やりながら決めることと感覚を信じてもらうこと
最近、寒くなってきましたねー。
わがシェアハウスにもついにこたつが…
なかなか出れません。やばい。
でも、そんな冬も大好きです。
今日の話は、最近何をやるにも強く感じてしまうこのことについてです。
実は、先日のヒラクさんの話のブログにも書いていることですが…
長岡駅前のある場所を拠点に、活動を始めてみないかと言われました。
そのお願いが、とても熱く本気のものだったので、その人にもお世話になっているし、ちょっとやってみようと思いました。
その場所が私の興味のあるところだったのもありますが…
そして、何度か会議的なものがされ始めました。
こんな場所になったらいいんじゃないか、こんなことをしたらいいんじゃないか、こんな風に運営するべきじゃないか…
何度かつないでくれた人や長岡駅近くの活性化活動をしている人たちと話しているうちに、どこかに窮屈さを感じている自分に気づきました。
なんだろう。この窮屈さはなんなんだろう。
そして、ある日ふらっと同居人と飲みに出かけた時に気づきました。
なんとなくの窮屈さの理由が。
ぐるぐるいろんなアイデアやビジョンを話すのはいいのです。いくらでも話せばいいと思うのです。
でもそのアイデアのうち、「どれをやるのか」を決めてから動き出さないといけないと思っていたから、窮屈だったのです。
それは後々、半分は私が勝手に感じていたものだったなということも分かるのですが、とりあえずそんな雰囲気を感じるいろんな人との会話だったのです。
決めてからやる。
仕事においてはかなり当たり前のことです。特に今私が多くかかわっているような自治体関連の仕事においては。
最終形態とそこまでのプロセスを決めてから実行していく。
すごく効率的なようにも想えます。場合によっては実際に効率的なんだろうとも想う。
でも、「おもしろいこと」はできないように思うのです。決めてからやっていると。
だからとりあえず、小さくやり始めてみる。何をするのかは、やりながら決めていい。
「決める」ことより「始める」ことの方が大事だと思います。
特に直感で「やりたい」と思ったことに関しては。
いろんなことを、もっとやりながら決められるようになったらいい。
それを見守れる社会になったらいい。
でもたぶん、どんな人にも「さあとりあえずやってください」とはなかなか言えないと思う。
感覚を信じられないと、「まあじゃあとりあえず最終的に何をするか決まってなくてもこの場所使っていいですよ」とはならないかもしれない。
だから、「やりながら決める」が許されるように、感覚を信じてもらえる人になろうと思う。
私の「スキルや経験」じゃなくて「感覚」(この言い方にまだしっくり来ていない)をを信じてもらいたいと思う。
たぶん、「スキルや経験」への信頼だと、その人に期待することは事前にわかる「保障」。
「感覚」への信頼であれば、予想外のことが起きる可能性もあるけれど、受け入れる。
そうかあ、予想外のことが起こる余白がほしいのかもしれない。
「やりながら決めたい」のは、「予想できない」からでもある。
なんで予想できないかっていうと、それは予想できないものの方が面白いからかもしれなくて、
でもなんでそもそもやるのかっていうと、「おもしろさのかけら」みたいなものをそこに感じるからで、
それを感じている私の感覚を信じてほしい!っていう、そういうことかな。
「安定な時代はおわった!」ならば、
もう少し予想できないことを大事にして、「最初に決めたものがずっと続く」ということを求めない方がいいんじゃないかなあと思います。
この人の感覚は信じられるなあ、という人が何人かまわりにいて、私はとても幸せもんです。