おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

ヒデさん

2016年9月16日のブログ*

 

いやいや、ついに私井上ゆきが長岡市川口木沢集落で1か月取り組んでいたインターンが終わりました。無事おわってよかったーーーー

 

今朝、他の2人のインターン生を送り出して(電車で号泣してたらしい)、

1日だけ、一人で滞在する木沢。

すごく静かになったけれど、最後にひとりも悪くないなあ、と思いながら、集落をおさんぽ。

歩いていると、何度かお世話になった90歳のおばあちゃん、ヒデさんが家からひょっこり顔を出しました。

「あら!!こんにちは!!」

「今畑から帰ってきたんだけど、お茶飲んでくか。」

前に盆踊りで撮った写真も渡したかったので、おじゃまします~と家の中に。

そこで30分くらいお茶飲みつつお菓子や漬物つまみつつ話しました。

話していて、やっぱりヒデさん、好きだな~と思いました。

年の離れたおばあちゃんと話すときって、やっぱりちょっと緊張するし、何を次に話したらいいか分からなくたったり逆にどう相槌をうったり話を楽しんだりすればいいか分からなくなることが多いです。

そりゃあ、方言もあるし共通の話題も少なければそうなってしまうのは仕方なくて、むしろそれは当たり前だから、特に苦でもなかったのですが、

ヒデさんと今日話したら、そういう気持ちなしで会話してることに気づきました。

本当に私が面白い、話したいと思ったことを話して、それでヒデさんが笑う。

ヒデさんがする話に、本当にそうだなあ、そうなんだろうなあ、と感動する。

すごく小さなことなのだけど、どんな時も自然体でいたい私は、ヒデさんの前で自然体でいれることに気づいたんです。

それはたぶん、ヒデさんが素直で自然体だから私もそうなれているんだろう。

前に、サチさんというばあちゃんが、手品の種明かしを教えた時に顎が外れるんじゃないかと思うくらい笑ってくれたときも同じような気持ちでした。

 

私たちが呼んだお茶会に、わざわざ急な坂を上ってきてくれて、しかもその坂の話を「きつかった」じゃなく「子供のころの通学路を思い出して懐かしい気持ちになった」と話してくれたヒデさん。

なんてすてきな!

そんなすてきな話のできるヒデさんが、自信をなくしているような、自分を責めているような話(耳が遠くて息子に迷惑をかける、腕が上がらないとか)をしているときはだから、私もどうにかそう思ってもらいたくないと思ってしまう。

ヒデさんを喜ばせたい、

と強く思ってしまいます。

なんかさあ、そう思うとなんでもできる気がしてくるよね。

ヒデさんのすてきさを残す、何かがしたいなあ。

そんなふうに思わせてくれるおばあちゃんが、私の人生に何人かいて、

すごく幸せです。

 

お茶会のしあわせ

2016年9月7日のブログ*

 

久しぶりの更新です~。クラウドファンディングが終わり、前期が終わり、新潟にきてうちのでしばらく過ごした後長岡市木沢で1か月を過ごしている最中です。

1週間に一回、内野に帰るというなんだか不思議な生活。でもしっくりきています。どちらでの活動にとってもいい影響がある気がする。というか、やりたいことばっかやってるので幸せなのかな。

 

木沢集落では、百姓に学んで感じたことを箱に詰めて並べたらどんなお店ができるか?を実践するというなんともまたわかりやすくはないインターンプログラムなのですが、「百姓百貨店」と称してとても楽しくやっています。

たぶん、地域での活動には「遊びゴコロ」が大事なんだなあ、と思うのです。

継続や儲けがないなら「お店作り」の楽しさを味わえない、なんてことはないと思うから、

じゃあ架空のお店を創業する設定でやってみよう!とインターンプログラムにできる遊びゴコロ。

その遊びゴコロが、それがないと生じる様々なつらさを消してくれます。

ただ、継続や儲けがなくてもお店作りができる理由は、期間限定なこと、架空であること、そして感じることがたくさんある山の集落でやるということ、かもしれない。

 

まあ、ともかく、今日はさっきやってみたお茶会の感動を記しておこうと思います。

今までも、なんてことだ・・・!って言う感動はおおかったのだけど、、。

 

木沢は32世帯の山奥の集落。住んでいる人の多くがばあちゃんじいちゃんです。

じいちゃんたちは、大のお酒好き。夜によく集まってお酒を飲んでいます。だから私たちもすぐにコミュニケーションがとれるけど…

ばあちゃんたちは、散歩をして畑で会うしかない。

もっとゆっくりお話しがしたいなあ、と思っていたので、インターン中に出しているお便りに日付と場所と「お茶会やります」を書いて配りました。

そうして今日の午後がそのお茶会の日。

秋らしさがありつつも、日差しがまぶしく汗をかくくらいの暑さの昼間でした。

暑いから、みんな来ないかなあ・・・

焼き芋を準備してくれているりゅういちさんを見ながら、ちょっぴり不安に。

でも、その不安は杞憂でした。

13時ごろ、最初の二人のおばあちゃんが私たちの住んでいる家に来てくれ、そのあともひっきりなしにばあちゃんたちがやってきて、たちまち1階の和室は超にぎやかに。

それぞれが持ってきてくれたたまごやらお団子やらをつまみながら、ぺちゃくちゃしゃべります。

9人のおばあちゃんがいたとおもうのだけど、もっといたような気がする・・・すごいエネルギーとかわいさ。本当にかわいくて愛らしい。方言をずっと聞いていたい。

たくさんおしゃべりできて、ばあちゃんたちのかわいさも浴びまくって、私たちが嬉しいのは当たり前なのだけど、

感動してしまったのは、ばあちゃんたちが予想以上に喜んでいたこと。

なんでも、こんなふうにお茶会のような形で集まるのは春以来初めてらしく、

みんなで一緒にお茶を飲んでおかずをつまんで、最近のことをあれこれしゃべること自体が

本当に楽しかった、と言ってくれました。

目の前の人、それも自分が愛や感謝を感じている人に喜んでもらうのは単純にうれしいじゃないですか。

でもそれを直接感じる機会ってなかったのかもしれない。だってこんなにも感動している。

私たち、お茶会やるよって言ってやってみただけなのに・・・!

しかも、何年も何十年もここで毎日が繰り返されている中でたった3週間前に入り込んだわたしたちの誘いなのに・・・!

こんなに一度に何人もの幸せな顔を見れるとは。

しかも本当にばあちゃんたち、いい顔しているんだ~。

やっぱり大学生は一回くらいこういう経験したほうがいいと思った。

自分が動いて、目の前の人から小さなありがとうを直接もらうこと。それを、あっこれが嬉しいんだ、って気づくこと。

「集落に住んで、お茶会を企画する」っていうのだって、そういう意味ではなんというかナリワイなのかもしれないんだ。

とにかくなんだか幸せだった、お茶会でした。

坂道降りて、ばあちゃんたちが帰ってゆく。

クラウドファンディングのこと

2016年8月9日のブログ*

 

飯塚商店の改装は、結構前からやりたいなぁと思っていたことでした。

その資金集めの手段を、クラウドファンディングにしたのは、絶対的理由があったわけではないけれど、一番やりやすい手段としてやりました。

クラウドファンディングを始めて、細かいやりとりはさくらちゃんとあいりちゃんがやってくれていたので、私は完全に楽をしていたのですが、
なんというか拡散することの難しさを感じました。
そりゃあ、お金が絡むことですから、友達だからといって簡単にぐいぐいメッセージしたりたくさんお願いしたりできません。

思ったより支援額が伸びないなぁ、とちょっと焦る時もありました。

クラウドファンディングという手段の限界」を話してくれる人もいました。

「結局、支援する手間もあるし似たようなプロジェクトも多いし常にチェックしてる人は少ないし、顔見知りの人や価値がすでに理解できている少数の人、ようは「身内」が支援するんだよね。」

そういう声もあります、自分の中にもありました。

事実だと思います。でも、始め私はそれをどこか悪いことのように思ってるところもありました。

でも、達成した瞬間に分かったことがあります。
正確に言うと、達成した時にさくらちゃんにあることを教えてもらった時に。
「kさんとkさんとYさんは、直前でも達成していなかったら、援護射撃の準備をしてたんだって。」

「また支援する準備してたのに、達成しちゃった」と笑うその3人が思い浮かびます。

それを知った時に、
「なんだ、身内でいいじゃん。」と思いました。
そして涙がでそうになるくらい嬉しかった。

感性の部分で良いと思ってくれている人、単に私たちを「好き」でいてくれる人、そういう人たちを「身内」と呼ぶなら、
クラウドファンディングは「身内」のためのもので、全然いい。

きっと、私たちのクラウドファンディングは、 そんな「身内」の人たちに参加のきっかけを届けるものだったんです。

そんな「身内」が 150人もいたら、正直、人生をちょっと楽しくするたいていのことができると思うのです。

だって、19歳の暮らしをちょっと豊かにするようなお米屋さんの改装ができるんですよ。

もちろん達成したからこそ言えることですけどね(笑)
そしてもちろんみんなが援護射撃するほど強い気持ちではないですけど。

でも、これは前から感じていた感覚。

心でつながれる100人くらいの人と、暮らしの中でたわいもない会話をできる人が30人くらいいたら、なんかもうそれでたいていの人の幸せを作れる気がするのです。

もちろんその仲間というか身内というか、ゆるやかなコミュニティは、ドアも窓も大きく開け放しておく必要はあります。
タイミングと縁でいつでも入れたり出られたりするコミュニティでなければならないとは思いますが、
そういうゆるやかな輪が、東京にも地方にもたくさんあったら、もっとみんなシンプルに
「誰に何を届けたいか?」
でビジネスや商品づくりができたり、簡単に暮らしを豊かにすることができるのかもしれないね。

正しいかどうかなんて分からないけどね、でも、
クラウドファンディングが教えてくれたことも確かにたくさんあったのです。

ツルハシブックス閉店

2016年8月9日のブログ*

 

11月5日に、内野駅前のツルハシブックスが閉店します。

私が内野に来るきっかけになり、内野に住んでいた1年間は店員サムライとして奮闘した、ツルハシブックス。

この不思議な本屋の閉店は、実は、私たちにとっては始まりなのです。

以下は、私の閉店挨拶の文(笑)
サムライそれぞれに少しずつ違う思いがあるので、全員が閉店挨拶を書くという、またツルハシブックスらしいスタイルです。


***

何かがなくなることが、次のステージに進むきっかけになることがある。

今までも、ツルハシブックスはそうだった気がします。

西田さんが常にいるわけではなくなった時、今井さんが卒業した時、
地下のハックツができなくなった時…

どの時も、「誰に何を届けたいのか」っていう大切な部分を見つめ直して
やる人ややる方法を変えながらツルハシブックスは
新しいステップを登っていた気がします。

今度は、内野駅前というあの場所では「なくなる」。
だから、きっとまた次のステージが待っているのだろうと思います。

今年の四月からツルハシブックスを離れた私は、
同じく「内野駅前ツルハシブックス」にはいないけれども、
ツルハシブックスマインドを持った人たちがあちこちで
「ツルハシブックス的なこと」をしているのを見ました。
長野県の伊那や、大阪や、東京の上石神井
卒業したサムライの心の中にもありました。

それを見て、「ツルハシブックスはどこでも作れるのかもしれない」と思いました。

もはやツルハシブックスは場所の名前ではないのかもしれません。

私も私のツルハシブックスをまたどこかで作れたらいいなぁ。

そう思う人はサムライの中にも劇団員の中にもいるはずで、
私はツルハシブックスがあちこちにできている未来を想像してにやにやしています。

私が運営に関わっていた1年間は、「みんなでつくる」ツルハシブックスで本当に良かった、となんども思うほどに
皆さんの力を借りていましたね〜。
チームツルハシブックスのみなさん(たぶん思い浮かぶ顔は50人以上笑)、ありがとうございました!

休学してツルハシブックスにもらったものは確実にこれから私がやっていくことに生きていて、
人生という旅の途中で偶然ツルハシブックスに出会えたことに本当に感謝しています。
これからもよろしくお願いします。

***

ツルハシブックスは、大きなイベントを成し遂げたわけでも、たくさん稼いだわけでも、めちゃめちゃ有名なわけでもないけれど、

確実にいろんなものを生み出しています。
それは、いつ生み出しているのかというと、たぶん日常の中なのです。
ツルハシブックスのすごさは、日常にあり、です。
だから、ぜひ閉店前にもツルハシブックスに実際に来てほしいし、
閉店後も見守っていてほしいなぁ。

いつまでも、偶然を届ける本屋で、学びを届ける本屋で、居場所を届ける本屋です。

目を凝らすと、ツルハシブックスはその道の先にあるかもしれない。
あなたの隣にあるかもしれない。

そんな人生、楽しみだ。

なんかブログっぽくなかった(笑)

あなたのままで

2016年8月9日のブログ*

 

クラウドファンディング、終わりました。
ドキドキしたりざわざわしたり、心の中が大騒ぎな日々でした。
東京での毎日は、また別の顔をしながらとんとんと過ぎていっていましたが、
ほどよく客観的になれたり違う視点を持てたりしたかなと思います。
とにかくたくさんの人に支援してもらえて、達成してよかった。ありがとうございました。


あいりちゃんのレポートを読んで、
ここ数ヶ月強く思っていたけど言語化できていなかったことが、言語化できた気がしました。
ここからは、ちょっと先の未来の自分のために書き記します。
たしかにたぶんこの地点が、自分の届けたいメッセージが明確になった第一回目かもしれないから、いつか見直した時にこの時こう思ってたことを思い出してほしいなって。

そんなこと言って、これより強く思うことがこれからもあるんだろうなあ、今は想像できないけど。


4月から東京にいる中で、久しぶりに会ったり新しく会う人たちの、
なんとなく辛い気持ちや苦しさに出会う度に
のどまで膨らんでいるのになかなか出てこないし出し方がわからなかった気持ちがありました。

人生は幸せな瞬間の積み重ねであってほしい。
だから、「ただ辛い」時間はなるべく少なくあってほしい。

そう強く思ったのです。
ただ、でもそれは誰にでも言えるものではなかったのです。
多くの人が自分がやりたいことや好きなことじゃないことを我慢して頑張ってやっている中で、そんなことを言ったら、「甘い」とか「忍耐力がない」と思われるでしょう。

でも、大切なのは10年後でも20年後でも老後でもなくて、今この瞬間なんだと思うのです。
たぶん、そもそも人生において結果より過程の方があなたを作っているのだから。
過程を大切にしてほしい。

別にいいんです。仕事で自分のやりたいことができていなくても、恋人や家族や友達とうまくいってなくても、夢や目標に近づけていなくても。

でも、自分を、自分を作っている自分の暮らしを、否定しないでほしい。
自分を否定しちゃうような暮らしはしないでほしい。
たぶん、たとえ嫌いな部分があっても「自分」を肯定できている時が一番幸せだから。
そして、自分を肯定できるようにしてくれるのは、実は本当にちっちゃい暮らしの中の行動だと思うのです。

いつもと違う道を行くこと。
手紙を書いてみること。
おすそわけしてみること。
米を、炊くこと。
近くの人を頼ってみること。
近くの人を助けてみること。

「暮らしの中でちっちゃい行動をしてみる」ことは、幸せな瞬間をつくることのできる行動の中でいちばん素敵で尊くて、無理がない。
そして暮らしは誰もが持ってるものだから、誰もがやることができます。

そして、その「ちっちゃい行動」は、
あなたがいいと思ったものでいい。
ちゃんと本当のじぶんのこころの声を聞いて、本当の自分のなんとなく好きだなと思えることでいい。

あなた基準なんだから、誰にも評価なんてできない。
あなたの感性しか判断できない。

あなた基準なんだから、他の人と比べる必要はない。というかあなたが「好きだ、いいね、」と思った時点で、もう何よりも好きで良いものなのだから。

結局なにが言いたいかっていうと、

私の目の前に誰かがいるとして、その人の届けたいメッセージは、ひとつだけなんです。

「あなたのままでいいんだ。」

たぶん、これだけなんです。

辛いな…と思っている人に伝える、具体的な解決策や、気づきや学びはたくさんたくさんあるのだけど、
もし、あなたがたったひとつだけメッセージを目の前の人に届けられますよ、と言われたら、まちがいなくこれだと思う。


実は、前にさくらちゃんがにしだひろみさんの朗読会をしたときのブログでも書いていた。
そして、あいりちゃんがクラウドファンディングのレポートでも書いてくれていた。

結局2人に気づかせてもらったのが、私。

だから、もしかしたらコメタクの伝えたいメッセージは
「あなたのままでいいんだよ」
なのかもしれないね。

でも、それを伝えるのは、
私のままでいいんだ、と思ってもらうのは
とても難しい。特に言葉だけでは。

これからそれを「どうやって」わくわくしながら届けるのか、それがわたしのライフワークかもしれないのだけど、

まずは飯塚商店が、それを助けてくれるような気がするのは確か。

改装、とても楽しみです。

ときめく片付け術

2016年7月21日のブログ*

 

このタイトル、別に家事にはまっているわけではありません。笑

こんまりさんの「人生がときめく片付けの魔法」っていう本で学べる「こんまり流ときめく片付け術」というのが、なんでも海外にまで話題らしい。

「片づけられない」が悩みの主婦たちに大人気で、ベストセラーだとか。

たしかに私も一度や二度耳にしたことがありました。まあ、それくらいだったのですが、先日なんとですね、うちに「こんまり流片づけコンサルタント」が来たのです!

母が家の中にたまりにたまったものを一気に整理したい、と思って利用したサービスで、実際に片づけコンサルタントの方が一緒に片づけをしてくれます。数回に分けてやり、間の期間には宿題なるものがあって、全部の回が終わるころには家の中のものすべてがきれいに片付いている、というもの。もちろん時間ごとにお金がかかります。

なんだかすごいなあ、とちょっとびっくりしてみているだけだったのですが、よく聞いてみるととても面白い。

本に載っているこんまりさんのやり方にそって一緒に片づけをしていくのですが、細かい約束が本当によく考えられています。

でもこのこんまり流、いいところは、「一緒にやる」ところで、やり方を覚えれば一生続けられるものだということ。

ようは、「考え方」と「順番」だけなのです。すごい技も道具もいらない。

一番それが表れている約束が、

「ときめくかときめかないかで捨てるものを決める」

ということ。

家の中でお母さんとコンサルタントの人が

「これはときめきますか?」

「ときめき…ません」

「これは?」

「うーん、ときめくかなあ」

なんてやりとりをしているのはちょっと笑っちゃうのですが、これ、実は深いな!と思いました。

 

たぶん普段から、「ときめくかときめかないかを判断できる力」を磨いておかなければできないから。

こんまり流片付け術を習得するとできるようになることは案外そのことなのかもしれません。

日常の中の小さな決断ひとつひとつに対して、「ときめく方」を選んでゆくこと。

そうすると、自分の暮らしはときめくものに囲まれていくようになるから、ますます「自分にとってのときめき」に敏感になると思う。磨かれていくと思う。

昼ごはんを食べるお店、日用品を買うお店、着るもの、食べるもの、飲むもの、行くところ、通る道、読む本、会う人、、、

たぶん全部、「てきとうに何も考えずに消費した」時と「自分がときめくほうを選んだ」時では、自分の磨かれ方が違うのではないかな、と。

私は、ときめく方を選べているかな?

今日、空いた時間を遠くのある人に手紙を書くことに費やしたことを思い出して、ちょっと胸をはれる気がしました。

ときめきが多い日々は、楽しいに決まっています。

毎日を楽しくできる人は、たぶん胸をはっていいんだと思います。

こんまり流がこんなに流行るということは、そんなことに価値を感じる人が増えているのかもしれませんね。

コメタクをやる理由その○○

2016年7月8日のブログ*

 

コメタクをやっていると

あ、これがコメタクをやってきた理由だったんだ、と思える瞬間に何度も出会います。

何度であっても、またそういう瞬間がやってくるので、もうコメタクをやる理由が積み重なって何個目かわかりません。積み重なってるわけじゃないのかな?いっこが深まっていっているのかな。まあ、どちらにせよまた、そういう瞬間に出会ったわけです。

うまく言語化できるかわかりませんが、まあ書き始めてみよう。

 

最近、少しつらいことがありました。ひとつつらい出来事がどーん、とあるわけじゃなくて、

どこでつらさを受けたかもわからないような小ささで、でもじわじわとちくちくと確実に襲ってくるつらさ。

なんだろうこれは。この人と話してるとき辛かったな、というんは覚えていても、その人との言葉のどこがつらかったのか、全然うまく説明できないのです。

そんなときに小さなイベントの手伝いをしました。

何人かの大学生で、働き方や地域に行くことについて話す会。西田さんの無茶ぶりで、なぜか私への質問形式で場が進んでいったのですが。笑

そこに、ある女の子が参加していました。

すごく私と境遇が似ているというか、迷いが似ているというか。年も同じで、勉強してることや興味も似ていました。

中高時代は勉強を頑張って大学に入って。

より選択肢が広がるような選択をひとつひとつしてきて、それなりにうまくいっていて。

でもいざ卒業後の進路選択をしよう、となったときに今までみたいにより選択肢が広がるような選択をしようと思ったら、なんだかつらいな、と思えてきて。

そういう話をしていました。私もおなじだと思いました。

 

帰りの電車がたまたま一緒で、たくさん話しました。

「20年後の幸せより、1年後、1か月後の幸せが大事だ」と私が言えたのが、びっくりだったそう。

たしかに、私もこれを言うのは、私にとっても少し怖いな、とあらためて思いました。

だって、甘い、とか、やるべきときにちゃんとできない子、とか言われそうだもん。

あ、それだ。

私がつらかったの、それだ。

あなたを思うからこその厳しさ、と言われて、逃げるのはよくない、と言われて。

就活を優先しながらも、隙間隙間で楽しいことやりたいことをやっていた私に

さすがに人生がかかってる就活の時期なんだからそれくらい我慢しろよって。

でも。たしかに、私が日常でやってたり参加してることは、ひとつひとつはそんなに大きくないかもしれないけど、私にとってはすごく大事なんだよね。

 

たぶん私にとって、手の届く範囲にある、目の前の、日常のものが大事になってきてしまったのだと思う。

それが○○、と一つに断定できるものではなくて、その中には物も人もこともある。

好きな本を読むこと、展示を見に行くこと。好きなものを食べること。

友達と誰かのためのイベントを開くこと。

やりたいこと会議をすること。

とことん話すこと。

そういうことが。

 

大学1,2、年。3年もかな。私はやっぱり「正解」を追い求めていたように思う。

だから、遠くの「すごいもの」に手をのばして、機会は多ければ多いほどいいと信じて、

予定をパンパンに詰めて。その「すごいもの」はあくまで自分で測った物差しじゃないっていうのに。

でも、ひとつだけ私の中で変わらないことがあって、それは昔から目の前の人がハッピーになることに(無意識に)全力は尽くすことだった。

目の前の人が喜ぶことが本当はもとから一番好きだったんだよね。

だけど、遠くのものに手を伸ばしてそこでも目の前の人を喜ばそう、というのを繰り返してたら、そりゃあ疲れるわ。笑

しかも、今はさらに、

目の前の人には20年後じゃなくて、明日を幸せに過ごしてほしいと思ってしまう。

だから、何かを迷ったり悩んでいる子と話しているときの私の返事はとても甘いと思う。はたからみたら気休めに思えるかもしれない。

見る人が見たら、なんて危険なことをしてるの、それでその子は道を誤っちゃうかもしれないじゃない、もっと頑張らなきゃいけない時になんてことするの、と言うかもしれない。

私だって正しいほうはわからない、自分の中にいろんな自分がいるし、揺れている状態。(ちなみに、揺れてる自分の状態もいいなあ、と思えると強い)

でも、「ただ辛い時間を過ごしてほしくない」と強く思ってしまう自分を無視できない。

あと、人から言われる負の言葉がどんなに心を無意識に圧迫するかなんとなく分かるから。

だからこそ、私が思ってることを言えたことに驚いたその子は、言っちゃいけないと無意識に思っていたんだろう。

いや、言えない人がいてもいい。でも、いえる人もいないとだめだ

どうしたら、日常の幸せを大事にできるだろう

 

たぶん、ひとつのやり方は、自分を好きでいること。

電車で一緒に帰った女の子にも、自分を好きでいてほしいとすごく思う。

自分を好きで入れるコツは、やっぱり自分の「好き」を大事にすること。

コメタクが、たとえ東京にいてもコメタクの発信を受け取ることが、支えだと言ってくれたその子。

明日の自分も好きでいてほしいから、コメタクをやっているのかもしれない。

 

うわ、ぜんぜんまとまっていないけど、とりあえず出したからいいか。