おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

のうどうてきな楽しみを


ふうう。今週は疲れた。
が、学びも多かったー。

「いのうえゆき」として人前で話す役割のあるイベントが3つもあったのです。
珍しく、どれも自分が始めたものではなく主催者さんにお願いされたもの。
そしてどれも話の内容は自由度の高いもの。

当日になるまで話したいことが決まらないのが私の習性なのですが、今回もそれを発動し、直前までこれだ!ってものが降りてこなくてひやひやした前日を過ごしていました。

ひやひやざわざわするのは疲れるし、どれもめっちゃ上手く話せたわけではないけれど、話す機会をいただけたことで、深く考えるきっかけができて気づいたことがあったからよかった!!と今思っております。

経歴柄、まちづくりやら地域活動やら、「地域」っていう文脈でのイベントが多かったのだけど、
私はもう結構長いこと、地域の課題(特に人口減少)を解決するための地域活動に響かなくなってしまっている。

地域での活動は、
「人がその人自身の楽しみや豊かさをのうどうてきに取りにいくこと」の延長である方がすてきだと、そう思っている。

人生のなかの「楽しむ」という行為を、飲み会やカラオケや温泉旅行や海外旅行などの「非日常」で「お金を出してサービスや物を等価交換する」娯楽に求めるのではなくて、
小さくて身近なところから「自分で作っていく」。
それは例えば、好きなお米屋さんでお米を買って炊くことだったり、ちょっとだけ時間をかけてだしをとることだったり、本棚をDIYで作ってみることだったり、今の自分に合いそうな詩集を買ってみることだったり、といった本当に日常の些細なことの延長にある。
人によってはそれが、畑をやってみることだったり、友達を好きな地域に連れてくることだったり、地域の人にインタビューすることだったり、何かプロジェクトや活動を立ち上げることだったりする、ってそれだけだと思う。

(この場合の「のうどうてき」の逆は「受動的」というよりは「消費的」なのかもなあ)

だから、本当は何も学校や会社を辞めなきゃできないことばかりじゃない。

ただ休みの日にしていたことをちょっと変えるだけでも、いいのだと思う。

それは、イシキタカイケイなわけでも自己犠牲的なわけでもなくて、
楽しみや豊かさを能動的に取りに行っているだけなのだから。

(「休日は好きな町で本屋の店員やってます」って言いたい人は武蔵新城来てください笑)

「地域」という分野や場所は、その「能動的な楽しみ」と相性がいいのだと思う。

みんななにかしら地域とは接点を持っているから身近だし、農業やものづくりなど当たり前のように昔から「自分で作る」精神が残っている場合も多い。
あとは分野としての地域ってのは「顔や生活が見える人とのつながりがあること」の代名詞のようなもの?だから、そのことも相性がいい理由かも。

「この地域の課題を解決したい!」という人は大切だけど、そんな人ばかりじゃなくていいし、というかむしろそういう人しか受け入れられない場所には魅力がないし、

地方地域だって結局は個人の集まりなんだから、一人一人の楽しみや豊かさを作ることが原点な気がしている。

なるべく「若者として」「地域として」「組織として」というくくられた意思に支配されずに動きたいなー。


また分かりづらい文章を書いてしまったけれど、恵比寿と内野と山北でイベントをしたばかりの今の私が感じていること。

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