おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

ココルームと出会って考えたこと①

釜ヶ崎でゲストハウスのふりをした表現の場をつくっている「ココルーム」のことを書きたいと思う。ココルームと出会って受けた衝撃と、その後の思考について。

関西の本にまつわる拠点をめぐる、3泊4日の旅に出たのは3月の後半のこと。

旅から帰ってすぐ、新型コロナウイルスの感染が拡大し、世の中はその防止のための方向にすべて変わっていった。急激で、容赦ない変化。

日々変わる状況と予想できない仕事や生活の先行きに頭や心が持っていかれ、なかなか落ち着かなかった4月。

確実に歴史には、「世界がコロナウイルスに脅かされた2020年春」と残るはずだけど、同時に私にとっては「ココルームと出会った春」だったということも忘れたくなかった。それくらい大きな衝撃だったから。

まだまだ整理なんかできてないけれど、断片的にでも、一部でも、考えたことを残しておこうと思う。

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リスペクトの根底にあるのは、「支援ではなく学び」

ココルームは、釜ヶ崎という町にあった。恥ずかしいことにそこがどんな町なのか知らなかった私は、ゲストハウス「ココルーム」に泊まるために初めて訪れた最寄り駅で1度目の衝撃を受ける。

駅前の大きなコンクリの建物の前にならぶ、ブルーシート。荷物の山。すれ違うアジア人たち。安いホテルの看板。

肌で、目で、普通の町と違うということを感じた。その後に連れが「あいりん地区」というこの町の呼び名に気がつき、日雇い労働者の町ということがなんとなくわかってきた。

胸がくっと詰まったようになったまま、驚き少し恐れながら商店街をあるき(この時私は6年前にいたタイにいるような気持ちになっていた)、ココルームに着いて最初に話した人が、スタッフではないが滞在しながら場に関わる通称おといさんだった。そして、そのおといさんと最初に交わした会話が、「水くんでみますか?」だった。

ココルームには、庭がある。そしてその庭に井戸があるのだ。

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(ココルームの庭を上からみた写真)

あとでゆっくり解説してもらったが、この井戸は釜ヶ崎のおじちゃんたちと作ったものだという。ココルームが呼んでいる「おじちゃんたち」とは、日雇い労働をしている方だったり、路上生活をしている方だったり、家族がいない方だったり、生活支援をうけている方だったり、さまざまな釜ヶ崎の住人たちのこと。時には差別的な目で見られたり、「支援するべき対象」として扱われたりする人たち。

ココルームは、そんなおじちゃんたちとともに「表現の場」をつくっている。詩のワークショップやカフェやごはんの時間や対話など、さまざまな手段で。

井戸も、そんなおじちゃんたちとつくったものだった。おといさんが言うには、「自分たちが企画したけど、結局おじちゃんたちの道具や技術に助けられながら完成した」そうだ。

そして長い夜の語りお茶タイムに、神戸からかけつけてくれた友達ペーターの「どういう姿勢を大事に、おじちゃんたちと接しているんですか」という問い(たしかそんな感じの)に、おといさんはこう答えていた。

「支援しようじゃなくて、学ぼう、という姿勢ですね」

あっと思った。イナカレッジで大事にしていることと同じだった。

たぶん、学ぼうと思えるレベルが、ちょっと農村とここではまた違うとは思うけれど、その言葉で私の中の何かが腑に落ちた。

ああそうか、だからココルームの言葉や行動は、優しく押しつけがまくなく、気取っていなくてフラットに開かれている感じがするのか。

学び合おうとする姿勢が、素敵な井戸づくりを生んだのだろう。一緒になにかをつくるから学び合えるのか、学び合うという姿勢があるから一緒になにかをつくれるのか、どちらが先かはわからない。それは場合にもよるだろう。

けれどもたしかにこの井戸がこの場所にあるということが、その過程の話を聞くとますます象徴的に「どんな人からも姿勢次第で学べる」ということ、ココルームが学び合いから表現とフラットに受け入れ合う日常を生んでいる場所だということを表している気がした。

合理性がこぼしていってしまうもの

私たちが釜ヶ崎に滞在していたのは、わずか20時間ほどだった。その時間はただただ状況をよく見て、感じ、知ることが精いっぱいだった。「考える」「言語化する」ことは、旅が終わってココルームで買った本「釜ヶ崎で表現の場をつくる喫茶店ココルーム」を読んで始めてできたように思う。

ここからは、釜ヶ崎の光景を思い出しながらこの本を読んで響いた部分を引用しながら書きたい。この本、ココルームを立ち上げた上田かなよさんが中心で書いているのだけど、ココルームの運営の変遷や思いをつらつら書くのかと思いきや、その部分はあっという間に終わって、谷川俊太郎さんや鷲田清一さんなど様々な人が問いに答えたりココルームについて言語化したり対談したり、ココルームのことだけでなく自己表現とは?働くとは?幸せとは?場とは?といった幅広い世界と人生にまつわる「ことば」を織り交ぜた、ぜいたくすぎる本だった。

filmart.co.jp

釜ヶ崎にたくさんの日雇い労働者・路上生活者たちが集まるようになったきっかけは、高度経済成長期にさかのぼる。急激な経済成長と街の発展・拡大のために、多くの労働者たちを「効率的に」集める必要があった。

合理的な理性、合理的な思考が、高度経済成長期を支え、豊かな社会を生み出したのですが、そのまさに合理的な理性が、一方で、豊かな社会から排除された人々を作りだした。その排除された人々の、いわば対抗政治というものが出て来る。

本の中で、栗原さんという政治社会学者はこう言う。今に至るまでの歴史的な過程は、さまざまな時代時代の影響から釜ヶ崎での運動、出来事を伴うものであり、それを分かりやすく説明できるほどまだ勉強しきれていないので詳しくは割愛する。

彼ら・彼女らが依拠するところは理性ではなく、美的な感受性や感性、判断力です。判断力というのは、総合的な直感の力と、美を受け止める力とでも考えたらいいでしょう。

最近、というかずっと、「大きな流れ」が「急速に」つくられたときに排除されてしまう、こぼれていってしまうものに興味がある。マジョリティが、「みんな」が、「いいね!」といって促進しようとするものはいつも合理的だ。「説明できる」「誰でもわかりやすい」から、「いいね!」と言いやすいのだもの。

(まさにコロナウイルスで時代が一気に変わっている中、これはますます実感する…!)

こぼれていってしまうもののことを具体的に想える人は、相当想像力があるか、当事者もしくは当事者に近い人だと思う。「大きな流れ」そのものを見ていると、それ以外の可能性を考えない。それ以外のものを見ない。

それは人間のとても恐ろしいところだと思う。想像力は何もしなければどんどん鈍くなる。鈍くなった先で、ふとした時に誰かを傷つける可能性は充分にある。

言語化できないもの、感受性や感性や直感としかいえないもの、それを持ち続けられるか。磨き続けられているか。それによって、合理性がこぼしていくものを感じていられる人がどうか少なくなりませんように。

何もできなくていい、その存在を感じられていること、知れていることが大事だと思う。

ちなみに、美を受け止める力とは、目をそらさない力のことだろうか。この言葉に関してはなんともまだわかっていない気がするな。

(②へつづく)

 

*ココルームがクラウドファンディングを実施中です。コロナが収まってからもココルームが存在していますように。

http://motion-gallery.net/projects/cocoroom2020

この件に関するおといさんのブログはこちら。

000otoi.hatenablog.jp