コメタクは「暮らし」
2016年4月26日のブログ*
ちょっと前に考えたこと。
やっとここに書けるくらいには、前を向けてきたかな。
新潟を離れた3月末。
ツルハシブックスとコメタクと内野にどっぷりだった日々から、家族と大学と就活な日々に移行しなきゃいけない3月末。
そんな3月末は、思ったよりきついものでした。
新潟を離れる前は、コメタクがやりたすぎて、
「東京行っても変わらずコメタク続けてやる!」「通ってできるかもしれないからやってみてやる!」と
それが私が「コメタク」の一員として貫けることだと信じていました。
ところが、
あれあれ、なんかしんどい。
内野が、内野の暮らしが、さくらちゃんとあいりちゃんが、
遠い。遠い。
物理的に遠いのではなくて、感覚的に遠い。コメタクをするためにいつも持っている芯の部分というか、コメタク感、みたいなものがするすると無くなっていく感じ。
あれあれ、なんだこれは。
もやもや、もやもや。
そしてある日、就活やら他のことで都心に行くために、
満員電車に揺られながら、
ぴーーん、と気付きました。
そういえば、コメタクは、何をしたいんだっけ。
暮らしの中に、好きと隙を作りたいんだった。
暮らしの中に。
暮らしの中に。
コメタクは、暮らしの中にあるもの。
そうだった。東京にいながら内野のコメタクのことをやるのがきついのは、
暮らしの中じゃないからだ。
コメタクは暮らしだった。
なら、内野でしかできないわけじゃない。
むしろ、東京で、例えば私の住む調布で、
コメタクをやることが「コメタクは暮らしだ」ということを表現できるのかもしれない。
そんなことを考えています。
西田さんやさくらちゃんあいりちゃんに話したら、うんうん、しっくり来ていた様子。
そしてその始める時期は、たぶん調布での「好き!」が見つかった時だと思うから、
気長に待ちます。またぴーーん!と来る時期が来るはず。