おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

25歳のおばあちゃんになる

4月に、なりました。どこか他人事のように自分の人生が進んでいくような気がしている。2,3月は来客が多くて、常に走っている日々でした。合間に心から感動する瞬間も楽しくて大笑いする瞬間もたくさんありましたが。

 

前回のブログの続きみたいなことがまたテーマかも。

2月、3月、いろんな大学生や来客が長岡に県外からやってきました。

1泊以上シェアハウスに泊まり、私が案内役になって車でどこかへ連れて行ったり誰かに頼んで連れて行ってもらったりした人は、全部で10人以上。

休学する人しない人、経済学部の人人文学部の人、田舎育ちに都会育ち、映画好きに音楽好き。それぞれみんな違います。

居心地が良くて自然で話がぴったり合うーー人ばかりじゃありません。完全にずれている人はいないけれど、違うリズムに疲れることもあります。

それでも淡々と、フラットに、自分が疲れすぎないように、でもその人にとって素敵な旅になるように、過ごします、動きます。

 

それは、ただ一緒に時間を過ごすということが決まっている人に対して、評価や判断をしたくないから。

仕事を一緒にしたり、何かアクションしたり、遠くにいても関係を続ける上では、「その人がどんな人か(自分の好きな人か)」はとても重要だけど、

「一緒にいる」時間そのものがあるなら、もうそれだけでいいのです、ほんとはたぶん。特別な感情はいだかない。(もちろん嬉しいな、いいこだな、好きだな、と思うことも多いということをふまえて)

 

上司が最近、ある「農村への外部人材活用」の研修にパネラーとして出た時、荻ノ島集落の素晴らしい区長さんと一緒になって強く言ったのは

「役にたつかどうかで外から来る人を判断していたら本当の受け入れはできない」

ということだったそう。

もうこれ、本当に真理。イナカレッジの真骨頂。これがすべての土台。(めちゃほめる笑)

あと、「そういう機会に置いて大事なのは70歳以上のおばあちゃん」ということも。

これも本当にそう。

若者と農村、相互に「活用しあおう(自分にとって役にたつかどうか)」としてつくられる関係にそんなに未来はないと思う。

若者にとって大事なのは、本人たちは気づいてないかもしれないけど、「無償の愛」のようなものでつつみ存在ごと受け入れてくれるひとや場所や文化なのだ。

それをムラの世話好きばあちゃんたちは、無意識に提供している。笑顔ひとつ、声かけひとつ、行動ひとつで。

 

ただ、そこにいる。ごはんがあったから一緒に食べる。星がきれいだから見に行く。どんな人でも、親切にする。

どうせ新潟に来るなら、農村じゃなくてもそんなイメージをもってシェアハウスに迎え入れたいなあと思う。

そのうえで心地良いと思ったらまた来ればいいし、自分とは違ったなと思ってもいい。

そんな、25歳のおばあちゃんになりたいと思う。

(過去のインターン生たちに対しても最近母みたいな気分で見ちゃう笑)

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(温泉へいくある日のシェアハウスの住人。正規住人は6分の2)