おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

長期的にラクになる

前に、「人のつくられかた」に興味があるというブログを書いた。今回は、それがちょっと更新された話。

自分の信念・行動の根源的なテーマはなんだろうとよく考えていて、最近はそれがわりとずっと「無償の愛」だったのだけど「愛」というとちょっと重たく伝わってしまうときもあるので、なんなんだろうな~ときまぐれに言語さがしをしていた。

 

インターンのコーディネートの仕事をしていて、プライベートでもシェアハウスにいて、迷えるor岐路にいる大学生たちとたくさん出会う。その子たちの変化や無変化のそばにいる。

 

キャリア支援という言葉も、教育という言葉も、なんだか私の興味のどまんなかにはしっくりこなくて、じゃあなんなんだろうとずっと考えていた。

この3年くらいで、うわーこの子は良い変化があったな、という子には何人も出会ったけど、みんながそうなるべき、と思うのもなんだか違和感で(そもそも他人に変わるべきとか思いたくない)、でもその変化のきっかけに関われたことは嬉しかったのだった。

「自分なりの幸せを見つける」「自分らしい生き方を見つける」「自己肯定感をもつ」も、近いけれどちょっと違う、もう一歩。

 

昨日は大学生に向けた説明会だった。イナカレッジのプロジェクトはなかなか全体像と意義を説明するのが難しくて、毎年考え直している。でも毎年考え直すくらいじゃないとだめなんだよなあ。

自分がわからなくなったり、誰の期待に応えればいいのか分からなくなったり、素直になるのが怖くなったり、賢くやろうとしてひねくれたりこじれたり、そもそも一定の状態を保つことなんて不可能な、まさしく変化の連続である大学生という時期。

私はなんのお手伝いをしているのだろう。

大学生がどうなるお手伝いをしているのだろう。

 

そう思った時の、今の一番のしっくりくる言葉はこれだった。

「長期的にラクになる」お手伝いをしている。

もちろん、「今、ラクになる」もとても大切にしたいことだけど、その話はちょっと置いておく。長期的って何年くらいだよという話ではなく、自分が計画を立てられないくらいには長い期間のことかな。

 

思えば、私が新潟でした原体験としての変化もそれだった。

 

「どうなるかわからない時代」と言われる。それに関してはわりとどんな人たちも同意だと思う。

「どうなるかわからない時代」で生きていくのに必要なのは?

学校でいい成績をとることでも、ビジネススキルに長けて起業できることでも、

影響力やカリスマ性があってたくさんの人に注目されることでも、

年収が高くて有名な会社で働いている人と結婚することでも、

内定をいくつももらうことでも、

やりたいことが早くわかって逆算して計画を立てられることでもない。と思う。

 

必要なことは、自分をどんな状況にも対応可能にしていくということ。どんな状況でも、それなりに自分を満足させて、ご機嫌に心地良くいられるようにするということ。

私が新潟で得たのは、そういう状態だった。資格もスキルも得ていないのに、長期的に見てラクに生きていけるための要素を得た。

 

自分をどんな状況にも対応可能にする要素はどんなものか。もう少し具体的に書いてみることにする。長くなりそうなので、思いついたものから(笑)

ちなみに、その要素を身につけるために有効な一歩も書くことにする。

①自分の生活を自分で楽しめるものにすること

もう、これは本当に自分の身を守る。ようは、なんでもない毎日のくりかえしの中で、楽しみを見つけられること、かつ自分の手でつくっていけること、だ。

料理でもいい、掃除でもいい、インテリアでもいい、

朝でも昼でも夕方でも夜でもいい、

田舎でも都会でもいい、

1人でも友達とでもいい、

自分の「好きな」時間や道や家具や味を見つけること。

見つけて、私はこれが好きだな、と思うこと。

その「好き」に触れている時間を少しずつ増やしていくこと。

不幸や失敗、疲労に頭がとらわれてそんなことに気が回らない、という状況もあるかもしれない。でも思い続けること。

見つけられてきたら、次は自分でつくってみること。

DIYして自分で棚つくったり壁塗ったり、新しい料理を覚えたりドライフラワーをつくったり梅酒を漬けたりすること。

そんなことをしていると、なにかが不便だ、つまらない→「買えばいい」「動画見よう」と消費的に楽な思考停止をしてしまうのではなく、創造的に考えるようになってくる。

案外、自分の生活は楽しいことだらけだなあ、とわかると本当に一生生きていける気がするのだ。

どういうことか全く分からない人は、融通の利く大家さんの空き物件で友達とシェアハウスをつくってみるといい。もしくはそういうシェアハウスに遊びにいくといい。

長岡と内野なら紹介できます。笑

 

②よりどころ&頼れる人を増やすこと

これも、めちゃくちゃ有効。よりどころというのは、安心できる空間やコミュニティだと思うのだけれど、これは「種類を増やす」ということが大事だと思っている。

ようは、1種類じゃないということ。多様だということ。

家庭のことは家族だけ、仕事のことは会社の人だけが関わるというのもその構成メンバーがダメになったときのことを考えるとリスクだし、予想外のプラスなことが起きる可能性も低くなる。

ようは、血縁・仕事でのつながりではない「第三の」関係を負担なく増やせるようになると、長期的にとても楽だ。

もしものことがあれば頼れる人がいること、頼れる空間があることは、なにも無い時の心の安定にもなる。

新潟で生まれ育ったわけではない私が、大学時代も含めて丸3年間やってこれているのは、すべてそうした人がいるおかげだ。食べ物をつくれる人、建物や道具をつくれる人、知恵を蓄えている人、文化や作品をつくれる人、答えのない問いに向かって一緒に考えられる人、私を慕ってくれる人…

大企業に入っても、東京で働いても、多様な人には出会えたと思う。ただ、得たい関係も「自分で選べている」のは、今の環境ならではかなと思う。

今後大切になってくる関係だからこそ、偶然とのかけ算ではあるが、出会った後それを続けるかどうかは自分で選びたい。

こういうことをかきたかったんだっけ?まあいいや。

とりあえず2つあげましたが、まだあります。③は自分を知ること、かな。

今回はとりあえずここまでで…

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 (梅の木管理はじめました)

 

 

 

 

 

 

 

 

発酵に学ぶ

5月1日。令和になりました。

長い長いゴールデンウィーク…になるまでブログを書けずにいて、ちょっと悔しい。また1カ月空いてしまったー。今年も走りに走る年になりそうです。

 

さて、先日、長岡でトークイベントがありました。社会情報学者のドミニク・チェンさんを迎えた、「発酵とまちづくり」をテーマに長岡のこれからを考えて行こう、というトークイベント。

昼間、とっても晴れてあたたかく、公園でピクニックしたら日光のあたりすぎか少し頭痛い中での参戦(笑)

 

ドミニク・チェンさんは社会情報学を研究し、早稲田大学の教授でもある方。

wired.jpウェルビーイング」(幸福度?というような意味合い)の研究もしていて、こちらの記事もとても興味深い。「ぬか床」を研究もしているという、なんだか一言ではやっていることを説明できないような方でした。

 

今回のイベントは、そんなドミニク・チェンさんと「体験ギフト」を提供しているソウ・エクスペリエンスの関口さん、そして長岡造形大学の理事長、水流先生の3人の対談がメイン。

www.sowxp.co.jp

ちょっと頭痛かったのもありメモもとっていなかったのですが、ドミニク・チェンさんの話が面白かったので2つほど記録がてらこちらに書きます。

 

1.必要ない菌が必要

 

ひとつめは、ひょんなことから「ぬか床」に魅了され、マイぬか床をめちゃめちゃに愛しながら発酵の研究もしているチェンさんが、発酵デザイナーで有名な小倉ヒラクさんとたどり着いた最近の研究結果のこと。

 

「ぬか床における発酵とは、主に乳酸発酵のこと。これには乳酸菌が一番大切で、そのほかの乳酸発酵に必要ない菌はまずはだんだん減っていく」

「ピクルスくらいの発酵状態では、とにかく必要ない菌は減っていくが、」

「熟成したぬか床には、乳酸発酵のためには必要なかったはずの菌たちがまた増えてきている」

「これらの『乳酸発酵に直接必要なわけではない菌』たちも美味しさに一役買っているのでは」

という研究結果だった。

これは確かにおもしろい。「まちづくりと一緒だ」って結びつけることにもはや少し飽きてきたけど(笑)、でも多様性ってそういうものだ。

「直接必要かどうか(価値があるかどうか)わからないものが共存しているということ」。だと思う。

まちも本当にそう。人生もそう。仕事ができる人ばかりじゃなくていい、お金稼げる人ばかりじゃなくていい。失敗しちゃった人とか、苦悩した人とか、人としゃべるのが苦手な人とか、もっと言えば日本語しゃべれない人とか、勉強できない人とか、子供いない人とか、全員、いていい。いた方がいい。

それでみんなが完全に自分勝手に生きるんじゃなくって、少しずつ手をさしのべたり歩み寄ることで、美味しいぬか漬けみたいなものができるんじゃないだろうか。

GSシェアハウスやイナカレッジはそういう人たちが来れる場所にしたい。

そういう弱い部分を持った人が、「ここなら居れる」という場所がいくつもあるまちでなければ残っていかないと思う、文化も人も。

「管理しきれないことが大事」という言い方もしていた。「管理すればいい」って考え方が逆に危険なのかもしれない。

 

2.自分の心も生態系

もうひとつ、チェンさんがそんなに長くは話さなかったけれどとても印象に残っている話がある。

それは、「同時に多様な感情を感じたほうが幸福」という研究結果のこと。

だから、to do リストじゃなくてto feelリストを作った方が面白いんじゃないかって。

「あー最近恥ずかしいって感情抱いてないな」って思ったら恥ずかしい感情を感じられるようなことをする、みたいなのがto feelリストらしい。

「自分の心も生態系でぬか床みたいなもの」ってことかあー。面白い。

なんというか、負の感情、悲しいとか辛いとか寂しいとかって、感じなければ感じないほど幸せかと思いきや、そうじゃないんだ。

負の感情が深く味わいある音楽や映画などの作品を生むように、それがある方が熟成された良い心をはぐくむのかもしれない。

まあ、実際「恥ずかしがりにいこう!」「寂しくなりにいこう!」というのはちょっと不自然というかそれはもう少し偶然でいいのかもしれないけれど、

たぶん、心を動かさなくなる方の方が問題なんだ。ひとつの感情にとどまっていることの方が不健康なんだろう。

そんなこと言われたら、目の前のすべてのことが少しだけ怖くなくなる気がする。だってどんな感情を抱いたとしても、自分の心を熟成させることにはつながるんだもの。

ずっと負の感情は嫌だけど(私の場合それはなさそうだけど)、負の感情も受け入れられるといいな。

 

***

 

結局発酵って、人間のすることは「環境をつくって待つ」ことだけ。

発酵という現象が起きて発酵食品ができるのって、ほとんど自然の(菌の)チカラ。

これは私、地域でのプロジェクトや大学生のサポート(キャリア的なこと)をするときにもとっても共通することだなと思っている。

環境をしっかり整えれば、あとは一人の人間のチカラで何かしようと思わない方が、環境(ぬか床)の中ののたくさんの要因が絡み合って関わって素敵なものはきっとできる。

だからこそ「環境」は大事で、そこはしっかり質のよい環境にする。プロジェクトだって、人生だって、学生生活だって、きっと何をするかそのものより「まわり」が大事だ。

何をやりたいかが分からなくても、良い環境の中にいれば、つくっていれば、いつか発酵という現象は起きる。

それを令和はもっと実現して、もっといろんな人と共有できるといいな。

 

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(西会津で食べた、おかゆのおとも)

 

 

25歳のおばあちゃんになる

4月に、なりました。どこか他人事のように自分の人生が進んでいくような気がしている。2,3月は来客が多くて、常に走っている日々でした。合間に心から感動する瞬間も楽しくて大笑いする瞬間もたくさんありましたが。

 

前回のブログの続きみたいなことがまたテーマかも。

2月、3月、いろんな大学生や来客が長岡に県外からやってきました。

1泊以上シェアハウスに泊まり、私が案内役になって車でどこかへ連れて行ったり誰かに頼んで連れて行ってもらったりした人は、全部で10人以上。

休学する人しない人、経済学部の人人文学部の人、田舎育ちに都会育ち、映画好きに音楽好き。それぞれみんな違います。

居心地が良くて自然で話がぴったり合うーー人ばかりじゃありません。完全にずれている人はいないけれど、違うリズムに疲れることもあります。

それでも淡々と、フラットに、自分が疲れすぎないように、でもその人にとって素敵な旅になるように、過ごします、動きます。

 

それは、ただ一緒に時間を過ごすということが決まっている人に対して、評価や判断をしたくないから。

仕事を一緒にしたり、何かアクションしたり、遠くにいても関係を続ける上では、「その人がどんな人か(自分の好きな人か)」はとても重要だけど、

「一緒にいる」時間そのものがあるなら、もうそれだけでいいのです、ほんとはたぶん。特別な感情はいだかない。(もちろん嬉しいな、いいこだな、好きだな、と思うことも多いということをふまえて)

 

上司が最近、ある「農村への外部人材活用」の研修にパネラーとして出た時、荻ノ島集落の素晴らしい区長さんと一緒になって強く言ったのは

「役にたつかどうかで外から来る人を判断していたら本当の受け入れはできない」

ということだったそう。

もうこれ、本当に真理。イナカレッジの真骨頂。これがすべての土台。(めちゃほめる笑)

あと、「そういう機会に置いて大事なのは70歳以上のおばあちゃん」ということも。

これも本当にそう。

若者と農村、相互に「活用しあおう(自分にとって役にたつかどうか)」としてつくられる関係にそんなに未来はないと思う。

若者にとって大事なのは、本人たちは気づいてないかもしれないけど、「無償の愛」のようなものでつつみ存在ごと受け入れてくれるひとや場所や文化なのだ。

それをムラの世話好きばあちゃんたちは、無意識に提供している。笑顔ひとつ、声かけひとつ、行動ひとつで。

 

ただ、そこにいる。ごはんがあったから一緒に食べる。星がきれいだから見に行く。どんな人でも、親切にする。

どうせ新潟に来るなら、農村じゃなくてもそんなイメージをもってシェアハウスに迎え入れたいなあと思う。

そのうえで心地良いと思ったらまた来ればいいし、自分とは違ったなと思ってもいい。

そんな、25歳のおばあちゃんになりたいと思う。

(過去のインターン生たちに対しても最近母みたいな気分で見ちゃう笑)

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(温泉へいくある日のシェアハウスの住人。正規住人は6分の2)

 

 

 

「誰でもいい」というやさしさ

2月が終わりました。笑っちゃうくらいわかりやすく晴れている日が続いて、THE雪国の春。布団を干せるのが嬉しくてたまりません。

また、最近考えてることをつらつらと。

先日、インターンフォーラムという新潟県内のインターンシップに関する団体や大学、大学生が集まるイベントに、元インターン生の工藤君が来てくれた。

そして、その時の工藤君の言葉(その一週間後のイナカレッジのイベントでもですが)に、とても感銘をうけまして。

「成果をだすかどうか、能力がどうかじゃない自分を受け入れてもらったことが、大きかった」

それが、自分の感情とぐるぐる向き合うための土台になったそう。

 

その工藤君の言葉を聞いて、しばらくその言葉が頭の中にあった。

 

そして、その後川口地域の雪洞ほたる祭りで手伝いをして、新たな気づきが。

 

牡蠣などを売る屋台で忙しくお手伝いをしたのだけど、それが久しぶりにとにかく体を動かして、淡々と目の前の人の役に立つ感じがとても心地よかった。

もうそりゃあ、次から次へと人が来て。メニューも10種類以上あって。人が3人以上いないと到底回せない状態。

大学生も上司も一緒になって、とにかくお客さんの対応をして、補充をしたり牡蠣を焼く店主のアシストをして…気づいたら1日が終わっていた。

前回のブログでも出てきた舞夏も、疲れつつも楽しそうにお手伝いをしていた。インターンでやってもらう「自分の気持ちを伝える」とか「文章を描いたり自分なりのアウトプットをする」とかの仕事とは別の種類のこの作業があってよかった、と何故か思った。

 

ふと、まきどき村という畑と朝ご飯の会をやっている唐澤さんの言葉を思い出す。

「普段はコミュニケーションがとりづらい人でも、田植えや稲刈りだと大切な人手。必要ない人はいないから、一緒に手を動かしてなんとなく仲間になる。」

それが昔のコミュニティであり、村だった。

たしかに今は「なにができるか」「どんな人か」「個性はなにか」に注目しすぎているような気もする。

誰でもいい仕事はできるだけロボットがやればいいという風潮になっているような気もする。

けれどもしかしたら、単純作業なんだったら人間がやらなくていい、という判断はちょっと危険なのかもしれない。

そこには、ある意味で承認欲求が満たされるなにかがある。

 

なんだか矛盾しているようだけど、「あなたが誰なのか」が大事で、「あなた」に合わせて暮らしかたも働き方も恋愛の仕方も変えられる世の中では、同時に「あなたが誰であろうと」受け入れられる場がなくてはいけないのではないか。

そして、例えばとにかく大勢で手を動かす稲刈りや、DIYや、いるだけで一員になる田舎や農村がそういう場になれるのではないか。

 

私はどちらかというと人を選んでしまう方で、自分の感覚で好きだと思う人たちと一緒にやろうと思ってしまう。

それはそれで必要なのだけど、同時に「誰でもいい(部分もある)」というやさしさにつつまれているような機会をつくりたくもある。

「あなたが今ここにいるから」という理由だけで十分だ、と言いたい。

何十年も母をやった、ムラのおばあちゃんからはそのやさしさがにじみでているのかもしれない。

私もそんなおばあちゃんになりたい。

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(あめちゃんの絵)

 

こじれ心の処方箋

なんと、1月一回もブログ書かなかった…Twitterでは日々気づきを言葉にしてはいるのですが。

連載をやっていたのもあるかもしれませんね。という言い訳。

 

さて、2月半ば。今年は去年の辛さがうそのような、雪の少ない年です。

去年の今頃は毎日車を出すのが怖くて、水道も凍るし毎週、「今週はどうなることやら…」と思っていました。

でもシェアハウスのメンバーたちが一緒だったから寂しくはなかったけどね。

 

今は、シェアハウスにイナカレッジでインターンをしている舞夏ちゃんが住んでいます。前から友達だったのですが、夜な夜ないろんな話をしたり一緒に行動するのは初めて。

就活前の舞夏は、いろいろな人と会って仕事の話を聞いたり自分を掘り下げたりすることもひとつの目的で、「自分を失わずに仕事ってどうやって見つけるのがいいかなー」みたいなことを話してもいます。

そんな舞夏が振り返ったひとつの自分の姿が「人と比べてしまう」ということ。

そして、「承認欲求がある」ということ。

すごく、よくわかる。少し前の私を見ているみたいです。

 

他人からの目を気にすることの度が過ぎると、自分のゾーンを守りすぎる方向に走る。

ようは、良い方へも悪い方へも「自分はこう」というイメージを固定して、「自分と違うもの」は排除し、「自分と同じもの」の中で生きようとする。

この状態をある言い方では、「こじれる」と言っている気がする。

「こじれ心」自体は嫌いではない。とてもリアルで、誰の心の中にも少しはあるものだと思うから。その存在を理解していない人は、世の中のドラマや映画もつまらなく映ると思う。

 

「承認欲求」も「こじれ心」と近いところにある。けれど少しこじれ心より素直になっているかな。「誰かに愛してほしい」と自分の欲求に気づいている時点で、少し素直。

この、「素直になる」ことの大切さが、頭ではわかるけれどなかなか難しい。すぐに人はかっこつけたくなるし、隠したくなるから。

こじれた男子は早く素直になることの大事さに気づかないとやばいらしい。笑

(詳しくは若林の「ナナメの夕暮れ」読んでほしい。おすすめ。あと朝井リョウの「何者」もか)

どうしたら素直になれるだろう。素直になれ、と言われたらなれるものではない。

あの、ひとり暮らしアパートで仕事で疲れてSNSキラキラしてるから目をそむけて予定がなくて動画見ちゃうみたいな、鬱々とした感情を、どうしたら少しでも「素直な」エネルギーにできるだろう。

(もちろんできないときがあってもいいんだけど、3回に1回くらいはそうなっておかないといつか本当に煮詰まる気がする)

 

その方法は、一時的なものと長期的なものの2つあるんじゃないかと思うのだ。

 

1.一時的な処方箋

 

まず、鬱々とした気持ちを一時的に直すには、変な心の消耗をせずに自分を「癒す」ことが大事だと思う。

誰かじゃなくて、自分に集中する。それも、自分の能力とか感情とかそういう部分じゃなくて、自分が今まさにやることや五感で感じていることに集中する。

たぶん、恋愛系のことを考えるのはちょっと危ない。笑 居酒屋や女子会、意識高いイベントも危ない。(それ行けたら逆にもう素直にはなれてるか)

坂口恭平さんが最近出した「cook」という本はひとつヒントになると思う。

料理は鬱に効く。と言っている本だ。

たしかに、ちょっと疲れているけど一品でいいから、あるものでいいから料理をしてみると、できあがって食べる頃にはなんだかちょっと自分がプラスのエネルギーで満ちている。

これは私もこの2年間で痛感している気がする。

あとは、好きな映画、詩集、温泉、展示、裁縫、手紙を書く…そういう、ただ消耗するものではない私の好きなもので自分を取り巻く。

たぶん、走る!とか泳ぐ!とかもいいんだろうね。散歩も、めちゃくちゃいい。

自分にとって、最後にはなんだかちょっとすっきりすることを具体的に覚えておくのが、自分という一生一緒にいる存在をうまく操縦するコツなんじゃないかと思う。

もちろん時期や年齢によっても違うとは思いますが。

2.長期的な処方箋

一個目の話がだいぶサラリーマンの夜の過ごし方みたいになってしまったけど、元々就活前の大学生の話だったんでした。

長期的に、こじれ心に効くのはなにか。

それは、「自分のお客さん」を見つけることだと思う。

 

また抽象的な…とか、難しい…と思うことかもしれませんが。

でもようは、〇リーズがコーヒーを頼んでくれるお客さんのことを考えずにド〇ールより上にいこう!と競ってしまうのと同じ。

私が「なにかしたいな」と思える相手に、なにかを届けようとすること。その行為は本当に長期的な処方箋だと思う。

お客さんはどこにいるか。まずは、自分の過去を振り返ること。

自分が救われたと思う経験や、力になれたと思った経験などを思い返してみると、

「一人暮らしの大学生に暮らしの楽しみ方を届けたい」とか

「子育て中のお母さんにチャレンジの場を届けたい」とか

「旅行する人にもっと楽しむ選択肢を増やしたい」とか

最後にはそんなふうになる種が見つかる(ときもある)。

今の自分のお客さんが一人でも見つかると、不思議とあんまり他の人と比べなくなってきたりする。他の人は他の人のお客さんがいるし、自分が見るべきは自分のお客さんのことだよなーと思う。

 

ちなみに、「承認欲求」タイプの人は、愛されていると勘違いする術を見に着けるか、田舎にいっていっぱいおばあちゃんたちに優しくされるのがおすすめです。笑

 

 

 

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2018年出会った映画

さて、2018年最後の日です。

高校時代の友達や大学時代の友達に久しぶりに会って、私の生活とのかけ離れ感をひしひし感じる年末(笑)

でもそれぞれに今の生活の中に楽しみや生きがいを感じているならそれがいいなあと思いながら実家でこれを書いています。

 

さて、今年もたくさんの良い本や映画に出会えました。特に映画がこんなに私を支えたり励ましたり良い刺激をくれたのは今年が一番かもしれません。

というわけで、今年良かった映画と本のTOP5(5におさまれば)を記録しておこうと思います!

ベスト5じゃなくTOPです!!この中で優劣つけるのは難しいので…

 

今年出会った、良かった映画TOP5

万引き家族(2018)

②彼らが本気で編むときは(2017)

③グレイテストショーマン(2017)

④あん(2015)

日日是好日(2018)

 

なんと3つに樹木希林さんが出ている…今年お亡くなりになったこともあり、さまざまなところで顔や過去の作品や言葉を見ましたが、本当に好きです。日日是好日とあんでは、樹木希林さんの役のような人生の師匠に出会いたくてたまらなくなりました。というかもう画面の中の二人の役は私の師匠にもなりましたが。

季節を感じるすばらしさ、意味ではなく身体で覚えるということ、食べ物とその素材の声を聞く大切さ、、、全部私の人生の指針手帳に書いておきたいです。

 

万引き家族と彼らが本気で編むときは、は家族ってなんだろうという今年一番考えたかもしれないテーマにも重なり、大好きな作品。社会では少し不利というか弱い立場である人たちが、本当の家族をつくる存在になり得るかもしれないということ。

そして本当に泣けます。いい涙が出ます。

 

グレイテストショーマンは、私があまり親しみのなかったミュージカル映画の扉を一気に開いてくれました。これは頭でなく耳と目と体で楽しむ映画。かつストーリーからにじみ出るメッセージも素敵で、固定概念を覆されました!

 

せっかくなので、TOP10なら入ったかな。という残りの5作品も…(書きたいだけ)

⑥リトルフォレスト(2015)

⑦転々(2007)

南瓜とマヨネーズ(2017)

メゾン・ド・ヒミコ(2005)

君の名前で僕を呼んで(2018)

 

リトルフォレストはマンガしか読んでませんでしたが、やはりめちゃくちゃよかった。たんたんとしていて、一人で食べてる感じもまた良い。季節のてしごとをしたくなったよー。

あとの作品は知り合いに勧めてもらって見たんですが(今年、いろんな人に好きな映画を聞いてました。結構楽しい話になる)、どれもおすすめ・・・比較的一人で見るのがおすすめです!!笑

ちょっとせつない映画ばかり。屈折した感情っていいですよね…

 

映画は、辛い話も悲しい話もあるけれど、どこか救われるところがあります。

音楽、言葉、表情、しぐさ、風景…いろんなものが新しい材料として私の中に飛び込んできてくれるというか、普段の生活の中だけでは出会えないものと出会えるから素晴らしい。きっとどこかで仕事とか考え方にも良い影響を与えてると思うんです。

 

そして、繊細さやあいまいさに出会える映画は意外とマイナーな映画だったりもするので、よく知ってる人に聞くのが一番。

来年も良い映画に出会えるのが楽しみです。

 

年明けたら、本編と音楽編も書きますね。

皆さま、良いお年をお迎えください!

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(今年最後の映画、ジョゼと虎と魚たち。これもめちゃくちゃよかった。)

 

 

世界がなにでできているか

最近、本業のにいがたイナカレッジの方で連載をしている。

テーマは、「挑戦するな、実験しよう」。新しい道を選ぶ前の大学生・若者が目的や評価に縛られないようなメッセージとして書いているつもり。

inacollege.jp

この連載を始まる前からずっと、田舎や地域に来て何が得られたかなーーというのは考えていた。私も都会育ちで田舎にやってきたから。

それはそれはたくさんあるのだけど、それは田舎だったからか?地方だったからか?と言われると、必ずしもそうじゃないよなーとも思う。

でもその中で比較的地方ならではのものをひとつ、思いついた。

 

それは、世界が何でできているかがわかっていく、ということ。

 

学びの本質だなと思う。大人になるということだとも思う。

あるものを構成しているもの、作っているものがわかっていくということ。

 

味噌が大豆と麹と塩と時間と菌でできていること。

お米を作るのにこんな行程が必要だということ。

車の部品を作る工場がこんなところにあるということ。

こんな服やこんな顔の人がこんな仕事をしているということ。

あらゆるものをつくるのに誰かから誰かへお金が支払われているということ。

 

それを、教科書でもインターネットでもなく、目の前の風景や音や表情でより知れるのが、地方・地域・田舎だと思っている。

そしてその知識はとてつもなく強い。

 

東京で育った小中高大学時代。友達のお父さんはほとんどサラリーマンで、家のまわりに田んぼや畑はなく、ほとんどすべての食べ物や服などはお店で買う。

ずっとわりと天気がいいから、雪かきもたいしてしたことないし、電車と自転車で行けないところなんてほとんどない。

 

でもおばあちゃんちに行ったり旅行に行ったりして、あとは田舎に住んでいる人の話を聞いて、なんとなく雰囲気的には知った気になっていたけど、実際にじわじわとそういうものが直接わかっていくのとは全然違うのだ。

やっぱり地方(新潟)で育った子は、じわじわなんとなく、そういったことが分かっているような気がする。だってすぐに田んぼや畑も目に入るし、友達のお父さんにもいろんな仕事をしている人がいそう。(場合によるかもしれないけど)

あとはだれだれさんが作ったお米届いたとか、この季節にはこれをよくおすそわけしてもらうとか、そういうことが自然と取り巻いている。

 

物質てきなことだけではない。こういう取り組みをやるにはこんなに大変なもどかしいやるせない気持ちがあったのかとか、表に見えている部分の裏に、奥に、何かがあるのだということがわかっていくということ。

それはものごとを一面的に見ない、表面的に見ないということにもなっていく。

 

そして、世界が何で作られていくかがわかっていくと、次に湧いてくるのは、「じゃあ自分はどう作ろうか」という気持ちだ。

つくっている人を見る、知る、話すと、自分も何かをつくりたくなってくる気がしている。同じ分野ではなくても、自分の分野ではどうつくろう?と。

「つくられかた」を直接知る。このことの重要さがもっと届けばいいなあ、と思う。

 

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(焼き鮎はこうやってつくられてます。笑)