「個」を共有する
3/3〜5は、東京都美術館で行われたTURN展でスタッフをしてました。
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今回私は、出展作家さんの一人であるEAT&ART TAROさんと、高校時代の友達を介して知り合い、作品の手伝いをさせていただくことになりまして。
前からTAROさんのやってることや、新潟でもちょっと触れたことのある障がい者×アートという分野に、「なんかすごくこっちな気がする」波をびりびり感じていた私は、
「ターン展手伝わない?」の誘いに何の迷いもなく乗りました。
3日間やっていたのは、ひたすら来場者と話すこと。(白衣を着て笑)
TAROさんは高齢者施設で出会った嚥下食をきっかけに、好き嫌いとは別に知らず知らずのうちに変化してきた食の「くせ」「ルール」のようなものを「フードコントロール」と名づけて、来場者のフードコントロールを聞き、嚥下食を体験できる作品を展示したんです。
他の作家さんの作品も、福祉施設での気づきや体験をもとに、写真や絵や映像や言葉や空間でそれぞれの表現をしていました。
いやー。もうすごく、言葉にできないほどよくて。
ひとつの衝撃的な作品がずーっと頭にのこるような、そういう感動じゃなくて、
日常生活の周りにいる人すべてが作品に見えてくるような、そんな感動でした。
終わってみて思うのは、ターン展は、「個を共有する」場だったのだなぁ、と。
組織や肩書きや経歴でくくられない、どんなに似ている人が隣にいたとしてもあなたがまぎれもない「個」だということを、
様々な方法で共有していたんだなぁ、と思いました。
みんな違ってみんないい。
そんなこと分かっている。
たぶん多くの人がそう思うと思います。教科書でもこの詩を散々読んだもんね。
でも、思っている以上に私達は、「同じ」であることに価値を置かれて育ってきたと思うんです。
入学も受験も部活も行事も恋愛もバイトも就活も、
同じ時期に同じことをやって、「やっぱこれはこうだよねー。これが正解だよねー。そういうもんだよねー。」って
共感できることがとても大切な世の中で。
新潟に行って、たまたま自分とはいろんなことが全然違う人たちと出会って、同期でも同級生でも部活仲間でもない、「いのうえゆき」としてその人たちと話せた時に、
なぜかすごく呼吸が楽になった気がして嬉しくてたまらなかったのは、
ずっと「個」を「個」として大切にしたかったからなのかもしれない。
今回、いろんな人のフードコントロールを聞いていて嬉しくなる瞬間は、
「その人にしかわからない」話をされた時でした。
「セブンのおにぎりは食べるけどローソンのおにぎりは食べない」
とか
「魚らしさを感じたいから刺身にお醤油はつけない」
とか
「昔見たショッキングなものの側に食パンが置いてあったから食パンが食べられない」
とか、
側から見ると理解できなかったり矛盾してること。
全然、全然理解できなくて、嬉しくなる。
この人と私は違うんだなーって。
すごくすごく当たり前のことなのに、意外とそれを実感する機会はなくて、でも「食」は誰にでもあるからこそ、違いをこんな風に笑って共有できる。
そして、「個」とは変わるものなのだということも分かる。
「何か他のものとの違い」は、単に「その瞬間における違い」であって、
時が経った時に昔の何かを理解できなくても全然いいんだと思う。
他の作品でも、いろんな人の「個」をびりびりと感じた。
同じ施設の利用者さんでも、
画用紙に描くものは違って、描く場所や形や大きさも違うし、
ダンスも違うし、見たい夢も違うし、球体の家に置きたい家具も違う。
それは周りが理解できないものだからこそいい。
そして、そういう「個」たちを作家さんが、他の人と「共有できる」形にする。
そうすると、私たちはこの東京都美術館という場所で、「個」に触れられる。出会える。
様々な個に触れると、なぜだかとても自己肯定感が増す。いろんな不安や怖さの穴が埋められていって、どこか安心する。泣きそうな気持ちの私もいる。
ああ、この小さな違いがこの人をこの人たらしめているように、
私をわたしたらしめているものはこんなに小さいものなんだと。小さいものでいいんだと。
そして、私は、目の前の人のそういうものを大切にしていきたいんだと強く思いました。
これから迎える新たなステージの始まりにとって、また大切なことに気づけた3日間でした。
TAROさん、TURN展に関わった皆様、来場した皆様、誘ってくれたみづき、本当にありがとうございました!