人生、どこへいくのかなー
このブログは、わたしにとって大事な「気づき」がある度に、言語化して整理したり誰かに届けたいなあと思うたびに書いているのだけど、
たまには単に私の最近のリアルな頭の中のことを書いてみようかなと思いました。
たぶん、わたしの、正直な部分というか、ありのままの自分自体を最近全然ことばにしていない気がして、それがなんかにごった池みたいに私の中で溜まっているので、ちょっと出してみたいのかもしれないです。
長岡に来て4か月。8月になりました。
長岡の夏がこんなに暑いとは思わなかったけれど、なんとかやっています。
最近ブルーなのは、暑いのが原因なのかなんなのか、料理をする気力がなくて食材をためてしまうことです。はあ。
好きな料理をできていることがけっこう私を救う気がするのですが、全くできていなくて落ち込みます。
私はどこに行くんだろうなーと考えます。
少なくとも、長岡が終着点な気は全くしないです。
でもだからといって次に行く場所の検討もつきません。相変わらず。
「やっててよかった」と思える瞬間がちょこちょこある「目の前のこと」をやりつつ、次の「大きなきっかけ」がやってくるのを待っている感じ。
うまく待つ。って結構大事なことな気がしています。
心地よく、楽しく、仕掛けながら、種を蒔きながら、待つ。
働き始めて、私の中にも「野心」「野望」があることにも気づきます。
どうせなら期待にこたえたい、期待以上を行きたいっていう、野心。
あとは、こんな素敵なことを実現して、評価もされている人がいる!私も私も、って。
多世代シェアハウスに、多様性コミュニティに、「食」の編集と教育に、「本」や「詩」にまつわる何かに、花や自然を閉じ込める何かに、、、
心からやりたいことが、10個くらいあります。
どれかひとつかふたつくらい、人生のいろんな糸が交わって、ある時タイミングが来てできたらいいな。
そう思って待っていることが正解なのか、自分から何かしらアクションすることが正解なのか、それがちょっとわからないです。
そして、やはり「今の自分」の大部分を作っているコメタクで何かしたい気持ちもある。
でも今こっそりこのブログを書こうとしてたら、「井上ちゃん、商売やらない?」と代表に声かけられて、すぐにやりたくなってしまう自分もいて。
なにが正解かはわからないけれど、少なくとも一緒に働きたい人たちとは働いているから、自分の上に何かしらが積み重なっているのはたしかなのかもしれないです。
いい人を見つけて結婚する夢もあるし。結婚する前にいろんな人との関係を楽しみたいのもあるし。
でも、どの人生にも時々近づけていない気がして、頭ではわかっていてもまだ私は「正解」から逃れられていないのだなあ、と思います。
そもそも正解なんてないはずなのに、、
それはたぶん、自分が正解にたどり着けるとどこかで思っている自信が足かせになっているな。
いっそもう、いろーんなことを諦めてみたい。
あきらめてあきらめたら、正解からは解き放たれそう。
でも全然、どれも、これも、諦められないのですね、現実は。
諦めた方が、他の成功してる人を見て嫉妬したりすることもないだろうに、ね。
そんなにわかりやすく嫉妬しないから、逆に難しい。まずは受け入れてしまうし、自分は幸せだと思っているから、屈折した嫉妬が、たまにふつふつする。
いったんここまで。
こどもたちと何かをやるということ
蒸し蒸し暑い、7月28日。
この日は、ちょっとしたチャレンジの日でした。
金曜日でしたが仕事はちょっとお休みして、
「寺子屋キッズ」という企画を手伝ってきました。
4月に引っ越してきて作ったシェアハウスのたまたま隣のビルもこの春からイベントスペースのような形でオープンしました。その運営をやっているのが武石さん。
今回の企画も武石さんの主催で、わたしとシェアハウスのもう一人の住人を誘ってくれました。「何か一緒にできないかな?」と。
小学生が夏休みの1日を使っていろんな体験を1日でする、というもの。
宿題もやり、工作もやり、料理もやり、、、その中のひとつとして、私たちはシェアハウスの近くに作っているコモンリビングというシェアスペースの壁を小学生に塗ってもらうことにしました。
小学生たちと絵を塗る企画をする。これだけのことですが、予想・想像できない部分がありすぎて、準備からどきどき、そわそわ。
ただ筆で書くのではなく、いつもはそんなふうに使ったら怒られてしまうだろうものを使って、自分で使い方を考えてもらおう、という風にしました。
たまたま仕事もちょっと忙しくて、合間でなんとか準備。
当日集まった小学生たちは、10人。1年生から5年生まで、男女も半分半分です。
まずは自己紹介。小学校の名前と、自分の名前。なんねんなんくみかも。
ちょっと緊張気味の皆さん。ついでに、「24歳のいのうえゆき」もちょっと緊張。
名札をつくって、次にやるのは夏休みの宿題ドリル。これは塾の講師をやっていたわたしにはむしろ緊張のほぐれる時間。
集中力の続かない男子たちは、秘密基地を作り始めてました。
40分ほど宿題をして、その後は好きな紙で「箱作り」。
好きな紙を選んで、さあスタート。
やり方は武石さんが教えてくれるけど、ついていけたり、いけなかったり。
はさみ、のりも使うのは順番。できなくてもいらいらしないでやる。
7歳でも9歳でも、言葉選びは変わっても、態度というか話し方や接し方は、わたしはわりとどんな人も変えないでやります。
自然な方が、自分も疲れないしね。
一人の一年生女子が、だんだん甘えてきました。(というか私を使ってきた)
箱が完成したら、おひるごはんづくり。野菜を持ってきたのはわたしで、前日にお世話になっている地域からもらってきたもの。
「これはなんでしょう?」
「…ズッキーニ!」
「こうやってできるものはなんでしょう?」
「なす!なす!」
絵とそのものを見せて話しながら今日のメニューも教えます。
女の子たちは、となりのわたしたちのシェアハウスで料理の手伝い。
なんだかみんなおそるおそる入ってきて、ずっと静かでした(笑)
小学生にはなじみづらい場所かもなあ。
ワームに戻ると、包丁で手を切った子がいて、ちょっとした騒ぎに。ばたばたと対応しながらもできた料理を並べ、(茨城から遊びに来ていたかずしくんも合流)
なんとかごはんスタート。
ズッキーニとなすの炒め物。
そうめん。
ポテトサラダ。
シンプルだけど、美味しくて、
ごはんを食べながらだと、4年生のちょっとおませな女の子たちもいっぱいしゃべってくれました。
そうして次は、いよいよペンキ塗り。
ポリ袋で作った即席作業着を着て、みんなでコモンリビングに向かって出発。
みんなで街中を歩くのがかわいくて楽しかった。
ペンキ塗りは、どうなることかと思いましたが、
はじまって30分で壁も、みんなの手も、絵の具置き場もすごいことになりました笑
みんな「解放された!!」って感じで。
わたしも若干解放されてしまいました、つられて。絵の具を手に塗りたくって壁に書くなんて楽しいよね。
使う道具は、筆以外。笑
私たちも思いつかなかった使い方をしていて、やっぱりこういうのが面白い。
最後はきゃあきゃあ言いながら手や足をふいて、集合写真を撮って、おしまいです。
終わった後は、疲れとものすごい充足感。
いやいや、やっぱりこちらがもらうものが多かった気がします。
単純に、かわいい。笑 癒し。笑
たぶんすごく子供たちにとっても大事な体験だったと思う。ひとつひとつが。
こどもたちにとって「体感する」ということの大切さをものすごく感じる。
もと保育士のかおり先生がすごいなと思ったのは、子供たちに伝える言葉のチョイスだったのだけど、それだけ、こどもたちには伝わるための言葉が少ない。
だからたぶん、「ことば」以外で知ってもらう必要があるんだと思う。
自分たちが食べている野菜がこんな形をしているんだということ
包丁を指で切ると痛いということ
絵の具を歯ブラシで書くとこんな線になるということ
思いっきり絵の具で遊んだあとは体を洗うのが大変だということ
自分の思いつきをやってみると予想とは違うということ
でも予想とは違っても何か快感だということ
兄弟でも先生でも親でもない大人がこんな表情をしているということ
全部、「ことば」じゃない、「体感」したものとなって彼女たちのどこかに刻まれていく。
どこに刻まれたかもわからないし、その刻みを思い出すことはないかもしれない。
でもそれでいい。
思い出さなくても、その刻みはたぶんその子たちを作っていく。
そんな、ひとつの彫刻作品が作られていく途中にひと刻みだけ刻んだような、それだけの行為なのかもしれない。こどもたちと何かをやるということは。
「瞬間」があればいい
このことをブログに書きたいと思ってからたぶん1週間は経過しているので、言葉の精度が若干下がっている気がしますが書きます。
やっぱり感情があついうちに言葉は出すべきだなあ。なかなか書く時間が取れないんだけどね。
少しもやもやしていたここ最近。仕事でこれからの事業や経営を考える機会が多かったこともあって、ぐるぐるいろんなことを考えていました。
いい仕事ってどんな仕事だろう、とか。
いいプロジェクトってどんなプロジェクトだろう。とか。
何かを「進めるため」の議論がミーティングの9割くらいになったとき、
何かを進めるためではないしむしろそれによって「止まって」しまうかもしれないけれど
何か抽象的なものを「共有するため」の議論を求めてしまうのは、コメタクとツルハシブックスをやっていたからだろうか。笑
だけど限られた時間の中でその議論をすることは私には提案できず、ミーティングが終わった後自分の頭の中でやることになるのです。
「大事にしたいものってなんだったんだっけ?」
っていうのを、「自分の中の自分」とブレストして共有していく感じ。
それを、どこかに行く途中とかごはんを食べながらやってしまいますね。
結局、大事にしたいことは自分とのプレストでもなかなか言葉に落ちず、いくつかそれっぽいものが浮かんでは消え、という感じでした。
ただ、ひとつ確認できたことがあって。
いい仕事ってどんな仕事だろうと考えた時に、
今まで見てきた「これは良いものだ、わたしが作りたいものだ」というものには
いつも「このためにやってたんだ」という「瞬間」があったなあと。
ツルハシブックスに学校で居場所のない高校生がやってきたときや、
コメタクに大学生がふらっとやってきて飯塚さんとお米の話をしてお米を買って帰っていったときなど。
いい仕事ほど「瞬間」に価値を置いていいような気がする。
いい仕事にはいい「瞬間」がたくさんある気がする。
長期的な成果の積み重ねで売り上げ目標を達成するようなことも大事なのかもしれないけれど、
結果的にはその「瞬間」はそれまでのプロセスがあってこそなのだけど…
あ、そっかそう考えると、
単なる「瞬間」じゃなくて、
一人でも強く「やっててよかった」と思えて、でもその瞬間は狙いすぎた瞬間ではなくて目指していたものとは少し違うところから来る瞬間なのか。
あれ、きちんと説明しようとすると難しい。笑
でもふと思ったのです、瞬間でいいんだなあと。
イナカレッジの今の仕事にもたまにそういう瞬間があるから、できている気がする。
(瞬間っては現場にあるかもなあー特に。お客さんと直接コミュニケーションしてるときじゃないと生まれないかも)
そんなことを考えてた次の日に、さくらちゃんから来た誕生日プレゼントのお礼メールにも、瞬間という言葉が書かれていました、さすが。笑
ゆき
(先日の仕事、車とれなくて電車で行った胎内。)
出店の魔力と魅力
こんにちは。新潟の夏が暑いのは知ってましたが、長岡がここまでだとは…
ってくらい、蒸しています。
昨日東京から来た大学生は、「新潟って涼しいのかと思ってました…」と言ってました。
さて最近は、、、イベントに「出店」する機会がなぜか立て続けに数回。
なぜかというか、私がどれもやりたいと言ったものだったんですが笑
そこで感じた「出店する」ことの魅力と魔力について書こうと思います。
ちなみに、昨日の出店は、「うちの軒下マーケット」。
2年前に1年間コメタクをやりながら住んでいた町での、ツルハシブックス主催の久々のイベントだっただけに、イベントそのものへの思い入れはすごくありました。
内野町の商店街のいくつかのお店の「軒下」で、個人が雑貨や古本や野菜などを売るイベントです。
内野の魅力的な商店街を「歩いて」楽しんでもらいたい、
今までは気づかなかったすてきなお店や景色に「気づいて」もらいたい、
ツルハシブックスは閉店したけれど、「内野と」何かやりたい、
そんな気持ちを何人かが行動にうつしてくれました。
今回は、何か出店しない?といわれ、わりと直前まで決まっていませんでしたが、私は去年の夏にインターンをしていた「百姓百貨店」で出店することに。
山から、野菜やら花やら黒文字というハーブやら枝やら笑を持ってきたり、あめちゃんの絵の封筒を作って売ってみたり。
シェアハウスの友達が協力してくれて、「山のばあちゃんの名言おみくじ」なんてのもやってみました~
当日はピーカンの晴れ。風が吹いていたのが救いでしたが、やはり1日外での出店は、暑い。暑い。でもみんなが助け合って気遣いあっていて、
例えば大口さんがスイカを配っていたり、
お客さんが冷えたスポーツドリンクを持ってきてくれたり、
飯塚さんがジュースをくれたり、
それはそれで温かかったです。ツルハシブックスっぽいかんじ。
久しぶりの再会を果たしたり、大学生に内野を知ってもらえたり、
相変わらずほんとに商品としてなりたってるのか分からない百姓百貨店の商品も何人かには喜んでもらえたし
疲れたし最後車ぶつけてブルーにはなったけど、
やっぱり私にとって第二のふるさとなのは内野だなあ、と思えた嬉しい日でした。
そして前からちょっと思っていた、「出店」の魅力。
ここでいう出店は、自分のアイデアと手で「商品」にしたものを誰かにお金を払って買ってもらう、という経験のこと。
このことがどんなにいろんな意味を持っているか、私はまだはっきりと言語化できないけれど、
この春、社会人として組織に所属して得始めた毎月の「給料」とは違うお金な気がする。
ここで払うお金は、「共感」「評価」「投票」という気持ちそのもので、
それを払って買うことがコミュニケーションで。
買ってもらえたときの「通じた!」感、とデザイナーのめいさんは言ってましたが…
そして、予定調和でない、偶然のお客さんとの「商品を買う」というコミュニケーションは、特に特に出店側に充足感を与える。なんなんだろう。
なんだかとっても直接的だからでしょうね。たぶん。
お金を払う人と、何かを得て喜ぶ人が一緒だから、しかも目の前にいてどんな表情をしているのかとかが分かるから、
「生まれているもの」が直接的にわかるから、心地よいんだと思う。
そして自分のどこかが肯定された気がするのは、気のせいかな。
だからたぶん、「出店」は、自信のちょっとない人ほどやるといいと思う。
「ずっとやってきたこと」でも「まわりの人より上手いこと」でもなく、「自分の中の一番」でもなくていいから、「実はやってみたかった」「実は好き」なことを、「出店」という形で誰かに届けてみちゃえばいいのだと思う。
そこから生まれる、あー、これで喜んでもらえるのかっていう、「直接的な感覚」を知るだけでいいんだと思う。
うーむ。出店の魔力と魅力に気づいたので、これをツールにしていきたい。誰かの日々がちょっと楽しくなるツールに。
「として」が苦手。
こんばんは。新潟県はすごい雨です、ここ2,3日ほど。
土砂崩れなどの警報が出てます。うー。
私の住んでるところは街中なのであんまり被害はありませんが、
大雨の中の運転って怖いですね…私にとってはそれが一番でした。
さてー。なんだかもやもやな今日。思うがままに書いてみます。
前々から思っていたんですが私、「〇〇として」が苦手なんです。
「〇〇として」っていうのは、役割とか立場とかを意識してふるまったり行動したりすること、だと思っているんですが、、それに抵抗があるのです。
(面倒くさい性格ですね。)
いや、話を分かりやすく整理したりするときに使うのは別ですよ。
ただ自分のその場その場の直感や「やりたい」を押し殺して「作る」のが辛いのかもしれないです。
私は〇〇な立場だから、〇〇な役割だからって。
でも立場とか役割とか肩書きにくくられた行動って、結局既存のものをたどっているだけになっている気がして。
その「既存」は過去の人が開拓して成功した何かなのだとは思うのだけど、だからといってそれ以外のことをしてはいけないわけじゃない。
組織の「イメージづくり」もそうだなあ。
イメージを言葉にして作っている時点で、それは既存の範囲でしか考えられていないし、その時その時の個人個人の意思や直感を生かす足かせになるかもしれない。
(プロジェクトベースではいいかもしれないけど)
だいたい魅力的で小さくても続いてる活動って、最初に持たれたイメージを壊してる活動だと思う。
結局、創造の幅を狭めてしまうものが嫌なだけですね。笑
ああもうつくづく最近は、私は創造・表現することと創造や表現をしてなかった人がそれらをしはじめることに興味があるんだなあと思う。
シェアハウスで展示やりますー。
4月から住んでいるシェアハウスのことについて、あんまり書いてなかったですね~
私たちのシェアハウスは、住民を公募しているわけではないので、友達同士で一緒に住んでいるだけのシェアハウスですが、
長岡駅前にシェアハウスが他にないので、結構びっくりされたり噂にされたり。
ぼろぼろだった内装を自分たちで直したり作ったりして、その時にいろんな人に手伝ってもらったこともあって、住民以外にもいろんな人が遊びに来る家です。
住民は5人。もともと知り合いつながりなので、どんな人かどんなものが好きかとかなんとなくすぐわかったし、みんななんかもうありのまで過ごしてるので、めちゃくちゃ楽です。
って、別にシェアハウスに住んでることが楽しいって自慢したいわけじゃなくて、今回はちょっとした告知。
シェアハウスの住民で展示をするのです。
たまたま代表の池戸君が借りる予定だった小さなスペースを3週間ほどですが、シェアハウスの5人で借りることになりました。
タイトルは、「〇〇らしい暮らし展」。
一人一作品、おもいおもいの「暮らし」をあらわすものを持ち寄って展示する、ただそれだけです。
それだけすぎて、こんなちゃんとした場所借りていいのか、搬入の時不安になりました(笑)
まあでも、やりたくてやってるからよしとしよう。
いつかの夜に、
「ねえねえ、展示やらなーい?」
「え…いいけど」
みたいな感じで受け身で始まったんですが、みんなで何をしたいのかを話しているうちに、なんだかすごく大事なような気がしてきたので不思議。
たぶん、別に「シェアハウスだから」暮らしが特別なわけではなくて。
「シェアハウスっていいよ!」と言いたいわけでもなくて。
でもシェアハウスをしていると、他人の暮らしがすぐ近くにあるようになるから、
「あー、私とこの人の暮らしって違うんだなー」
っていう、すごーーーく当たり前のことに気づく。
何に心地よさを感じるかとか
何を大事にしてるかとか
何が嫌だとか
何が好きだとか
そんなの本当に人それぞれで、違っていいんだなーっていう。
そして、それも変わっていいんだなーっていう。
今回この人たちと住みはじめたからこそ生まれた暮らしの中の行為もあるだろうし。変わっていくものなのかも。あと、作れるものなのかも。とか。
それで、「今の私らしい暮らしってなんだろう」とか、「何を大事にしたいんだろう」とか
改めてちょっと考えてもらえたら嬉しいです。
いつか誰かが言ってた、「アートとは当たり前に問いを灯すこと」。
問いまでは灯せているか分からないけれど、「素敵な当たり前」にスポットはあててみたくて、
私のコーナーは食卓の写真展になりました。
その時、その場所、その人とだからこそ生まれた食卓と会話が展示してあります。
超、だれでもできる展示(笑)
良かったら見てみてください~
会場は「アトリウム長岡」。長岡駅から徒歩10分くらいかなあ。
次のブログでは、シェアハウスでの暮らしが私の精神状態をものすごくよくしていることを 書こうかな笑
お母さんと楽しく過ごす
おはようございます。いもうえです。
最近、お母さんと過ごすのが楽しいです。
買い物したり、ごはん食べたり、ぶらぶらしたり。
進路を変更してしまった半年前はあんなにお母さんとの関係をどうしたらいいか悩んだしつらかったのに、
うそみたいに楽しいです。
(まあもともと一番よくしゃべる仲ではあったけど)
今は長岡で働いているから、そもそも一緒にいる時間の長さが全然違うのだけれど、だからなのか、なんなのか、すごく穏やかでほっとできる時間です。
長岡の生活が充実しているからなのか、一応家を離れて「自立」しているからなのか。
あとは…「私が」お母さんに対する見方を変えたからなのかなーと思います。
先日こんなことを人に言われました。
「心を開けるのは愛されて育ったからだ」と。
親に愛されて、愛を自覚して育てられると、根底に「自分は愛されている」っていう承認があるから、それ以外に承認欲求をあまり求めないというか、
生きてていいんだとは絶対に思えているというか。
確かに私は、他人に心を開くのが早いです。
自分を出すのはそんなに怖くない。すぐ自分の弱いところとかも出して距離を縮めたりします。
そのおかげで好きになったことも、できたことも、いっぱいあります。
でも言われて気づきました。
ああそれは、私が愛されて育ったからなのだと。
ちょっと前まで「干渉」という言葉が浮かんでいたものは、「愛」でしかなかったのだと。
そう思えただけで、そういう見方ができただけで、こんなにもお母さんに感謝と愛が浮かぶものなのかと、思いました。
ただはねのけていた自分が恥ずかしいです。まあ、確かにその時は辛かったのだけど。
次に思うのは、お母さんにもっと自分を愛してほしいなーってことです。
お母さんの愛のおかげで、こんなに私は自己肯定感が高いので、今度は私がお母さんにたくさん愛を伝えて、お母さんの自己肯定感も上げたいです。
先日高校の部活の友達が新潟に遊びに来てくれた時も、お母さんに人生を楽しんでもらいたいって話で盛り上がりました、笑
たぶん、たぶんですけど、地方に移住したり最近できたベンチャーに飛び込んでみたり、親の価値観から解放されて動いているように見える私たちは、
逆に意外と、親のことは絶対ないがしろにしたくないのかもしれないなあと。
親の存在と自分のしたい生活・したい仕事、どっちも良い関係性を築ける道を探りたいのです。
月に一回くらい東京で仕事があるのだけど、その時実家に帰るのが楽しみです。
結構理想の生活、してるかも。
愛犬のハチにも会えるしね。