こじれ心の処方箋
なんと、1月一回もブログ書かなかった…Twitterでは日々気づきを言葉にしてはいるのですが。
連載をやっていたのもあるかもしれませんね。という言い訳。
さて、2月半ば。今年は去年の辛さがうそのような、雪の少ない年です。
去年の今頃は毎日車を出すのが怖くて、水道も凍るし毎週、「今週はどうなることやら…」と思っていました。
でもシェアハウスのメンバーたちが一緒だったから寂しくはなかったけどね。
今は、シェアハウスにイナカレッジでインターンをしている舞夏ちゃんが住んでいます。前から友達だったのですが、夜な夜ないろんな話をしたり一緒に行動するのは初めて。
就活前の舞夏は、いろいろな人と会って仕事の話を聞いたり自分を掘り下げたりすることもひとつの目的で、「自分を失わずに仕事ってどうやって見つけるのがいいかなー」みたいなことを話してもいます。
そんな舞夏が振り返ったひとつの自分の姿が「人と比べてしまう」ということ。
そして、「承認欲求がある」ということ。
すごく、よくわかる。少し前の私を見ているみたいです。
他人からの目を気にすることの度が過ぎると、自分のゾーンを守りすぎる方向に走る。
ようは、良い方へも悪い方へも「自分はこう」というイメージを固定して、「自分と違うもの」は排除し、「自分と同じもの」の中で生きようとする。
この状態をある言い方では、「こじれる」と言っている気がする。
「こじれ心」自体は嫌いではない。とてもリアルで、誰の心の中にも少しはあるものだと思うから。その存在を理解していない人は、世の中のドラマや映画もつまらなく映ると思う。
「承認欲求」も「こじれ心」と近いところにある。けれど少しこじれ心より素直になっているかな。「誰かに愛してほしい」と自分の欲求に気づいている時点で、少し素直。
この、「素直になる」ことの大切さが、頭ではわかるけれどなかなか難しい。すぐに人はかっこつけたくなるし、隠したくなるから。
こじれた男子は早く素直になることの大事さに気づかないとやばいらしい。笑
(詳しくは若林の「ナナメの夕暮れ」読んでほしい。おすすめ。あと朝井リョウの「何者」もか)
どうしたら素直になれるだろう。素直になれ、と言われたらなれるものではない。
あの、ひとり暮らしアパートで仕事で疲れてSNSキラキラしてるから目をそむけて予定がなくて動画見ちゃうみたいな、鬱々とした感情を、どうしたら少しでも「素直な」エネルギーにできるだろう。
(もちろんできないときがあってもいいんだけど、3回に1回くらいはそうなっておかないといつか本当に煮詰まる気がする)
その方法は、一時的なものと長期的なものの2つあるんじゃないかと思うのだ。
1.一時的な処方箋
まず、鬱々とした気持ちを一時的に直すには、変な心の消耗をせずに自分を「癒す」ことが大事だと思う。
誰かじゃなくて、自分に集中する。それも、自分の能力とか感情とかそういう部分じゃなくて、自分が今まさにやることや五感で感じていることに集中する。
たぶん、恋愛系のことを考えるのはちょっと危ない。笑 居酒屋や女子会、意識高いイベントも危ない。(それ行けたら逆にもう素直にはなれてるか)
坂口恭平さんが最近出した「cook」という本はひとつヒントになると思う。
料理は鬱に効く。と言っている本だ。
たしかに、ちょっと疲れているけど一品でいいから、あるものでいいから料理をしてみると、できあがって食べる頃にはなんだかちょっと自分がプラスのエネルギーで満ちている。
これは私もこの2年間で痛感している気がする。
あとは、好きな映画、詩集、温泉、展示、裁縫、手紙を書く…そういう、ただ消耗するものではない私の好きなもので自分を取り巻く。
たぶん、走る!とか泳ぐ!とかもいいんだろうね。散歩も、めちゃくちゃいい。
自分にとって、最後にはなんだかちょっとすっきりすることを具体的に覚えておくのが、自分という一生一緒にいる存在をうまく操縦するコツなんじゃないかと思う。
もちろん時期や年齢によっても違うとは思いますが。
2.長期的な処方箋
一個目の話がだいぶサラリーマンの夜の過ごし方みたいになってしまったけど、元々就活前の大学生の話だったんでした。
長期的に、こじれ心に効くのはなにか。
それは、「自分のお客さん」を見つけることだと思う。
また抽象的な…とか、難しい…と思うことかもしれませんが。
でもようは、〇リーズがコーヒーを頼んでくれるお客さんのことを考えずにド〇ールより上にいこう!と競ってしまうのと同じ。
私が「なにかしたいな」と思える相手に、なにかを届けようとすること。その行為は本当に長期的な処方箋だと思う。
お客さんはどこにいるか。まずは、自分の過去を振り返ること。
自分が救われたと思う経験や、力になれたと思った経験などを思い返してみると、
「一人暮らしの大学生に暮らしの楽しみ方を届けたい」とか
「子育て中のお母さんにチャレンジの場を届けたい」とか
「旅行する人にもっと楽しむ選択肢を増やしたい」とか
最後にはそんなふうになる種が見つかる(ときもある)。
今の自分のお客さんが一人でも見つかると、不思議とあんまり他の人と比べなくなってきたりする。他の人は他の人のお客さんがいるし、自分が見るべきは自分のお客さんのことだよなーと思う。
ちなみに、「承認欲求」タイプの人は、愛されていると勘違いする術を見に着けるか、田舎にいっていっぱいおばあちゃんたちに優しくされるのがおすすめです。笑
2018年出会った映画
さて、2018年最後の日です。
高校時代の友達や大学時代の友達に久しぶりに会って、私の生活とのかけ離れ感をひしひし感じる年末(笑)
でもそれぞれに今の生活の中に楽しみや生きがいを感じているならそれがいいなあと思いながら実家でこれを書いています。
さて、今年もたくさんの良い本や映画に出会えました。特に映画がこんなに私を支えたり励ましたり良い刺激をくれたのは今年が一番かもしれません。
というわけで、今年良かった映画と本のTOP5(5におさまれば)を記録しておこうと思います!
ベスト5じゃなくTOPです!!この中で優劣つけるのは難しいので…
今年出会った、良かった映画TOP5
①万引き家族(2018)
②彼らが本気で編むときは(2017)
③グレイテストショーマン(2017)
④あん(2015)
⑤日日是好日(2018)
なんと3つに樹木希林さんが出ている…今年お亡くなりになったこともあり、さまざまなところで顔や過去の作品や言葉を見ましたが、本当に好きです。日日是好日とあんでは、樹木希林さんの役のような人生の師匠に出会いたくてたまらなくなりました。というかもう画面の中の二人の役は私の師匠にもなりましたが。
季節を感じるすばらしさ、意味ではなく身体で覚えるということ、食べ物とその素材の声を聞く大切さ、、、全部私の人生の指針手帳に書いておきたいです。
万引き家族と彼らが本気で編むときは、は家族ってなんだろうという今年一番考えたかもしれないテーマにも重なり、大好きな作品。社会では少し不利というか弱い立場である人たちが、本当の家族をつくる存在になり得るかもしれないということ。
そして本当に泣けます。いい涙が出ます。
グレイテストショーマンは、私があまり親しみのなかったミュージカル映画の扉を一気に開いてくれました。これは頭でなく耳と目と体で楽しむ映画。かつストーリーからにじみ出るメッセージも素敵で、固定概念を覆されました!
せっかくなので、TOP10なら入ったかな。という残りの5作品も…(書きたいだけ)
⑥リトルフォレスト(2015)
⑦転々(2007)
⑧南瓜とマヨネーズ(2017)
⑨メゾン・ド・ヒミコ(2005)
⑩君の名前で僕を呼んで(2018)
リトルフォレストはマンガしか読んでませんでしたが、やはりめちゃくちゃよかった。たんたんとしていて、一人で食べてる感じもまた良い。季節のてしごとをしたくなったよー。
あとの作品は知り合いに勧めてもらって見たんですが(今年、いろんな人に好きな映画を聞いてました。結構楽しい話になる)、どれもおすすめ・・・比較的一人で見るのがおすすめです!!笑
ちょっとせつない映画ばかり。屈折した感情っていいですよね…
映画は、辛い話も悲しい話もあるけれど、どこか救われるところがあります。
音楽、言葉、表情、しぐさ、風景…いろんなものが新しい材料として私の中に飛び込んできてくれるというか、普段の生活の中だけでは出会えないものと出会えるから素晴らしい。きっとどこかで仕事とか考え方にも良い影響を与えてると思うんです。
そして、繊細さやあいまいさに出会える映画は意外とマイナーな映画だったりもするので、よく知ってる人に聞くのが一番。
来年も良い映画に出会えるのが楽しみです。
年明けたら、本編と音楽編も書きますね。
皆さま、良いお年をお迎えください!
(今年最後の映画、ジョゼと虎と魚たち。これもめちゃくちゃよかった。)
世界がなにでできているか
最近、本業のにいがたイナカレッジの方で連載をしている。
テーマは、「挑戦するな、実験しよう」。新しい道を選ぶ前の大学生・若者が目的や評価に縛られないようなメッセージとして書いているつもり。
この連載を始まる前からずっと、田舎や地域に来て何が得られたかなーーというのは考えていた。私も都会育ちで田舎にやってきたから。
それはそれはたくさんあるのだけど、それは田舎だったからか?地方だったからか?と言われると、必ずしもそうじゃないよなーとも思う。
でもその中で比較的地方ならではのものをひとつ、思いついた。
それは、世界が何でできているかがわかっていく、ということ。
学びの本質だなと思う。大人になるということだとも思う。
あるものを構成しているもの、作っているものがわかっていくということ。
味噌が大豆と麹と塩と時間と菌でできていること。
お米を作るのにこんな行程が必要だということ。
車の部品を作る工場がこんなところにあるということ。
こんな服やこんな顔の人がこんな仕事をしているということ。
あらゆるものをつくるのに誰かから誰かへお金が支払われているということ。
それを、教科書でもインターネットでもなく、目の前の風景や音や表情でより知れるのが、地方・地域・田舎だと思っている。
そしてその知識はとてつもなく強い。
東京で育った小中高大学時代。友達のお父さんはほとんどサラリーマンで、家のまわりに田んぼや畑はなく、ほとんどすべての食べ物や服などはお店で買う。
ずっとわりと天気がいいから、雪かきもたいしてしたことないし、電車と自転車で行けないところなんてほとんどない。
でもおばあちゃんちに行ったり旅行に行ったりして、あとは田舎に住んでいる人の話を聞いて、なんとなく雰囲気的には知った気になっていたけど、実際にじわじわとそういうものが直接わかっていくのとは全然違うのだ。
やっぱり地方(新潟)で育った子は、じわじわなんとなく、そういったことが分かっているような気がする。だってすぐに田んぼや畑も目に入るし、友達のお父さんにもいろんな仕事をしている人がいそう。(場合によるかもしれないけど)
あとはだれだれさんが作ったお米届いたとか、この季節にはこれをよくおすそわけしてもらうとか、そういうことが自然と取り巻いている。
物質てきなことだけではない。こういう取り組みをやるにはこんなに大変なもどかしいやるせない気持ちがあったのかとか、表に見えている部分の裏に、奥に、何かがあるのだということがわかっていくということ。
それはものごとを一面的に見ない、表面的に見ないということにもなっていく。
そして、世界が何で作られていくかがわかっていくと、次に湧いてくるのは、「じゃあ自分はどう作ろうか」という気持ちだ。
つくっている人を見る、知る、話すと、自分も何かをつくりたくなってくる気がしている。同じ分野ではなくても、自分の分野ではどうつくろう?と。
「つくられかた」を直接知る。このことの重要さがもっと届けばいいなあ、と思う。
(焼き鮎はこうやってつくられてます。笑)
日記を共有するー具体的で小さなことの記録ー
しばらく遠くにいってしまった大切な友人と、日記というか週に1回振り返りを共有している。
LINEのグループで、ノートにつらつらと挙げるだけ。
日付とざっくりしたカテゴリーと、箇条書きの「ふりかえり日記」。
期間も、挙げる日もきまぐれ。お互いのノートへのコメントもきまぐれ。
そんな日記共有を、はじめた。
これが、とてもいい。
みんなやるといいんじゃないかと思う。まわりでやってくれそうな人をつかまえて。
私はしごとでも週報を書いているけれど、やはりこちらはしごとなので、「共有する必要があること」のみを書いている。
この案件はこんな感じで進んでいて、ここがよかった、ここが悪かった、など。
日記の方は違う。
基本は自分のために書いている。
1週間で起こった、思った、「忘れたくないこと」「生活の中の小さなこと」を書いている。
例えば先週はこんなかんじ。
・坂元祐二のmotherを見終わった・・・最高な結末。泣きつかれた。2人が離れても生きていけるためにしたことは、「好きなものを数えていくこと」。
・けものになれない女たちも1回見た。がっきーかわいい・・・松田龍平いいな
・m-1も観た。動画みすぎ笑 でも生理のときはとことんね、動きたくないし気晴らしにはいいのだ。 ジャルジャル、あいかわらず楽しそうで大好き
・隆一さんがくれた鹿肉のローストとあんたやのワインが美味しかった。
・なめことヒラタケを消費する1週間。ヒラタケはバターいため、なめこは味噌汁。
・マルカクの味噌を野呂さんくれた。うれしい、ほしかった
・夜、原信まで歩こうと思った日に限って雨ふってくる
・喫茶店ミチルが好き。ランチはひとりで喫茶店にいくとリセットできる。
・商店街の猫がサンタの首輪してた。かわいすぎた
・いけとと愛子ちゃんと本ミーティング。いいキーワードがたくさん出てたのしい
意識していることは、「できるだけ具体的で小さなことを書く」「自分の気持ちを書く」のふたつ。
なぜそれを意識しているかというと、私自身がそれを忘れてしまうから。
本当に自分が大事にしたい、自分をつくっているものは、キャリアにおける大きな決断でも恋愛の事件でも自己実現と結びつく出会いでもなくて(いやそれも大きいとは思いますが)、
暮らしや自然に根差した日々の小さくて身近なことだと思っているのに、わかっているのに、
私はそれはすぐに忘れてしまう。どうしても忘れっぽいのです。
だから、書いておきたい、少しでも。
誕生日にさくらちゃんにもらった日々の小さなごきげんを書く「ごきげんノート」は、100個までたまってきました。
それも一緒。昼寝をする、川を眺める、喫茶店にいく…自分をちょっとだけごきげんにすることを数日おきに書き留める。
こちらも、具体的で小さな、私が忘れたくないことです。
書いて共有するようになると、忘れる頻度は少しずつ減ってきたように思います。
何かのできごとの度に、自分の気持ちを自分に聞くクセも、ついてきたように思います。
そしてなにより、他の人の記録を読むのはとっても楽しい。気持ちを知るのは本当に嬉しい。一緒に生きている気分になります。
自分の日々も、「あー今週はきっとこれを書くな」「これ書いたらなんて思うかな」
と日記を共有していることがじわじわと浸透しているのが分かります。
だから何人もの人の日記を読みたくなる。
あの人ともあの人ともやりたくなります。
ずっと同じ人とじゃなくとも、人生で続けていこうと思うことのひとつです。
たまに書く手紙もそれと同じような効果があるけれど、定期的にやるともっと効果的。
仕事に追われるなーとか
SNS見るといろんな人のきらきらした写真が羨ましくなるなーとか
なぜかあっという間に1か月たって自分何してたんだろうとか思ってしまう人へ、
おすすめです。ごきげんノートだけでもぜひ、やってみてほしいなー。
(最近のごきげん、ひたすら大根を抜いた)
追記>>
れらちゃんにごきげんノートのことを話したら、こんな投稿してくれていました~
坂元祐二のプロフェッショナル「生きづらい、あなたへ」
久しぶりに東京に二回も行った週でした。一度はしごとで、一度は高校の友人の結婚パーティで。
今の長岡のシェアハウスにはテレビがありません。そのことに不便しないくらいにはテレビっ子ではない私ですが、たまに見たい番組もあります。
そういう時は、実家にLINEして、撮っておいてと頼みます。1か月以内には行く予定があることが多いので、そのときに見ようと。
そうすると、帰った時にはいくつか見るものがたまっています。
今回も、夕方~夜11時の仕事で次の日の10時には東京を出なきゃいけないスケジュールでしたが、どうしても見たいものがあり、無理矢理見ました。
それは、脚本家坂元祐二のプロフェッショナル。
私の好きなドラマベスト1と2をかざる(「それでも生きていく」と「カルテット」)脚本家です。見るしかない。
いやー、久しぶりにこんなに食い入るようにテレビを見てしまいました。めちゃくちゃ痺れた。
良かった話を3つ、書いておこうと思います。それでなんでこんなに共感するのか少し振り返ってみようと思います。
1.生きづらいあなたへ
ひとつめが、このプロフェッショナルのメインテーマでもあった、誰に向けて書いているのかということ。
「生きづらい、あなたへ」向けて、坂本さんは物語を届けていたのでした。
たしかに、ヒットしてからの最近の作品はどれも、程度はあれど現代社会を少し生きづらそうに生きている人たちを描いています。
はじめからこういう作風だったわけではなく、最初にヒットした東京ラブストーリーでは自分が書きたいのはこれじゃない、と思っていたそう。
子育ての経験を経て、これだとなったそうです。
複雑で、矛盾した感情や過去を抱えた登場人物たち。でも例えばストーリーが悲観的だったり劇的な展開であっても、坂本さんの作品はその「展開」そのものに視線がもっていかれすぎないのです。
むしろちいさいちいさいしぐさや言葉や表情が丁寧につくられているから、そっちに意識がもっていかれて、そういう部分がリアルで、かつ「生きづらいあなた」が少し楽になるように描かれてる。
わたしもわたしの仕事や人生の役割として、生きづらいあなたへなにかを届けたいと思っています。それが脚本という形でできているのが羨ましくなりました。
2.本質は「まわり」にある
ふたつめが、表現のしかたなのですが、「まわりを描く」ということ。
これ、メモを写メって載せたいな。
「スキ」というある感情を表すとき、直接「好きです」と登場人物が言うような表現はしないということですね。
プロフェッショナルで坂本さんはメモに白抜きの「スキ」という文字をかいて、まわりを塗りつぶしました。
「この塗りつぶしたところが脚本なんです」
うわーーーめっちゃわかる!坂本さんのドラマは全部それ!と思いました。
絶対直接的に言わない、例えばAが食べたいと言っていたたこ焼きを買ってきて買ってなかったふりをしちゃうような、間接的なシーンをつくる。
私は、本質とは中心ではなく「まわり」にあると思っています。なんでか説明できないけれど。
想いや感情はそんなに単純なものじゃないから、いきなり中心なんかにいかないのです。まわりに伝播して、よりかかって、そこからこぼれるような、にじみでるようなものだと思っています。
だからなんだかもう少し考察したら、ヒントになる気がしています。
3.生活をする
最後は、「生活をする」大事さについて。
坂本さんは毎朝娘のお弁当を欠かさず作っています。どんなに朝まで仕事があっても、飲み会があっても。
「日常に戻れる時間」だそうです。
いい脚本は、「生活」をしていないとできない、そうです。
ここでいう生活って、ただ毎日を送るってことじゃない。プライベート、という意味でもない気がする。
食べることで料理をすることで身体を感じて、自分を感じること。生の人間や自然の声を見聞きすること。
これ、映画「あん」でも言ってたかな。(あんについてはまた書きたい)
坂本さんの作品、たしかに生活の描写が多い。そこが大好き。
…何が書きたいかわからなくなりました。笑
とにかく、私が坂本さんの直接の言葉ではなく、高校3年のころから坂本さんが作った脚本のドラマのシーンから何かしら受け取っていた感動・感性が今つながったような心地でした。
こだわってちゃんとつくったものは、届くんだ。
ということなのかもしれません。
小説の作者に焦がれていた小学時代をちょっと思い出します。
何かの表現とは、こんな手紙を届けられることである。
私も魂こめて表現をしたい、と思います。
脚本という最高に自分にあった手段を見つけた坂本さんが羨ましい。私はどんな手段で表現しようか。
(テレビを見ながら横にいるのは柴犬ハチ)
追記
こんなに良い記事を見つけた…!良ければぜひお読みください。
https://twitter.com/rippesan/status/1065277615131357185
目の前に集中する
あっという間に11月。もうすぐ冬がやってきますね…
ここ最近はすごく心穏やか。1日1日を楽しんだり頑張ったりするだけで満足している日々。
もちろん足りないなあと思うこともあるけれど、うまい種まきをしながら、待てている。
さて、Facebookでもシェアしましたが、今年イナカレッジに参加したインターン生の終了レポートにけっこう心打たれています。
特に、前にブログでも書いたこの梶谷麻貴ちゃん。シンプルだけど伝わる、とても良い本当の言葉をつづってくれています。
今目の前にある課題に真剣に悩む姿は、将来やりたいことがあるかないかは無関係に眩しかったです。
今自分に与えられた課題に懸命に取り組んでみる。
そして秘かにやりたいことを探し続けていく。
そうしようと思いました。
この部分に特にやられました…。
今までどちらかというと、私の価値観的には、「自分の感覚を信じられるようになること」にまず一番に重きを置いていて、
世の中の比重的にもそっちを言うべきかなと思ってたのですが、
もう自分の感覚を信じられたまきちゃんの次の気づきは、これだったのだなあと。
将来やりたいことがないままでいい、「目の前のことに懸命に取り組んでみる」こと。
自分を知るのも大事、自分の心地良さや違和感を知るのも大事。でもそのうえで、
目の前の何かに自分をゆだねて、やってみる。集中してみる。
そうして開いていくものがある。軽やかになっていくものがある。
「わたしはそういうのやらない」「そういうのは好きじゃない、合わない」と思って少し距離を置くのは結構楽だ。
そして、ちょっとクセになる。自分の、独自の感覚を守っているような気もする。
そういう時期があってもいい。あと、たまにならいい。けれど、しょっちゅうになるとああこれはちょっと危険だと認識しておこうと私は思った。
なんというか、どんどん閉じてしまう。私から発するオーラが閉じてしまう。
実際に、若くても若くなくても、そういう人はオーラが閉じていることがなんとなく分かる。なんだよそれって感じだけど(笑)
ひねくれている人も、こじれている人も、面白い人は大好きだけど、目の前のことに一生懸命になれない状態がずーーっと続くと、たぶんちょっと不健康な感じになっていくと思う。
別に、仕事じゃなくてもいい、生活でいい。今与えられた仕事、呼ばれたイベント、頼みやお誘い。
もちろん多少選ぶことも必要だけれど、そういうものに素直に答えてみている人はなんだかちょっといい顔をしている気がする。さっきから適当なことばかり言っているけど。
翼と根と。という話をしている人が誰かいた。
その言葉を思い出す。
高い視点を持って物事をとらえること(メタ化、抽象化?、あと遠くのやりたいことを想ったり)が、自分を守ったり気持ちを楽にしたり話を伝わりやすくするのは確かで、その自分も持ちつつ、
目の前のことを一歩一歩頑張る自分もちゃんと居ると、すごく素敵な人間ができていく気がするのだ。なんとも説明しがたいんだけど。
だから、何事も「そういうの」と決めつけないでほしい。自分で開くチャンスを閉ざさないでほしい。
私も今は、「目の前に集中する」をもっとできるようになれたらと思ってます。
そもそも苦手だからね。笑 多動と言われますので。
そんなことを想う11月の頭なのでした。
(そういえばシェアハウスの展示が今週末。実りの秋でシェアハウスは柿と芋でいっぱい)
今すぐ好きな人と空間に囲まれろ。
人ができていく過程に、興味がある。
できていくというか、人となりが形成されたり、人生が進んでいくにつれて固まっていったりする過程、
肩書とか、何を成し遂げたかじゃなくて、その人からにじみでる人柄や感性や空気感(価値観もかな…)のようなものが何によってできていくのかに、興味がある。
それは、肩書や何を成し遂げたか、何を成し遂げたいか以外の人の情報を大事にしているからかもしれない。
実際、それ以外のことを見た方が、その人のことが分かるし、自分と合うかどうかも分かる。
じゃあそういうものって何で形成されるのだろう。
今のところの答えは、「どんな時間を過ごしたか」だと思っている。
正確に言えば、何に囲まれていたか(触れていたか)だ。
「将来したいことはなにか」という質問をされることは多い。
学校ではそれを聞かれて、あたかも「将来したいこと」が「人生を決める」かのようにうんうんと唸って私たちは考えた。
人を助けたいなら、医者や看護師や自衛隊?
食べ物を作りたいなら農家?
人を育てたいなら先生?
もちろん時代とともに働き方も職業の種類も変わってきているから、「進路選択の時に決めた職業」をずっとやるとは限らないけれど、そういう話ではない。
大事なのは、「何をするか(したいか)」ではなく、「何に囲まれるか」ではないか?という話。
大学によって学生の性格やタイプが違う、というのはよくある話というか、皆実感している話だ。
細かく見れば怠惰な人も優秀な人もどの大学にもいるだろうけれど、
なんというか言語化できない、雰囲気。性格や積極性、内発性、派手さ、好きなモノの趣向などは、「この大学にはこういう人が多い」という傾向がある。
あれはなんでなんだろうか。
答えは結構簡単だ。
「そこで長く時間を過ごしているから」
1年生の時には少なくとも週4,5日、それ以降も1年に何十日も大学で彼らは時間を過ごす。
そこで皆が触れているのは、その大学の色をもった「ヒト」と「空間」だ。
どうしても、染まっていく。
どうしても、まとっていく。
そのときにはわからないかもしれないけれど、卒業して何年かして、自分の中にたしかにあの大学で過ごした4年間が今の自分に少しは影響を与えていることがわかる。
同じことが、仕事や、家族や、家や、日々の小さなことにも言えるのではないかと思っている。だから、言いたいのです。
好きな人と空間に囲まれろ。それも、できるだけ早く。多く。
好きかどうかはわからなくてもいい、でも自分にとって良いと思うものに「囲まれ」ろ。
毎日はあっという間に過ぎていく。
ほとんどの時間を「移動」や「会議」や「作業」や「食事」や「睡眠」に奪われながら、過ぎていく。
その時間を「誰と」「どこで」「何に触れながら」過ごしたか、が
積み重なりながら自分を作っていくのではないだろうか?
「やりたいことは5年働いてとりあえずお金を貯めてからする。」
全然否定しない。否定しないけれど、「その5年であなたはできていくよ」とも思う。
だからただ自分の体を自分の好きではない空間に置く時間にはしないで、と。
<途中>