世界がなにでできているか
最近、本業のにいがたイナカレッジの方で連載をしている。
テーマは、「挑戦するな、実験しよう」。新しい道を選ぶ前の大学生・若者が目的や評価に縛られないようなメッセージとして書いているつもり。
この連載を始まる前からずっと、田舎や地域に来て何が得られたかなーーというのは考えていた。私も都会育ちで田舎にやってきたから。
それはそれはたくさんあるのだけど、それは田舎だったからか?地方だったからか?と言われると、必ずしもそうじゃないよなーとも思う。
でもその中で比較的地方ならではのものをひとつ、思いついた。
それは、世界が何でできているかがわかっていく、ということ。
学びの本質だなと思う。大人になるということだとも思う。
あるものを構成しているもの、作っているものがわかっていくということ。
味噌が大豆と麹と塩と時間と菌でできていること。
お米を作るのにこんな行程が必要だということ。
車の部品を作る工場がこんなところにあるということ。
こんな服やこんな顔の人がこんな仕事をしているということ。
あらゆるものをつくるのに誰かから誰かへお金が支払われているということ。
それを、教科書でもインターネットでもなく、目の前の風景や音や表情でより知れるのが、地方・地域・田舎だと思っている。
そしてその知識はとてつもなく強い。
東京で育った小中高大学時代。友達のお父さんはほとんどサラリーマンで、家のまわりに田んぼや畑はなく、ほとんどすべての食べ物や服などはお店で買う。
ずっとわりと天気がいいから、雪かきもたいしてしたことないし、電車と自転車で行けないところなんてほとんどない。
でもおばあちゃんちに行ったり旅行に行ったりして、あとは田舎に住んでいる人の話を聞いて、なんとなく雰囲気的には知った気になっていたけど、実際にじわじわとそういうものが直接わかっていくのとは全然違うのだ。
やっぱり地方(新潟)で育った子は、じわじわなんとなく、そういったことが分かっているような気がする。だってすぐに田んぼや畑も目に入るし、友達のお父さんにもいろんな仕事をしている人がいそう。(場合によるかもしれないけど)
あとはだれだれさんが作ったお米届いたとか、この季節にはこれをよくおすそわけしてもらうとか、そういうことが自然と取り巻いている。
物質てきなことだけではない。こういう取り組みをやるにはこんなに大変なもどかしいやるせない気持ちがあったのかとか、表に見えている部分の裏に、奥に、何かがあるのだということがわかっていくということ。
それはものごとを一面的に見ない、表面的に見ないということにもなっていく。
そして、世界が何で作られていくかがわかっていくと、次に湧いてくるのは、「じゃあ自分はどう作ろうか」という気持ちだ。
つくっている人を見る、知る、話すと、自分も何かをつくりたくなってくる気がしている。同じ分野ではなくても、自分の分野ではどうつくろう?と。
「つくられかた」を直接知る。このことの重要さがもっと届けばいいなあ、と思う。
(焼き鮎はこうやってつくられてます。笑)