生命力と人文知
今年後半、びりりと響いた本。それが、奈良で家を開いて私設図書館を運営する青木夫妻の書いた「彼岸の図書館」だった。
本の紹介のところには、
「本書は、青木夫妻が移住を決意してから私設図書館『ルチャ・リブロ』を立ち上げ、『土着人類学研究会』を開催しながら現代社会の価値観に縛られない異界としての知の拠点を構築していくまでの『社会実験』の様子を、12の対話とエッセイで綴る、かつてない「闘う移住本」です。」
とある。
ここだけ抜き出すと少しわかりづらいけれど、中身は対談・対話が多いので、意外と読みやすい。するすると一気に読んでしまった。
この本を出版した「夕書房」さんは、7月に東京で開催された「TOKYO ART BOOK FAIR」でブースを見つけ、気になっていた一人出版社。その場で青木さんたちが出していたZINE「ルッチャ」を買い、帰って読んで、その共感度と言葉選びの良さに感動していた。
大好きな内田樹さんが対談相手にもなっているところから、「この本はきっと面白いぞ」とは思っていたけれど、読めば読むほど「私が言語化できていなかったことを言語化してくれている」感がすごかった。
思わずツイートをしたら、著者の青木さんがリプをくれたのは感激。
この彼岸の図書館の中に、共感ポイントはたくさんあるのだけど、読んで欲しい友達たちの手にまわされてる今、手元に本がない中でぼんやりと残っているキーワード2つについて考えてみる。
1.生命力
たしか対談の中で建築家の光嶋さんが仰っていた言葉だったと思う。
それが、「生命力」だ。
私が、壊したくない、耳をすませたい「感性」だと思ってたものは、「生命力」なのかもしれない。
— いもうえ (@rippesan) 2019年10月31日
私は人間の中の、その人固有の、本能や直感のようなもの、それを信じて行動できることの大切さについて考えてきた。そしてなんとなくそれを「感性」という呼び方で表現してきた。
例えば、私がストレートに就職せずに新潟で米屋をやる1年間を選択した理由。
内定した就職先を蹴って、一緒に居たい人や地域を選んだ理由。
それは、理性や論理に基づいて、万人の理解できる言葉では説明できないものだった。
説明できなくてもいい。私が私の「感性」を信じられれば、行動の理由はまずは充分。
そんなことを休学した1年間で学んだし、何度もブログでも書いて来た。
光嶋さんは建築家なので、「生命力とは何か」ということよりも、「生命力がより高まる空間とはなにか」ということの方に注目しているし、その話の方が多かったけれど、私はその「生命力」という言い方が気に入った。
「数値化できないもの」「生命力を内包する身体の感覚」「見えないものを見ようとする」「自分のセンサー」…
それって、さっき私が言っていた「感性」に近いものなんじゃないだろうか。感性という言葉からは、センスとか美的感覚みたいな印象も受けるけれど、私が言いたかったのはこっちの、もっと身体や命に近いものかもしれない。
しかも、生命力が高い状態というのは、「じぶんと世界の境界がなく、すべてが溶け合っている状態」だという。
自分の生命力を最大限に高めるとき、それは一見矛盾しているようだけど、「自分」をより他のものと差別化したり優秀に見せたり、要は「分ける」ことではなくて、むしろ同化していくことの方が大切だと言うことみたいだ。
その状態に実際に、故意になることはたぶんとても難しいことだけれど、世界との同化を受け入れられることが自由だという発想は、なんだか私に新たな道を開いた気がした。
そして一番思ったのは、自分の生命力がより高まるような選択をしたいということ。それは、「能力を最大に生かす」とかいうことではなく、ただ自分という自然の一部があるがままに居れるような環境や空間、行動をしていくということだと思う。
本当にこの環境や空間で生命力が高まるのか?と疑っていきたい。それが理由で居る場所を変えたっていいのかもしれない。
山や森、海、農村に身を置くことはひとつの分かりやすい例で、それ以外にも生命力が高まる場はたくさんあるのだろう。
これについてはもっともっと掘り下げたい…(対話好きの友人たち、ぜひ議論しましょ!)
2.人文知
もうひとつのキーワードは、「人文知」。
内田樹さんが、この奈良にある図書館ルチャ・リブロのことを「人文知の拠点」という言い方をしている。
また、ルチャ・リブロの青木さんは、ラジオや本やその中での対話を通して「答えのない時代をいかに楽しく送るのかを研究・実践する場」を「土着人類学」と呼んで提唱している。
土着人類学については、もっとたくさん説明が必要そうだけど、詳しくは本を読んでください。笑
「人文知」は、姜尚中さんが専門的な知識である「専門知」と区別して定義していて、「人生をいかに生きるべきか」を考えるための哲学や文化や社会や宗教などの知識だと説明している。
つまり、とにかく青木さんも内田さんも、この場所も、「そもそもへの問い」を繰り返しているのだ。
「豊かさってなにか」「生活とはなにか」「場とはなにか」…
哲学対話にも通ずるけれど、どれも「根源的な問い」には違いない。
そして、すぐに経済活動に役に立つことじゃなくても、そういう「役にたつ・たたない」という議論で揺れ動かないものを、本や場を通して届けていきたいそうだ。
本を読んだ直後の私のツイートがこれ。
根源的な問いを持って遠くに想いを馳せながら、土に触れて恵みに感謝しながら日々を送る。晴耕雨読な暮らし、本当にしたいなぁ。#彼岸の図書館 まだ途中だけど、背中を押される、共感することばかり。
— いもうえ (@rippesan) 2019年10月28日
そして、「混乱・激動の時代こそ人文知が必要だ」という心強い言葉に、私の今を大いに肯定してもらった。
経済成長もしない、人口も減る、行政も厳しい、民間も厳しい、そんな声ばかりが聞こえる昨今。国はすぐに「役に立つ」理系や資格系の学問を優先し、人文系の資格の取れない学問は減らされていく。企業でも「即効性」が求められる。
一見、必要なのは「すぐに役に立つ(お金になる)」知識だと思ってしまいそうになるけど、内田さんはそうじゃないと言ってくれた。
激動の時代だからこそ、心を、問いを、対話を、大切にしよう。きっと過去のどんな激動の、動乱の時代にも、「幸せとはなにか」とかって問うてきた人たちがいたと思う。文学や芸術などの作品を生み出した人もいただろう。
そこにきっと価値がある。
そして、良い問いへの思考をするためには、「自分の生活をおくる」ことも大事。畑で食べるものをつくったり、草を刈って土地を管理したり、山や季節の循環や恵みを実感したりしながら日々を送ること。
そのうえで遠くに想いを馳せたり作品をつくること。
そんな「自然」な状態に近づく人が一人でも増えていくといいな。そのうちの何人かと一緒に、この地で暮らしていきたい。