予測不可能性について
7月。ぐんぐん暑くなって、夏の雲がもくもく空を攻めてきて、
ワールドカップは決勝トーナメント1試合目で日本は惜しくも敗退し、
西日本では豪雨で200人もなくなる人が出た。
日本社会的にも、私にとっても、いろいろなことがあったこの1か月くらいだった。
そんな今日は、3連休の前日。明日は半分仕事ですが。
今日、一人の東京の男子大学生が、1カ月の波乱万丈なインターンを終えて東京に帰って行きました。
このまま資格を取って卒業することに違和感を感じて休学し、6月1か月時間あるので何かやろう、ということになり、小千谷の農村に放り込まれ、いろんな農家さんの1日をひたすら一緒に過ごし、日記を書いたくまがいくん。
そんな彼が日記の最後に書いていたのは、「予測不可能性」の中の安定性だった。
彼の日記を読んだ頃ちょうど私も「予測不可能であること」について考えていて、ちょっとそれについて書こうと思う。
予測できないこと。最近市役所の縛り多めの仕事をしていて、それがどれだけ扱いづらいかというのを、職員さんの様子からひしひしと感じる。
それで気づいたのだった。私は予測「不」可能な方が好きだなあ、と。
仕事も、生活も?、たぶん恋愛も、どうなるかわからない状況にわくわくしてしまう。好奇心なのだろうか。
いや。とちょっと考え直す。「予測できないことそのもの」が好きなのではない。
「言語では説明できない感覚」を信じて自由に動きたい。そういうことかもしれない。
つまり、今は何がどうなるか計画も予定も立てられなくても、自分や(一緒に何かする)相手の「直感的なもの」を信じられていれば、何かが起こってから判断すればよい。むしろ何かが起こった時の感覚で決めたい。
そういうことなのかもしれない。
(言語で説明できない感覚で人は結構動くと思っているので、移住定住系の事業ではそこを重視すべきだと思うのですが、判断基準が全くそこにないので、時々とてもやりづらい。例えば、ゲストとの打ち合わせの目的のひとつにその人がどんな人なのかを私が知る、というものが入ってなかったり。)
って、この話、半年くらい前にもブログで書いてましたね。結局ぐるぐる回るのだなあ。
あ、言いたかったのは、イナカレッジが学生にひとつ与えられる大切な経験は、
予測不可能性の中で感覚に任せて(くまがいくんは「五感」と呼んでいましたが)楽しむ・面白がるという経験なのではないか。ということ。
農村地域の暮らしは、いつも予測不可能だ。
いつ天気が変わるかわからない。誰に会うかわからない。
でも不安にならない。理由は?言葉や数値で説明できるものではない。
最初は不安かもしれない。でも1か月いて、それが不安にならなくなってくるころ、
大学生は少し、自分の感覚を信じられるようになっている気がする。
大学のプログラムも、予測可能な、計画的なものは多いかもしれない。
でも本当の教育効果を考えたら、どうなるかわからない、少しくらい成果は残せないかもしれないけれどその子の感覚にゆだねるような、予測不可能なプログラムの方が良いのではないかと思う。
だってもう、社会そのものが予測不可能だ。
誰が受けても同じ教育効果を保証できるのが、真の教育だろうか。
本質はそこではない気がする。「結果が保証できていること」の価値はこれからどんどん下がって来ると思っている。
「こうなったらこうなる、というものではない」
「でもそれがおもしろい。いろいろな価値観が交差して」
若者を何人も受け入れ幸せを問うことができている荻ノ島集落の春日さんはそう言っていた。
みんなこれを実感するところからしか始まらないような気がしている。
あーあ、市役所や国に理解してもらう努力なんか時間の無駄だと思っていたけど、最近は違和感あるシーンを目の当たりにすることが多いから、否が応でも問題意識がもくもくしてくる。笑
まあ、この上司なら一緒にがしがし変えていけそうな気もするから、もう少しこの位置にいようかな。プライベートでは小舟を漕ぎ出そう。
なんかよくわからない締めくくりですみません。笑
でも月1更新したいので書けて良かった!笑
くまがいくんのpolca。もう終わりましたが。
https://polca.jp/projects/THyLdrM3eZj