こどもたちと何かをやるということ
蒸し蒸し暑い、7月28日。
この日は、ちょっとしたチャレンジの日でした。
金曜日でしたが仕事はちょっとお休みして、
「寺子屋キッズ」という企画を手伝ってきました。
4月に引っ越してきて作ったシェアハウスのたまたま隣のビルもこの春からイベントスペースのような形でオープンしました。その運営をやっているのが武石さん。
今回の企画も武石さんの主催で、わたしとシェアハウスのもう一人の住人を誘ってくれました。「何か一緒にできないかな?」と。
小学生が夏休みの1日を使っていろんな体験を1日でする、というもの。
宿題もやり、工作もやり、料理もやり、、、その中のひとつとして、私たちはシェアハウスの近くに作っているコモンリビングというシェアスペースの壁を小学生に塗ってもらうことにしました。
小学生たちと絵を塗る企画をする。これだけのことですが、予想・想像できない部分がありすぎて、準備からどきどき、そわそわ。
ただ筆で書くのではなく、いつもはそんなふうに使ったら怒られてしまうだろうものを使って、自分で使い方を考えてもらおう、という風にしました。
たまたま仕事もちょっと忙しくて、合間でなんとか準備。
当日集まった小学生たちは、10人。1年生から5年生まで、男女も半分半分です。
まずは自己紹介。小学校の名前と、自分の名前。なんねんなんくみかも。
ちょっと緊張気味の皆さん。ついでに、「24歳のいのうえゆき」もちょっと緊張。
名札をつくって、次にやるのは夏休みの宿題ドリル。これは塾の講師をやっていたわたしにはむしろ緊張のほぐれる時間。
集中力の続かない男子たちは、秘密基地を作り始めてました。
40分ほど宿題をして、その後は好きな紙で「箱作り」。
好きな紙を選んで、さあスタート。
やり方は武石さんが教えてくれるけど、ついていけたり、いけなかったり。
はさみ、のりも使うのは順番。できなくてもいらいらしないでやる。
7歳でも9歳でも、言葉選びは変わっても、態度というか話し方や接し方は、わたしはわりとどんな人も変えないでやります。
自然な方が、自分も疲れないしね。
一人の一年生女子が、だんだん甘えてきました。(というか私を使ってきた)
箱が完成したら、おひるごはんづくり。野菜を持ってきたのはわたしで、前日にお世話になっている地域からもらってきたもの。
「これはなんでしょう?」
「…ズッキーニ!」
「こうやってできるものはなんでしょう?」
「なす!なす!」
絵とそのものを見せて話しながら今日のメニューも教えます。
女の子たちは、となりのわたしたちのシェアハウスで料理の手伝い。
なんだかみんなおそるおそる入ってきて、ずっと静かでした(笑)
小学生にはなじみづらい場所かもなあ。
ワームに戻ると、包丁で手を切った子がいて、ちょっとした騒ぎに。ばたばたと対応しながらもできた料理を並べ、(茨城から遊びに来ていたかずしくんも合流)
なんとかごはんスタート。
ズッキーニとなすの炒め物。
そうめん。
ポテトサラダ。
シンプルだけど、美味しくて、
ごはんを食べながらだと、4年生のちょっとおませな女の子たちもいっぱいしゃべってくれました。
そうして次は、いよいよペンキ塗り。
ポリ袋で作った即席作業着を着て、みんなでコモンリビングに向かって出発。
みんなで街中を歩くのがかわいくて楽しかった。
ペンキ塗りは、どうなることかと思いましたが、
はじまって30分で壁も、みんなの手も、絵の具置き場もすごいことになりました笑
みんな「解放された!!」って感じで。
わたしも若干解放されてしまいました、つられて。絵の具を手に塗りたくって壁に書くなんて楽しいよね。
使う道具は、筆以外。笑
私たちも思いつかなかった使い方をしていて、やっぱりこういうのが面白い。
最後はきゃあきゃあ言いながら手や足をふいて、集合写真を撮って、おしまいです。
終わった後は、疲れとものすごい充足感。
いやいや、やっぱりこちらがもらうものが多かった気がします。
単純に、かわいい。笑 癒し。笑
たぶんすごく子供たちにとっても大事な体験だったと思う。ひとつひとつが。
こどもたちにとって「体感する」ということの大切さをものすごく感じる。
もと保育士のかおり先生がすごいなと思ったのは、子供たちに伝える言葉のチョイスだったのだけど、それだけ、こどもたちには伝わるための言葉が少ない。
だからたぶん、「ことば」以外で知ってもらう必要があるんだと思う。
自分たちが食べている野菜がこんな形をしているんだということ
包丁を指で切ると痛いということ
絵の具を歯ブラシで書くとこんな線になるということ
思いっきり絵の具で遊んだあとは体を洗うのが大変だということ
自分の思いつきをやってみると予想とは違うということ
でも予想とは違っても何か快感だということ
兄弟でも先生でも親でもない大人がこんな表情をしているということ
全部、「ことば」じゃない、「体感」したものとなって彼女たちのどこかに刻まれていく。
どこに刻まれたかもわからないし、その刻みを思い出すことはないかもしれない。
でもそれでいい。
思い出さなくても、その刻みはたぶんその子たちを作っていく。
そんな、ひとつの彫刻作品が作られていく途中にひと刻みだけ刻んだような、それだけの行為なのかもしれない。こどもたちと何かをやるということは。