おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

さくらちゃんのこと

2016年5月6日のブログ*

 

さくらちゃんと、さくらちゃんの周りにいる人に向けて書きます。

みんなも知っている、コメタクの「たくらみ」たんとうさくらちゃん。

いろんな人にとって欠かせない「ツルハシブックス」もたぶん一番背負っている、さくらちゃん。

今のじきは

たぶん、去年一年間、コメタクとツルハシブックスでたくさん動いて土台ができて、目の前にあるやりたいことが一番はっきりくっきり見えてきて、さぁこれから始まるぞ!という時期なのではないかなと思います。

そんなさくらちゃんが、明日も頑張ろうと思えるように、

さくらちゃんがやりたいことがぐいっとためらいなく前に進めるように

そしてあまり自分のことは話さないかもしれないさくらちゃんのことをみんなが少しだけ知れるように

ブログを書きます。 あくまで、勝手に。

ごめんねさくらちゃん。勝手な私のブログです。

 

まぁ、こんなこと書かなくてもさくらちゃんはきっとためらうことなく、まっすぐに進んでいくのだけど。。

 

遠く離れた宮崎からやってきたさくらちゃん。 やっぱり距離って大きいと思うのです。すぐに帰れる距離であるかどうか。

特に宮崎や鹿児島に大切な人たちがたくさんいるさくらちゃんにとって、新潟生活1年目では寂しい気持ちになるときもあったと思います。

でも宮崎や鹿児島の人たちからのさくらちゃんの人望の厚さは

、一緒に住んでいるとひしひしと感じられました。

時々届く贈り物には、さくらちゃんへの愛と応援が詰まってましたから。

あとはしょっちゅう電話で会議をしたり相談をしたり、何よりさくらちゃんの誕生日サプライズをした時の九州陣の協力体制がすごくて笑、すごいなぁ、さくらちゃんは愛されているのだなぁ、と思っていました。

でもわかります。私だって今わかる。 東京に帰って来た今だからこそわかる。

さくらちゃんは遠くにいても、すごく大きい存在で、思わず贈り物も電話もしたくなっちゃいます。

なんか思い出すんだよね、さくらちゃんの言葉や振る舞いって。

 

この一年間の新潟生活がない人生なんて考えられなくて、

新潟で得たものを抜けば私の中の大切なものが入ってる箱が半分以上空っぽになっちゃうくらい、

やってみて「学ん」で、大切なものが増え続けた日々だったなあ、と私は振り返ったりするのですが、

その「学び」を一番くれたのはさくらちゃんなのです。

やってみたことや見た景色が「学び」になるには、「気づき」が必要です。 その「気づき」を私はさくらちゃんから数え切れないほどもらいました。

 

すごいよ、さくらちゃん。私の人生に影響を与え過ぎてます。笑

たぶん、私だけじゃないね。 あいりちゃんも、飯塚さんも、大口さんも、こうせいくんやかずきくんも、ツルハシの人たちも、町の人も、西田さんも

さくらちゃんが大切にしたい人たちはみんな、さくらちゃんからいっぱい気づきをもらって、だからこそさくらちゃんのことも大切にしたいと思ってます。

 

やりたいことと大切なものを考えて見つけて、いったん見つけると、

その思い描ける限りの最高地点まで手を抜かずにやりきるのがさくらちゃんだなぁ、とよく思っていました。イベントもそう。商品づくりもそう。本気でやりたいことにはたぶん全部そう。

だから、なんというかさくらちゃんの周りの人は、

いつもじぶんよりさくらちゃんの方が1歩2歩前へ進んでいるような気がしてしまっていて、

劣等感を抱いたりちょっと辛かったりすることが一度はあるのかもしれません。

さくらちゃんは周りをそうさせてしまうこと、でもさくらちゃんの行動自体が悪いわけじゃないからどうしたらいいか分からなくて悩んでいた時もあったみたいだけど、

変わらないでそのままでいるのも、 ちょっと変えてみるのも、 さくらちゃんがしたいと思ったらすればいいと思うなあ。

さくらちゃんは「寄り添い人」だと思ってます。本人も言っていたかな。

自分がすべてやって引っ張るよりも、誰かに寄り添ってその人のペースや「したい」を大事にしながら一緒に何かを作っていく。

だからさくらちゃんはさくらちゃん自身にも寄り添ってほしいです。

自分を変えるべきか変えないべきか迷った時や、周りに辛いことを言われた時には、

自分の心の奥の「したい」を大事にして進んでもらいたいです。

周りは周りで、 きっとすごく大切で、でもさくらちゃんが気づかなかったりやりきれない部分をやれるんだと思う。

それをやれた時さくらちゃんと一緒にやるプロジェクトはたぶん最強で、すごくおっきい価値を生むと思う。

 

そんな価値あるもの、私たちのお客にとって本当に価値のあるものを、さくらちゃんと一緒に生み出したい。これ、私の夢です。

 

さくらちゃん自身も、さくらちゃんが作るものも、涙が出そうになるくらい優しくて、

本当に目の前の人のためになることを言葉や行動にしてくれるから、

たぶんさくらちゃんに救われた人は本当にたくさんいます。私も数え切れないほど救われました。

陰でたくさんたくさん動いてくれるから、気づかないところでさくらちゃんの作ってるものがめっちゃ影響してる。

 

そんなさくらちゃんに返せるものは、 心配するとか、休んでとか無理しないでって言うことじゃなくて、

さくらちゃんが大好きな笑って楽しい時間を存分に楽しくしたり

さくらちゃんから受け取ったものを実践してみたり することなんだよね。たぶん。

 

だから私も目の前の人やものに向かって頑張ります。

さくらちゃんからもらった大切なことを言葉や振る舞いで周りの人にわたして、その幸せをおすそ分けしたいです。 これも、私の小さな夢。

 

こんだけ一人の人について書けるって冷静に気持ち悪いですが笑、まぁ、もう気持ち悪いキャラなので開き直ります。

とりあえず私は、さくらちゃんの作るものと、描くことと、言葉と、考え方と、さくらちゃんとふざけてる時間と、さくらちゃん自身が大好きなので、 それだけはたぶん揺らがないので、 なんかまぁ、それだけでもいいかな。

 

前に、さくらちゃんが私のことをブログで書いてくれてから、たまたまですがちょうど2ヶ月。

あれから、またいろんなことがありました。

さくらちゃんを苦しくさせてしまったこともありました。本当にごめん。

でもさくらちゃんはどんな時も私の「そういう時期」が過ぎるのを待っててくれました。

なんて素晴らしい人なんだろうか

 私の子どもさは、おたんこなすレベルだったね。

 

 

さくらちゃん、 本当にありがとう。大好きです。

これからもよろしくね。

(ゆき)

とてもちゅうしょうてきでごめんなさい。(なぜかへんかんできなくなった)

途中さくらちゃんが天国行ったみたいになった笑

今度はあいりちゃんにかく*

コメタクは「暮らし」

2016年4月26日のブログ*

 

ちょっと前に考えたこと。

やっとここに書けるくらいには、前を向けてきたかな。

新潟を離れた3月末。
ツルハシブックスとコメタクと内野にどっぷりだった日々から、家族と大学と就活な日々に移行しなきゃいけない3月末。

そんな3月末は、思ったよりきついものでした。

新潟を離れる前は、コメタクがやりたすぎて、
「東京行っても変わらずコメタク続けてやる!」「通ってできるかもしれないからやってみてやる!」と

それが私が「コメタク」の一員として貫けることだと信じていました。

ところが、

あれあれ、なんかしんどい。
内野が、内野の暮らしが、さくらちゃんとあいりちゃんが、
遠い。遠い。

物理的に遠いのではなくて、感覚的に遠い。コメタクをするためにいつも持っている芯の部分というか、コメタク感、みたいなものがするすると無くなっていく感じ。

あれあれ、なんだこれは。
もやもや、もやもや。

そしてある日、就活やら他のことで都心に行くために、
満員電車に揺られながら、
ぴーーん、と気付きました。

そういえば、コメタクは、何をしたいんだっけ。
暮らしの中に、好きと隙を作りたいんだった。
暮らしの中に。
暮らしの中に。
コメタクは、暮らしの中にあるもの。

そうだった。東京にいながら内野のコメタクのことをやるのがきついのは、
暮らしの中じゃないからだ。

コメタクは暮らしだった。
なら、内野でしかできないわけじゃない。
むしろ、東京で、例えば私の住む調布で、
コメタクをやることが「コメタクは暮らしだ」ということを表現できるのかもしれない。

そんなことを考えています。

西田さんやさくらちゃんあいりちゃんに話したら、うんうん、しっくり来ていた様子。

そしてその始める時期は、たぶん調布での「好き!」が見つかった時だと思うから、
気長に待ちます。またぴーーん!と来る時期が来るはず。

やっぱり恋しいこと

2016年4月26日のブログ*

 

今でも一応コメタクないのうえ、
新潟を離れて1ヶ月がたちました。。

一回新潟には行きましたが、遊びにいくのが精一杯。イベント準備やら企画やらには関われない状況です。

そんな私の近況を、少々赤裸々に書こうかなぁと思います。

私は、もともとたぶん、順応性が高い性格です。

新しい生活-実家から知り合いのほぼいない大学や説明会や面接をしに都心に通う生活-が突然始まりましたが、

ひとつひとつのイベントは楽しく、それなりに学びも多くこなしております。
新しい出会いもあるし、今まで学べなかったことが学べる日々。

新潟のことができないのは悔しいけど、東京でできることもあるし、何より今しかできない就活には今しか得られないものもあるしな〜。

と、頭では理解できてる。うん。
心でも理解はできてる。うん。

その考えに反対なわけではけっしてない。
けれど、最近気づいたことがあります。

考えること考えることがぜんぶ、新潟につながっているということ。

新潟のことを直接は考えなくても、
どの考え方も確実に新潟で、コメタクやツルハシをやりながら得たものだ!

と気づいてしまいました。

それと、「新潟で出会った人」を思い浮かべることがめちゃめちゃ多い。

同じことがら、例えば「就活」を見るのでも、
今までは、『私』と『友達』と『先輩』くらいのざっくりした視点から見てたのが
今や…
あの人だったら、この人だったら、って、具体的な名前と顔が浮かぶたくさんの新潟関係の人の視点から見るようになってしまいました。

いいことです、もちろん。
地域でいろんな世代の人と出会う経験をすると生まれる素敵な結果のひとつだと思います。

でも…
すごく寂しいです
恋しいです
行きたいし関わりたい
私を必要とされたい

さくらちゃんとあいりちゃんは変わらずコメタクを続けていますが、羨ましくてたまりません

今までどおり飯塚さんに会い、大口さんに会い、アイデアを形にし、わくわくしながら実行していっている。
そんな2人が憎く思えることもあるほどです

まぁ、さくらちゃんとあいりちゃんほど私がやりたいことを実現に導ける人がいないって分かってるし
2人のことは大好きなのでちょっと恨めしく思うことがあっても揺らがないですが

それくらい、やりたい。

こんなこと言っても何も生まないし、だからって目の前の次のことが滞ってるわけでもないけど、
たまにはいいでしょう、こういう自分を出しても。

いいよ、うしろ向くなとか言われても
うしろ向いてやる。
うしろ向かずに頑張るなんて無理だ。

くそー。やっぱり恋しい。

授業が「意外と楽しかった」理由

2016年4月15日のブログ*

 

復学して4年生をもう一回やる私。

普通、休学してようとしまいと、4年生で単位を取らなきゃいけない学生は少ないです。

だいたい、よほどサボらなきゃ、3年間でとり終える。

……私もそうだったら、4年生は思いっきり新潟行けたかもしれない…。

ですが…
そう、私はサボりではないのですが
4年生で単位を取らなきゃいけない組なのです!!!

この学科の人はこの科目の中からいくつ単位を取らなきゃいけませんよ、という「選択必修」というものがあるのですが、

他の学科の面白そうな授業を取ることに夢中で、ドジな私はその選択必修をすっかり忘れていたのです!!

それに気づいたのは3年が終わったところだったので、まぁ覚悟はしていたのですが、いざ4月になってみると、やっぱり憂鬱…

同期はもう卒業しちゃったし、
2年生が取るような授業ばかりだし、
言っちゃえば、興味のあるものはほぼ取ってしまったので残ってるのはそこまで興味のないものだし…

気乗りしないまま、第一回目の授業に出ました。

そしてですね、なぜかですね、それがですね。
なんか、面白かったのです。めっちゃ。

なんてことない話です。初回だし。

でも、話すこと話すこと、去年新潟で、どこかで話したり聞いたり見たりしたこととリンクしてしまって、
なんというか、これが「イメージできる」ってことか!
ってわかったというか。

これはすごいです。あんなにつまらなかったといっちゃ失礼だしそんなことないんだけど、
なんというか抽象的でイメージが湧かない話が、急に「面白く」なってしまう。イメージが湧くだけで。

これが京大とか東大に行ってる頭のいい友達たちを思い浮かべると、経験したり見たりする前からするっと理解できていたような気もするけど、
それができない私、含め多くの人は
やったことがあったり、目の当たりにしたことがあると格段に理解度が違う気がしました!

厳密に言うと、理解度は変わらないかもしれない。理論だけでも理解できることもある。

でも、「理解してる時の面白さ」が違う気がする!

そして「面白いと思いながら学ぶ時間」こそが私は価値があるんじゃないかと思うのです。
「理解したかどうか」「出来るようになったかどうか」じゃなくて、「面白いと思ってるかどうか」。
なんか、それが大事な気がするのです。

そう考えると、順番的にみんな、実際にやってみてから学んだ方がいいんじゃないかな!?

学ぶ→やる じゃなくて
やる→学ぶ ってこと。

特に文系の学問。経済学とか社会学とか。

やってみるってのは、活字とか言葉だけじゃなくて、非言語の受容器でその学問を受け取る経験ってことかな。触ったり、聞いたり、見たり、感じたり。

そうするためには、私みたいに休学して経験するのもありだけど…
例えば、中学生・高校生からやってみる。とか、
社会に出た後に学んでみる。
とかいうことで実現できるのかなぁ。

その機会があるといいなぁ。
そういう機会を作りたいなぁ。


とにかく、
久しぶりの授業が

「意外と楽しかった」理由がこれでした。

わかんない、一ヶ月後にはもう嫌がってるかもしれないけど、
少なくとも今はすごく授業を受けたい。教授と話したい気持ち。

ちなみに、今期受けるのは

食ビジネス論
食料社会学
国際農業経済学
環境社会学
農業政策論

分野がそもそも興味あるやつそうじゃん!と言われるかもしれませんが、
それがこうひたすら聞いてテスト受けてノートとって…となるとなんかつまらなく思えてきちゃうのは不思議。
でもそれはイメージが湧かなかったからかもしれませんね。

もう受けたけど、地域ガバナンス論と共生社会学はもう一回出てみたい。休学する前とは違うかも。

茅ヶ崎美術館と長田弘さんの詩集

2016年4月13日のブログ*

 

茅ヶ崎美術館で現在やっているハックツ展に行きました。
実家のある調布市から電車で一時間ちょい。
久しぶりのガラガラの電車で、ホッとしながら行きました。

ところで、電車で移動しない日はない東京生活。
私の本を読む場所は、いつも電車です。
毎朝、今日はどの本を持っていこうか?と選ぶ時間があります。
夢中で読んでいる途中の本があればそれだけど、
今日はそういう本はない。
朝の時間は短いです。
読んだことのある本の中から、今日の気分を直観でパッと選ばなきゃいけない。
最近、就活がらみで仕事とか働く関係の本が多いから、なんとなく今日は詩集かな。
そんくらいの心持ちで「長田弘詩集」を手に取りました。

でもいつも、「直観で、パッ」の本選びが、
何かを引き寄せるみたいに
このタイミングでこの本を読んでよかった!と思わせてくることが何度もあります。不思議。

特に読むのが2回目以上の本では、
初めて読んだ時と全く違うことを想ったりするからさらに不思議。

初めて読んだ時に心を奪われた、私の大好きな長田弘さんの詩は、「最初の質問」。

ハッと何かを放り投げられたような、それの一番いいキャッチの仕方がわからないような、そんな「問い」がつらつらと何十個か並んでいます。

この間ハッとしたのは

「世界という言葉で、まず思い描く風景はどんな風景ですか。」

答えが浮かぶわけではないけれど、じぃっと文字を見つめてしまいました。

今回目に留まったのは、

「樹木を友人だと考えたことがありますか。」

今度は、そういえばちっちゃいころ木に名前つけて友達みたいに遊んでたことあったなぁ。と、
もうそんな記憶掘り返したのは15年ぶりくらい?な風景を浮かばせてしまいました。

その頃の自分を思い出すと、何故だかほっこりとも淋しいともいえないようないえるような気分に。
そんなふうに茅ヶ崎に着きました。

そして、、茅ヶ崎美術館、、、めっちゃいい!
ハックツ展もよかったけど、茅ヶ崎美術館の公園の中に佇む感じがいい!

いつか美術館を作りたいかも。
とか思ってしまいました。

はい、なんだっけ。
あ、そうそう。
たまに問いを投げたいなと思ったんです、本を読むことで、自分に。

いつでもその問いに答えられる自分でいたいわけではなくて、
「考え続けたい」んだと思います。
考えるきっかけが問いだからね。

ほら、こんなブログに書くようなことを考え始めたきっかけも、朝選んだ詩集だったし。

特に長田弘さんの詩集はずっと持っていたいなぁ。誰かにプレゼントもしたい。

これをおすすめしてくれ、貸してくれた田中さんはやっぱり、私の師匠かもしれない。

わからないことに向かう

2016年4月3日のブログです*

 

3月末の末。

大学もまだ始まらないし、新潟の活動にも関われないし、私なりに始めた就活もなかなかまっすぐは進んでいけず、最高に「中途半端」な時期です。

 

そんなふうにもやもやとしている時の特効薬、「西田卓司」と「内田樹さんの本」。(笑)

今回もこの二人にはっとさせられることがありました。

というか、私を形作っているものはこれかもしれない、と。

内田さんは言います、

「わからなさ」に出会うことが、「学び」だ

「わからなさ」を差し出すのが先生だ

 

西田さんは言います、

「わからない」けど「わからない」からこそ扉を開けてみる

かすかなシグナルを感知した自分を信じて、
自らの手で、未来へつながるかもしれないドアノブを回そう

(正確には違うかもしれませんが)

 

いや、なんというか、○○力がつく!○○が学べる!が目的のセミナーやプログラムを作るのはなんか違うなあと思ったりするのは、ここなのか!と思いました。

だって、何が得られるかその意味と価値がやる前から「わかる」のは学びの本質ではないから。

もちろんわかります、何が得られるか保証がないとどれに参加したら自分のためになるのかわからない。だからより「わかる」方を選ぶ。

というかむしろすごいわかります。特に東京の学生や、(嫌味な意味じゃなくて)意識の高い学生は、すごーくたくさんある選択肢の中で、自分にとって良いものを選ばなきゃいけないから。わかります。

時にはそういう、何が得られるのか合理的に判断して参加とか受講するのもいいと思います。都合もあるだろうからね。

でも、

本当に学べるのは、「わからないからやってみた」ときなのかもしれない。

この扉の向こうは、どうなっているか、本当にわからない、でもなんか惹かれる。

そういう時に扉を開けられる感性と一歩踏み出す力を持っていたら、

その偶然を信じて、好奇心に体を預けられたら、

もっとみんな面白いんじゃないかなあ。

そして、ツルハシブックスもコメタクも、そのほか今やりたいことも、その感覚をもっとみんなに共有するためにわりとやっているのかもしれない。

 

そして、私の行動を顧みた時に、私は「わからないからやってみる」をひたすら繰り返していたなあと思いだした。

タイの留学も、モンゴルのボランティアも、農家さん巡りも、そして何より新潟に来たことも。

人によっては行き当たりばったりとか、無計画とか言ってくるから、

あんまり自信を持っては言えなかったけど、これはこれで大事なことなのかもしれない。とふと思えました。

 

さあ、私の向かう先は、私の今していることは、その感覚を持ててやっているだろうか。