おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

5つの私

明るくて社交的そうな子が「実は私根暗なんだよね」と言うシーンに、意外と多く出会う。

影がある感じ、知らない部分がありそうな感じの方がそそられるよね、という話は置いておいて、

ヒトはいくつもの面でできているよなあ、と思う。

何より自分がいくつもの自分でできていることを実感していて、その考え方は結構楽にいれるので

今日はその話を書いてみようと思う。

 

SNS上の自分がいる。発信されたものだけを見て私のイメージを形づくっている人たちがそこにいる。

まあ、だからこそイメージ戦略なるものができるのだけど、逆に何層もある、何面もある私をそこで知ってもらうのはとても難しい。

別に何層もの自分を知ってもらわなくてもいいのだけど、少なくとも自分は自分のことを少し重層的に理解していたい。

なので、ここ最近の、半年くらいの私を「5つくらい」に分解して理解を試みようと思う。

いったんこうして自分を整理しておくと、たいていのことは、「あーまたこの自分が出たかー」と思って落ち込まなくてすむし、「お、これは今までにない自分かもしれない」と新しい気づきにもなる。きっと。笑

さあ、最後までかけるかなー。

 

1.軽やかさと場の心地良さを大事にしたい私

たいていの、まだ個人的な付き合いが浅い人には、この私が一番出ていると思う。

偶然や自然な流れ、場の空気に乗っかって何かが動いていくのが好きで、それは「ただその場にいた」というだけで何かが始まる面白さがあると、何回かの経験で実感しているからかもしれない。だから、基本的に軽やかでいたい。

今の仕事のきっかけも、今の暮らしのきっかけも、そもそも新潟に来たきっかけも、すべては偶然にのっかったからなのだ。

そして、私は場の心地良さをすごく大事にしてしまう。

目の前の人をまずは肯定したいし、同じ場に居心地悪そうな人が一人でもいるのが苦手で、とにかく不安だけは取り除きたくなってしまう。

そのせいで、ああ、ちゃんと本当に思っていたことを言えばよかった、とかあとで思うこともある。

本当は気まずくなることや多少場の空気が壊れることを恐れないところから生まれることもあると、頭ではわかる。

けれどそうふるまわずにはいられない自分がいるのだ。

 

 

2.私のために丁寧に暮らしたい私

この私は、コメタクを始めた2015年から、突然存在が大きくなってきた私である。

自分のために、日々の暮らしの小さなことを少しだけ「丁寧に」する。

別に自給自足とかをするわけではなく、料理をするとか、ふらっと散歩をするとか、詩集を買ってきて読むとか、手紙を書くとか、花をかざるとか、ふらっと日帰り旅をするとか、好きなカフェや商店に行ってたわいもない話をするとか。

このことが、どんなに私を楽にするか、私を整えるかが、仕事をしてますます感じられてきた。

仕事やイベント主催などで忙しくなってくると、いつもこの私との闘いだ。

よく陥るのは、仕事では誰かの丁寧な暮らし・ライフスタイルへのきっかけを作ろうとしているのに、自分ができてないじゃんっていう矛盾。

葛藤はよく起こすけれど、私はこの私がいることで保てている気がする。

 

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3.とにかく自分がやりたい私

この私も、なかなか強い。そして面倒だ。

このやりたいというのは、プレイヤーになりたい、私が体を動かしたいという言い方もできるかもしれない。

面白そうだなということを思いつく。この困りごとはこうすれば一歩突破すればいいんじゃないかということを思いつく。

例えば、地域の人と仲良くなること。そこから何かを一緒にやること。

思いついたら、それを「私が」やりたくなってしまう。飛び込みたくなってしまう。

飛び込んだ人が、一番喜ぶ人の顔を目の前で見られて達成感があるというのを知ってしまっているからかもしれない。ずるいんだよね、ほんと笑

まあ、それは少し他の人に任せられるようにもなってきたけれど。

イナカレッジも、コメタクも、内野のことも、木沢のことも、本屋のことも、城内町のことも、

なかなか私はこれ一本!となれない。しばらくはまだこの私とお付き合いかな。。。

 

4.愛と関係性に執着する私

これもやっかいなものです。笑 でも、私らしさ、ここにあり!という感じでもあります。笑

なんというか…「この人だから」という理由が大きくなりがちなのです。

感動しいなのかなんなのか、「心を通わせられたかも」「大切な瞬間や価値観を共有できたかも」と思った相手はもう、すぐ好きです。笑

好きだから、その人の今までとか、これからとか、今とか、とても気になってしまいます。あ、別にこうするべきとかは思わないのだけど。

高校まで、「親と私」「友達と私」「兄弟と私」という関係性の中でしか育ってこなかったせいもあるのか、それ以外の「お父さんみたいな米屋」「親戚みたいな海産物や」「50個離れたおしゃべりともだち」とか、面白くて素敵な関係性が新潟をはじめいろいろなところでできてしまい、その関係性が思いもよらない出来事や物を生む可能性があるということを信じちゃってるのです。

関係性はたしかにすごくいろいろなものを突破するとは思うのですが、私の場合は愛が増えすぎて、離れることが寂しくなったりということも。

 

5.表現に触れたい、作りたい私

これはわりと、最近認識している私。

私が心からぐわっと喜びを感じる瞬間が、その人の「個」が出た表現に触れること、だということ。

音楽も、詩も、絵も、文章も、動画も、演技も、空間も…

まわりに受けるように、とつくったものじゃなくて、その人の「こうしたい」が出ている表現が美しくて、だけどなんだか減ってきているような感じもあって。

感動するかどうかは、プロかどうかとは全然関係なくって。

おばあちゃんがつくったものでも、小学生がつくったものでも、「その人」が表れているものが好きすぎて、これをどうにか、身の回りに置きたいし、世間に増やしたい。笑

 

 

ちょっと最後手抜きしましたが、あくまで「ここ最近」の私ですし、濃淡あるし、これより小さいけれどまた別の私もいる。

よく「このことで自分は変わりました」「この時期から意識が変わって…」というけれど、一人しかいない自分が変化したというよりは、自分を構成している何人もの中に新しい自分が加わった、っていう感じじゃないのかな。

できれば、「この自分は好きだなあ」と思える自分の割合を増やしていきたいものである。

嫌いな自分も、まあいてもいいよ、と言いたいけどね。

自分を構成している自分たちの中には、小さい頃すごく大きな存在だったのにいつのまにか新しく来た自分の後ろに隠れてしまっていた自分もいる。

そういう自分を思い出してあげることも、良いような気がする。

あー、そういう自分もいたのねって。ごめんね忘れてたなって。

汚い自分だって、かっこわるい自分だって、過去にもいたし

未来にもいるかもしれない。

 

なんとなく、こんな風に自分を整理してみるのもありかもしれないよっていう、話でした。

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