おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

わからないことに向かう

2016年4月3日のブログです*

 

3月末の末。

大学もまだ始まらないし、新潟の活動にも関われないし、私なりに始めた就活もなかなかまっすぐは進んでいけず、最高に「中途半端」な時期です。

 

そんなふうにもやもやとしている時の特効薬、「西田卓司」と「内田樹さんの本」。(笑)

今回もこの二人にはっとさせられることがありました。

というか、私を形作っているものはこれかもしれない、と。

内田さんは言います、

「わからなさ」に出会うことが、「学び」だ

「わからなさ」を差し出すのが先生だ

 

西田さんは言います、

「わからない」けど「わからない」からこそ扉を開けてみる

かすかなシグナルを感知した自分を信じて、
自らの手で、未来へつながるかもしれないドアノブを回そう

(正確には違うかもしれませんが)

 

いや、なんというか、○○力がつく!○○が学べる!が目的のセミナーやプログラムを作るのはなんか違うなあと思ったりするのは、ここなのか!と思いました。

だって、何が得られるかその意味と価値がやる前から「わかる」のは学びの本質ではないから。

もちろんわかります、何が得られるか保証がないとどれに参加したら自分のためになるのかわからない。だからより「わかる」方を選ぶ。

というかむしろすごいわかります。特に東京の学生や、(嫌味な意味じゃなくて)意識の高い学生は、すごーくたくさんある選択肢の中で、自分にとって良いものを選ばなきゃいけないから。わかります。

時にはそういう、何が得られるのか合理的に判断して参加とか受講するのもいいと思います。都合もあるだろうからね。

でも、

本当に学べるのは、「わからないからやってみた」ときなのかもしれない。

この扉の向こうは、どうなっているか、本当にわからない、でもなんか惹かれる。

そういう時に扉を開けられる感性と一歩踏み出す力を持っていたら、

その偶然を信じて、好奇心に体を預けられたら、

もっとみんな面白いんじゃないかなあ。

そして、ツルハシブックスもコメタクも、そのほか今やりたいことも、その感覚をもっとみんなに共有するためにわりとやっているのかもしれない。

 

そして、私の行動を顧みた時に、私は「わからないからやってみる」をひたすら繰り返していたなあと思いだした。

タイの留学も、モンゴルのボランティアも、農家さん巡りも、そして何より新潟に来たことも。

人によっては行き当たりばったりとか、無計画とか言ってくるから、

あんまり自信を持っては言えなかったけど、これはこれで大事なことなのかもしれない。とふと思えました。

 

さあ、私の向かう先は、私の今していることは、その感覚を持ててやっているだろうか。