美味しいと思う!」
と決めつけてしまうのだから。
でもそれが、言う人側の利益に関係ないことなら、きっとそれは愛だ。
人生に関わる大きな決断でなければ、若者はみんなもしかしたら、こんなふうな
誰かの一方的で勝手な愛を潜在的には欲しているのではないだろうか。
それがたくさんあるのが集落で、商店街で、地域なのかもしれない。
日常の何気ない買い物だって、いや買い物こそ、
ただたくさんの選択肢がある大型スーパーの他に、
選択肢はなくともお節介を焼いてくれる人や、信頼できる相談相手のいるお店にたまに行けることがとってもとっても大事なのではないだろうか。