「誰でもいい」というやさしさ
2月が終わりました。笑っちゃうくらいわかりやすく晴れている日が続いて、THE雪国の春。布団を干せるのが嬉しくてたまりません。
また、最近考えてることをつらつらと。
先日、インターンフォーラムという新潟県内のインターンシップに関する団体や大学、大学生が集まるイベントに、元インターン生の工藤君が来てくれた。
そして、その時の工藤君の言葉(その一週間後のイナカレッジのイベントでもですが)に、とても感銘をうけまして。
「成果をだすかどうか、能力がどうかじゃない自分を受け入れてもらったことが、大きかった」
それが、自分の感情とぐるぐる向き合うための土台になったそう。
その工藤君の言葉を聞いて、しばらくその言葉が頭の中にあった。
そして、その後川口地域の雪洞ほたる祭りで手伝いをして、新たな気づきが。
牡蠣などを売る屋台で忙しくお手伝いをしたのだけど、それが久しぶりにとにかく体を動かして、淡々と目の前の人の役に立つ感じがとても心地よかった。
もうそりゃあ、次から次へと人が来て。メニューも10種類以上あって。人が3人以上いないと到底回せない状態。
大学生も上司も一緒になって、とにかくお客さんの対応をして、補充をしたり牡蠣を焼く店主のアシストをして…気づいたら1日が終わっていた。
前回のブログでも出てきた舞夏も、疲れつつも楽しそうにお手伝いをしていた。インターンでやってもらう「自分の気持ちを伝える」とか「文章を描いたり自分なりのアウトプットをする」とかの仕事とは別の種類のこの作業があってよかった、と何故か思った。
ふと、まきどき村という畑と朝ご飯の会をやっている唐澤さんの言葉を思い出す。
「普段はコミュニケーションがとりづらい人でも、田植えや稲刈りだと大切な人手。必要ない人はいないから、一緒に手を動かしてなんとなく仲間になる。」
それが昔のコミュニティであり、村だった。
たしかに今は「なにができるか」「どんな人か」「個性はなにか」に注目しすぎているような気もする。
誰でもいい仕事はできるだけロボットがやればいいという風潮になっているような気もする。
けれどもしかしたら、単純作業なんだったら人間がやらなくていい、という判断はちょっと危険なのかもしれない。
そこには、ある意味で承認欲求が満たされるなにかがある。
なんだか矛盾しているようだけど、「あなたが誰なのか」が大事で、「あなた」に合わせて暮らしかたも働き方も恋愛の仕方も変えられる世の中では、同時に「あなたが誰であろうと」受け入れられる場がなくてはいけないのではないか。
そして、例えばとにかく大勢で手を動かす稲刈りや、DIYや、いるだけで一員になる田舎や農村がそういう場になれるのではないか。
私はどちらかというと人を選んでしまう方で、自分の感覚で好きだと思う人たちと一緒にやろうと思ってしまう。
それはそれで必要なのだけど、同時に「誰でもいい(部分もある)」というやさしさにつつまれているような機会をつくりたくもある。
「あなたが今ここにいるから」という理由だけで十分だ、と言いたい。
何十年も母をやった、ムラのおばあちゃんからはそのやさしさがにじみでているのかもしれない。
私もそんなおばあちゃんになりたい。
(あめちゃんの絵)