贈りグセ
今日は、自分の感性を確認するブログにする。
ちょっと危険を感じたのです、仕事の会議で。
あ、これはきっと、気づいたら好きな表現に触れている時間が短くなって、
私が本当に「私のために」大事にしたいものが小さくなっていくな、と。
仕事がやりがいないわけじゃない。むしろ、これは私自身ががーっと走りたくて走ってしまうものだからこそ。
なので、ブログで自分の欲望と感性を確認する。笑
たぶん、3年前の私にはなかったクセに、最近気づきました。
いや、2年前すらなかったかもしれないな。
それは、日常的に贈り物をするようになったこと。
贈り物って言ったって、ちょっとしたものです。
でも、かわいいお店に行った時や、休日にちょっと遠出をした時は、必ずと言っていいほど、考えてしまう。
「あ、これ○○ちゃんが好きそうだから買っていこう、いつあうんだっけ」
「シェアハウスになんか買っていこうかな」
って。
500円くらいまでなら結構ためらわず買ってしまうし、誕生日とか何かしてもらったお礼とかならもっと出してしまう。
あと、ちょっと暇な時間ができた時や、誰かとの予定が近づいたときに
「あ、手紙書こうかな」「プレゼントできるものないかな」
と考えてしまう。直前だからいつもそれでばたばたするけど笑
こうなったのはたぶん、ここ2年ほど、何人かの「贈りグセ」がある人に囲まれていたから。
というかそもそも、コメタクもツルハシもその他の好きな活動は、活動そのものが誰かへの贈り物のようなものだからだろうか。
いや、地域の人でも、好きな贈り方をする人を何人も知っている。
ふだんのおすそ分けは「余ってたから」とか「偶然もらったから」というものが多くて、それはそれで嬉しいのだけど、
ここでいう贈り物は、自分と一緒にいない時間に自分のことを想ってくれて、何かしらその人が時間やお金を使ってくれた贈り物のこと。
買うものだけでない、その人を思い出してメッセージや電話をすることも贈り物かもしれない。
その人が喜びそうなことを考えて行動に移すこと。
そこには全然直接自分に返って来るものへの期待はない。
「え?なんで?」ってなる贈り物やそこまで?っていうほど時間やお金や手間をかけた贈り物も多いのに、
押しつけがましくなくて、自然で、受け取る方も申し訳ない気分にならない。贈る側が嬉しそうというか、贈りたくて贈っているのが分かるから。
そういう「贈り方」をする人が、2年前くらいから側に何人もいた。そういう人から贈られたり、そういう人が贈るのをそばで見ていると、それがすごくかっこよく思えた。
気づいたら私にもすっかり「贈りグセ」がついているなあ。ふと思った。
贈りたくなってしまうのだった。それを渡したときの喜び、意外な顔を相手がする瞬間がたまらなく嬉しい。
このことがもっと大事にされてもいいんじゃないだろうか。
「贈る喜び」を知る前よりも、人生は劇的に楽しくなったとさえ思う。
みんなもっと、知った方がいいんじゃないかと思う。
「贈る」を作る仕事をいつかしたい。
「贈る」についてもっと考えたい。深めたい。
いつか、一番素敵な贈り物を贈るあの子と、そんな仕事がしたい。
(最近閉まってしまった近所のギャラリーmu-an。ここではいくつもの目に見えない贈り物をもらった)