おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

ブリコラージュ感が嫌いじゃない

秋が深まってきました。こたつを出し、ストーブをつけはじめ…このだんだん寒くなっていくのに合わせてちょっとずつ身の回りを変えていく感じ、好きです。

 

うちは初めて迎える長岡での冬なので、かなり身構えております。

とはいえ、人数もいるので、なんだかんだであったかい。(気持ち的にもね)

 

さて、そんな今日は、駅前の本屋で小さく始めた「私の棚」についてちょっとお知らせしよう~というのに合わせて

最近考えたことをつらつらと書こうかなと。

 

 

 

仕事柄、興味柄(?)、農村を中心とした地域のいろんな取り組みを目の当たりにします。

それもちょこっと内側から見ます。こんなことが運営で大変で、とか、この人とのやりとりが大変で、とか。そういう話をたくさん聞きます。

 

 

いやもう、大変なことの方が多い。みんな本当にたくさん動いている。

楽しそうだけど、大変そう。やりたいんだけど、もどかしそう。ある程度諦めも必要そう。

 

はたから見たら、もっとスムーズに進める方法あるだろうなって思う。

もっと稼いだり、もっと広めたり、もっとスポットライトを浴びるようなやり方はいくらでもあるんだと思う。

 

でもなんでそんなやり方をしないか(できないか)っていうと、地域に「ある」ものスタートだからだ。

大きな会社や組織に比べると圧倒的に数の少ない「人的資源」「物的資源」の中でやるからだ。

地域での取り組みやプロジェクトが家だとすると、その家を作るための屋根や壁や木材にあたる人的資源・物的資源を、カタログの中からこれとこれ、って選んで発注しているわけではないからだ。

とりあえず今あるもので、作っていく。それが小さな地域で何かするときの特徴かもなあと思う。

 

そして、そのブリコラージュ感が嫌いじゃないなと、ふと思う。

ブリコラージュって言葉は内田樹さんの本で見たような気がするけれど、改めてWikipediaで見るとこんな風に書いてあった。

 

ーブリコラージュは、理論設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。

 

そうそう、理論や設計図が先に来れないんだ。でもそれがいい。それでいい。

今あるもので作る面白さ。

きっとそれは、「それしかないから」「仕方ないから」という意味ではなくて、今あるものスタートなんだから、何ができるかわからない面白さがあるってこと。

 

長岡駅前というエリアは、私にとって「これがあったらいいな」というものが全部あるわけじゃなかった。

好きな仲間もいるし、好きな仕事もあるし、好きな店もあるし、ぜいたくなのかもしれないけれど、

2年前に休学したときに、初めての地方暮らしがツルハシブックスとコメタクがある内野という町で楽しすぎたからか、

それと比べて「これがない」と思ってしまうこともよくあった。

 

ここにずっと住むかなんて本当にわからない。町が好きかもわからない。

でも、もうしばらく続くここでの私の暮らしは、たぶんもう1,2歩踏み出すことでもっと面白くなるんだろうなとも思う。

 

そんな中で、長岡で半年過ごしていた私には、

なんだかおもしろそうな縁がやってきた。

 

駅前の老舗本屋「文進堂」の五十嵐さんとつなげてもらった。

依頼、たまに行っては雑談をしている。

「うちもそろそろ今後を考えないとね〜」とか

「長岡、ほんとは面白いんだよ」とか

「野菜とか売ってみればいいんじゃない」とかを

(ほとんど人が来ない)店内でふんふんと聞いている。

 

行くたびに話が変わってたりもするしポジティブな話ばかりじゃないけれど、

町の商店のリアルを垣間見れるのはとても面白い。

アンテナを張っているような若者が遠くから来るようなおしゃれな本屋じゃないし(失礼)、なんならしばらく私もこういう本屋で本は買っていない。ザ・町の本屋。

 

ここの場所は長岡の中心だから、 ブックカフェになったら面白いんじゃないかとか ツルハシブックスみたいなのできるんじゃないかとか、いろいろ考えたり期待されたりするわけですけれども、

 まあまあ、何をするのか、何にするのかをやる前に決めてしまうなんて、もったいない。(先日のブログにかきましたが)

五十嵐さんとこの本屋が積み上げて来たものにのっかっていろいろやってみよう。

さっきも言ったように、「今あるもの」スタートでやるからこその何が生まれるか分からない感を楽しもう。

 

そんなことを思っていたら話の流れで 「ひと棚やるからなんか売ってみるか」と言われて、 あ、それいいかも。と思ったので、

 

ひと棚借りて、古本を売ってみることにしました。

 

なんか飾りたい、と咄嗟に部屋で掴んだものが風車だったので、とりあえず目印は風車。笑

ここ2年くらいでたまったわセレクト古本をまずは12冊ほど置いています。

右はコミック、左は雑誌、うしろ振り返るとちょっと見るのが恥ずかしいアダルト系っていう中にこの棚があるのは…正直なんだかすごい場違い感なんですが笑、 この「新米です」って言っているみたいな感じはそれはそれで良い。

 

長岡駅に来た方、ぜひふらっと寄ってみてください。 「老舗感が気になるけれど入りづらい系」の店なので、入るきっかけになれば嬉しいです。

(コミュニケーションノートを置いておくので来た人は書いてもらえると私が喜びます)

 

 

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地域の取り組みの「ブリコラージュ感」が嫌いじゃなくて、

それで苦労することもたくさんあるんだろうけど、

それがなんかいいなと思って地域のそばで仕事や活動をしてきた私が始めるものは、

たぶんこんな感じでゆるく始まっていきます。

 

きっと私のブリコラージュって、あるものすべてを使うって意味じゃないな。

「今あるもの」と接しながら、「これかもな」っていう直感のはたらく人やものや機会と一緒に、タイミングを見て作っていく感じだな。

うんうん。

場合によってはすぐに終わってしまうかもしれないけど、

場合によってはもっと妄想していることも実現させていきたいです。(ハックツとかもね…)

 

 

 

 

 

 

やりながら決めることと感覚を信じてもらうこと

 

最近、寒くなってきましたねー。

わがシェアハウスにもついにこたつが…

なかなか出れません。やばい。

でも、そんな冬も大好きです。

 

今日の話は、最近何をやるにも強く感じてしまうこのことについてです。

実は、先日のヒラクさんの話のブログにも書いていることですが…

 

長岡駅前のある場所を拠点に、活動を始めてみないかと言われました。

そのお願いが、とても熱く本気のものだったので、その人にもお世話になっているし、ちょっとやってみようと思いました。

その場所が私の興味のあるところだったのもありますが…

 

そして、何度か会議的なものがされ始めました。

こんな場所になったらいいんじゃないか、こんなことをしたらいいんじゃないか、こんな風に運営するべきじゃないか…

何度かつないでくれた人や長岡駅近くの活性化活動をしている人たちと話しているうちに、どこかに窮屈さを感じている自分に気づきました。

なんだろう。この窮屈さはなんなんだろう。

 

そして、ある日ふらっと同居人と飲みに出かけた時に気づきました。

なんとなくの窮屈さの理由が。

 

ぐるぐるいろんなアイデアやビジョンを話すのはいいのです。いくらでも話せばいいと思うのです。

でもそのアイデアのうち、「どれをやるのか」を決めてから動き出さないといけないと思っていたから、窮屈だったのです。

それは後々、半分は私が勝手に感じていたものだったなということも分かるのですが、とりあえずそんな雰囲気を感じるいろんな人との会話だったのです。

 

決めてからやる。

仕事においてはかなり当たり前のことです。特に今私が多くかかわっているような自治体関連の仕事においては。

最終形態とそこまでのプロセスを決めてから実行していく。

すごく効率的なようにも想えます。場合によっては実際に効率的なんだろうとも想う。

 

でも、「おもしろいこと」はできないように思うのです。決めてからやっていると。

だからとりあえず、小さくやり始めてみる。何をするのかは、やりながら決めていい。

「決める」ことより「始める」ことの方が大事だと思います。

特に直感で「やりたい」と思ったことに関しては。

 

いろんなことを、もっとやりながら決められるようになったらいい。

それを見守れる社会になったらいい。

 

でもたぶん、どんな人にも「さあとりあえずやってください」とはなかなか言えないと思う。

感覚を信じられないと、「まあじゃあとりあえず最終的に何をするか決まってなくてもこの場所使っていいですよ」とはならないかもしれない。

 

だから、「やりながら決める」が許されるように、感覚を信じてもらえる人になろうと思う。

私の「スキルや経験」じゃなくて「感覚」(この言い方にまだしっくり来ていない)をを信じてもらいたいと思う。

たぶん、「スキルや経験」への信頼だと、その人に期待することは事前にわかる「保障」。

「感覚」への信頼であれば、予想外のことが起きる可能性もあるけれど、受け入れる。

 

そうかあ、予想外のことが起こる余白がほしいのかもしれない。

「やりながら決めたい」のは、「予想できない」からでもある。

なんで予想できないかっていうと、それは予想できないものの方が面白いからかもしれなくて、

でもなんでそもそもやるのかっていうと、「おもしろさのかけら」みたいなものをそこに感じるからで、

それを感じている私の感覚を信じてほしい!っていう、そういうことかな。

 

「安定な時代はおわった!」ならば、

もう少し予想できないことを大事にして、「最初に決めたものがずっと続く」ということを求めない方がいいんじゃないかなあと思います。

 

この人の感覚は信じられるなあ、という人が何人かまわりにいて、私はとても幸せもんです。

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子育てしてない人が子育てのそばにいること

月に3本はブログ書いてたのに、あっという間に10月の前半が過ぎ去ってもまだ一本も書いてませんでした。あたた。

 

書きたいことは、溜まってますよ。手を動かさんば。

 

長岡に来て半年、いろんな人に会いました。いろんな場にいました。まだまだ少ないけれど。

そんな中で、「将来どこで暮らしたいか」「どんな仕事をしたいか」「どんな暮らしをしたいか」を話したり聞かれたりする機会は結構多くあったのですが、

基本的に半年先くらいまでしかそういうのが浮かばない私は、その場では思いつくことを答えてみるものの、

「いやあ、そんときにならないとわかんないな」

と本心では思ってました。

あとは、「結婚いつしたい?」とか「どんな人と結婚したい?」っていう話題も多いかな。それも同じで、思うところはいろいろあるけれど、強く「こうしたい」っていうのはまだ全然なくて。

今決めることじゃないよなーーと思いながら。そして、これもいいなあれもいいな、と詳しく考えることもそこまでしていない気がします。

 

でもこんなふうに、暮らしや仕事や結婚に関する「こうしたい」はわりとぼんやりあいまいな感じなのですが、最近無性に気になるのは…「子育て」に関する「こうしたい」のこと。

 

子育て、私はどんなところでしたいかなあ。

どんなふうにしたいかなあ。

みんなにとって、どんな子育てが素敵かなあ。

どんな子育てに関わりたいかなあ。

 

ふとした時に結構考えています。

別に、具体的な予定も何もないのですが。(笑)子供ができるかもわからないしね。

 

でも、これを考えている時間はけっこう豊かで良い気持ちです。わくわくもします。

 

なんでこんなこと考えるんだろうなーと思います。

たぶん、「他人の子育て」に触れる機会が多いからだと思います。

他人といっても、知り合いの。どんな人でどんな気持ちで子育てしているかをなんとなく感じる機会が多いのです。私の仕事柄なのか生活柄なのか活動柄なのかわからないけれど。

 

上司、子育てに関わる活動をしている人たち、イベントで会った人、家庭教師をしている親子、…

 

1歳の子でも、小学生中学生でも、子供たちと親たちのコミュニケーションや振る舞いを見るのは、とても面白い。不思議。

自分のまだ知らないページをめくるような感覚です。

自分は子供たちの相手がうまくできるわけでもないし、まだ子供たちとそこまで仲良くなるみたいな経験もないけれど、「目の当たりにしている」だけで、「自分も同じ場にいる」だけでおもしろい。

本当にいろーんな子育てがあって、でもどれもとても尊くて、嬉しくなります。

 

これ、たぶん、(まだ)子育てをしていない大学生、若い社会人はした方が良い経験な気がする。

「子育て」を自然に、力まず、目の当たりにすること。「子育て」が自然にそばにあること。

実は、なかなかないと思います。家と会社の往復だけしていたり、子育て世代向けのイベントや場所は子育て世代しか知らなかったり、入れなかったり。

 

それがなんで良いかは…まだ言語化できないけどね笑

その瞬間が豊かで、なんだか救われる気がするのは確かだけど、

本当は「その後の子育てに影響する!」とか「地域ぐるみで子育てがしたくなる!」とか言いきれればいいのだけど、全然まだ確信ないから言い切れません笑

 

少なくとも、この間出雲崎の梅林でやったイベントで、参加してくれた子供たちがほっとかれても草むらで遊んでるの見て、これはいいなあと思ったし、

やっぱり家族だけじゃなく広い意味で一緒に子育てできる人や環境が側にある状態で子供を育てたいなと思うのでした。

だから自分の子供じゃなくても、誰かの子育てにもかかわってみたいなー。

それだけでも、とっても人生が豊かになる気がする。

そして子供もきっと、いろんな生き方を受け入れられる優しい子になるんじゃないかなー。

 

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表現の第一歩を一緒にやること

夏休みのインターンが終わりました。

地域で1か月、大学生が暮らしながら、小さな、でも地域の何かが変わるチャレンジをする。

そんなインターン

今はその1か月を終えてインターンで感じたことや得たことを大学生たちにレポートで書いてもらっている時期です。

インターン自体が終わった時には余裕がなくてまだ感じれなかったことを、レポートを読みながらじわじわ感じています。

いやまあ、インターン中も感じてはいたけれど、こんな風に文章にする暇はなかったので。笑

 

私が担当していた2地域は、「ムラだより」を作るところと、「地域のギフトセット」を作るところ。

地域の人たちに住人のように日々声をかけられながら、ふりかかってくる無茶ぶりや様々な機会、チームで出る意見や考えに対して、「私はこう感じる」「これをやりたい」をアウトプットする繰り返し。

言葉より文章より、まずは体を使って飛び込んで感じてみたことからアウトプットをひねり出す。

めっちゃ簡単にいうとそんな1か月だと思います。

 

そんな試行錯誤のみんなの姿を見ていて、ああ私はこの瞬間がいちばん好きなんだと思った瞬間がありました。

 

それは、大学生が「表現」の一歩目を踏み出した瞬間。

ここでいう「表現」は、他の誰でもない「自分」がやってみたいと感じた「コミュニケーション」を形にすること。

 

専門ではないけれどずっと好きだった絵を使って祭の雰囲気を記事にすること。

華やかではないけれど、普通の家族のありのままをインタビューしてみること。

形としてわかりやすくはないけれど、あるじいちゃんとのお茶のみの会話を冊子にすること。

 

どれも、「多くの人に評価されるかどうか」に全く左右されていませんでした。

「自分の感覚を信じて」行動に移したものでした。

 

本当に素敵なんです。そういう表現って。背景を知らなくても、初めて見たとしてもそう思うと思う。

 

どうして地域のインターンでこういう表現が生まれるのか、そしてそれをした後の大学生がどうしてこんなに充足感であふれるのか、それはまだ言語化できていません。

 

でも、確かにこの瞬間のためにやってるのかもしれないと思うのです。

 

私はこの瞬間に携わりたいんだと、思うのです。

 

なんでだろう、わたしもそれを踏み出したいからかな。

一歩目が、二歩目三歩目と行くときには、私の役割はあんまりないかなと思うのだけど…

いちばん勇気がいる一歩目に、「いいじゃん、やってみなよ」って無責任に簡単に言ってみたいだけなのかもしれません。

なんの能力もいらない役割ですが(笑)

その一歩目の楽しさを知ってしまったから、

教えずにはいられないだけかもしれません。

そしてその一歩が踏み出せただけで、

その後の日常が変わって見えることも。

 

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大学生が作った冊子の一部

 

 

 

 

 

 

 

ヒラクさんの話

ちょっと前に、小倉ヒラクさんの出版記念イベントに行ってきました。

予定的には少しきつかったけれど、しばらく誰かのトークを聞くようなインプットもしていなかったので、えいやと。

場所は、燕市にあるツバメコーヒー。

 

少し遅れて入った会場は、後ろの席まで満杯。

知り合いと目が合って、席を指さしてくれました。

そこから、トークは約2時間。質疑応答も含めて、めちゃめちゃいい話が聞けました。

 

出版記念となった本は

Amazon CAPTCHAこちら。「発酵文化人類学」。

小倉ヒラクさんは、発酵デザイナーとしていろいろな地域や発酵関係で活動している、私も存在を知ってからもう4年くらいたってる気がする人です。

学生時代、よく農家さんのお手伝いに行っていた山梨の北杜市では、ヒラクさんプロデュースの「てまえみその歌」を全小学校で歌っていたし。

お邪魔していた農家さんの子供たちの部屋にもてまえみその歌の絵本が置いてありました。

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そんな感じでまあ、「発酵」のイメージがあるヒラクさんですが、今日の話で響いたのは、「発酵」以外の話。というか、発酵を通して発酵以外にも重なる話。

(もちろん発酵の話もとても面白かったですが)

 

響いた言葉を書いていたら、無地のメモは真っ黒になりましたが、その中で3つのことを、自分なりの言葉でまとめてここに残しておきたいと思います。

 

 

ひとつめが、作り手が責任を負いすぎてる話。

フランスである質の良いワインが高い値段で売れるのは、価値を感じてしっかり伝える「売り手」がいるからなのだそう。

そうそうそう。これは藤本さんの「魔法をかける編集」でも言っている話で。

「生産者」の価値をその人の視点で切り取って誰かに伝える「編集者」の存在がこれからはきっとすごく大事。

私が思うその理由は、その方が個の考えや感じ方を出せるということと、だから編集のやり方は無限にあるということと、生産者と受け取り手の間のコミュニケーションの可能性も無限に広がることかな。

あと、「編集する」という行為がもっと評価されることで救われる人がすごくいる気がしている。

六次産業化を推奨されるけど、それって本当に作り手の仕事がどんどん増えていくだけで、場合によってはとても辛い。

あとは、「作れなくても」自分なりに価値を感じて、伝えたい!という思いを持った人がこれでいいんだと思えるし。

 

2つ目は、面白いものはやりながら気づくという話。

そうそうそうs。最初から面白いかどうかはっきりわかってるものなんてそうそうない。

たしかこれは、県に勤めてる人が、公務員にできることは?みたいな質問をしたときの答えだったな。

自由度高く使えるお金を増やすことです。そう言い切っていたヒラクさん。

今までの地方の取り組みも、「面白いことができた」という取り組みには、それを「私がこのお金の裏とりはなんとかします」と言える思いのある担当の職員がいたそう。それが、ひとつ上を突破できるかどうかでもあるそう。

それで、最初から「これはこうなるはずだから価値がある」と言い切れることが大事なんじゃないのだと。

やりながら、あこれ面白い、と気づいていく。

いやほんと、予想できないものの方が圧倒的に面白いと思ってしまうから、これにはめっちゃ頷いた。

 

そして三つ目は、「様々な伝統や昔ながらの知恵や文化があるけれど、今のライフスタイルにそれらを引き継ぐことが自然にできないなら、それらは必要ない、」という話。

「結局、今がいちばん大事」という一言がずしんと来ました。

そうそうそうそうそう。そっか。そうだよなー。

たしかに、理由なしに「伝統文化は大事」という優等生的な常識が深く根を張っているけれど、「伝統文化を守る活動」はそれだけで素晴らしいと思ってしまうけれど。

「今の私たち」がそれによって救われたり、それによって豊かになったりするものでないならば、必要ないのかもしれません。

もしくは、形を変えて引き継ぐべきものなのかもしれません。

きっと昔からそうやって変化してきたんだとしたら、今これから起きようとしている変化だってきっと自然な変化です。

「そのまま残す」「引き継ぐ」ことが苦でしかないのなら、「終わる」こともまた進化なのかもしれないと。

だから、そういう文化や何かが素晴らしいと評価するときには、「現代の誰か」にとっての意味を言語化しなさいと言ってました。それが言えないなら無理に継承する必要はないのだと。

 

結局、私が言語化できなかったり誰かに「こう思う」って言うには自信がなかったことをヒラクさんが代弁してくれたような感じだったなー。

でも、トークイベントのいいところってそこですよね。言語化されて整理されて、肯定される。

いや、最高でしたー。

 

(実はこの日本を買ってまだ読んでない。笑 トークで満足してしまった)

 

 

 

 

 

地域とひと

めまぐるしい、8月です。

新潟県の地域で暮らしながらプロジェクトに取り組む夏のインターンも始まって2週間ほど。

私の担当している地域も2か所あり、1週間のうち事務所にいる時間が1日程度という、飛び回る日々です。

 

とても疲れるけれど、インターン生たちが毎日送ってくれる日報が、どれもありのままの言葉で、最高にすてきです。

それを読んでるだけで何度も、やってよかったと思えます。

 

そんな中でちょっと感じたことを。

「これからの地域」について感じたことを。

あくまで、今の私が感じていることです。

 

「地方地域に外から人が入って活動する」ということにおいて、もしくは農村移住の過程において、とても大切にされるのが、「地域に溶け込む」「地域から認められる」ということ。

 

地域に溶け込むために、時にはお酒を飲みかわし、時には草刈りに参加し、時にはお祭りの準備を手伝い、時には…

暮らしのあちこちで、それは出てきます。

地域に溶け込めれば、認められれば、もちろんいいこともきっとたくさんあります。

 

だけど、「地域に溶け込む」は目的ではないと思うのです。外から来た人にとって。

だから、「地域に溶け込まなきゃいけない」わけじゃないと思うのです。

 

地域の人とのコミュニケーションや手伝いごとは、それ自体が楽しいから、もしくはその人たちの役に立ちたいからやるかもしれないし、そういうことを楽しめる人が私は好きだけれど、

集団としての地域に溶け込むために無理にやる必要はないと思う。

 

「地域に溶け込める人」「地域から認められた人」が評価されすぎな気もしている。いや、これまではそれでよかったのかもしれない。

 

「地域への終身雇用」を美とみなしていたら結局それは会社への終身雇用をしていた時代と変わらない気もしている。

 

移住が話題になり始めたころよりもさらに人口が減り、集落維持が深刻な今、「地域に溶け込める人」じゃないと楽しく暮らしていけない地域は、、、なんというか、「生活の場」にはなりえるかもしれないけれど、そこで「一緒になにかやろう」とはならない気がしている。

 

なんだこの、気がしている攻撃。笑

まあでも、確信をもっていえることなんてなんにもない。

というか、言い切ってしまうことからはあんまり何も生まれない。

 

地域で学べることが本当にたくさんあることは事実。

学べるというか、地域にいることで「問いかけられる」ことが本当にたくさんあることは。

幸せってなんだろうとか

お金ってなんだろうとか

私が喜んでほしい人は誰だろうとか

この気持ちは何だろうとか (春にだ)

 

そして、とりあえず自分のやりたいこととか計画してたことは置いておいて、目の前で繰り広げられる偶然で自然な出来事に身をまかせてみることが自分の中のなにかを突破することも確か。

いきなり田んぼに連れていかれたり、漬物を出されまくったりね。

全身で、断ることなく地域から何かを受け取ったら、それを表現するときは、自分の好きでいいと思う。

好きに表現できる地域が、外の人を受け入れてほしい地域だと思う。

 

そんな、感じたままを久しぶりに出してみた日。

やっぱりブログ大事だ、これからも書こう

 

 

 

 

 

 

 

編集だったのか!

先日、アルプスブックキャンプに行って来ました。

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全国から名だたる素敵な本屋、雑貨屋が集まり、

湖畔でキャンプができ、

かつ久々にツルハシブックスのメンバーで出店ができるということで、

私は3週間前からこのイベントを楽しみに仕事やらイベントをがんばってました(笑)

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このイベントが楽しかった話はいくらしてもきりがないので、割愛。

話は、ここで買った本の話。そこから生まれた気づきの話。

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「Re:S」や「のんびり」でおなじみの藤本さんが書いた「魔法をかける編集」。

実はまだわたしは途中までしか読めていないのですが、

良い本に目がない?西田卓司さんが先に呼んで、興奮して「やばい、めちゃめちゃアツイ本だよこれ!」とメッセージしてきました。

西田さんが書いたブログはこちら。

http://hero.niiblo.jp/

 

西田さんの話を聞いて、実は昨日まで、ふんふん、たしかにそうやなあ、すごいな、くらいに思っていたのですが、

今日、あっと思いました。

 

そういえばずっと、私も「編集」のトライアルをしていたんだと。

私が今まで何度も考えてきたことが、藤本さんと西田さんのいう「編集」だったことに時差ありで気づきました笑

それを「編集」と「私が」呼ぶかどうかはまだちょっとわからないけれど、藤本さんと西田さんに言わせれば編集だったんだな、と思うことを私はやってたし、惹かれてました。

 

7月15日の、内野軒下マーケット。百姓百貨店。

6,7月の、すみだ青空市ヤッチャバ。

もっとさかのぼって、ツルハシブックスで作った冊子、「本棚と青い鳥」。

もっともっとさかのぼって、飯塚商店と大口屋を応援したいコメタク。

 

ずっと、何かを発信するときに、出店するときに、少し自信がありませんでした。

それは、「自分自身」が何かをゼロから生み出しているわけではないことへの自信のなさでした。

好きなものを伝えたい、地域の素敵なものを伝えたい、という行為をやってみていることに納得感はもちつつ、でも

特に誰かにお金を払ってもらうようなときには、農家や作家さんといった自分で何かを作っている人の前では、縮こまるような気持ちになることもありました。

 

でも、どこかでこれでいいな、とも思っていました。

だって、集落で、新潟の地域で、「わたし」が選んで、交渉して、運んできたものだもん。

 

(ここまでを8月頭に書きかけていたので、9月頭の今、続きを書きます)

 

編集とはたぶん、今の自分なりの視点で切り取ること。

だとしたら、すでに似たようなものがあることや誰かがやっているかどうかは関係ないし、

「みんなに評価されるかどうか」も関係ない。

「自分が価値を感じたから」それだけでいいのが、編集なのかもしれないです。

 

今、長岡の木沢集落で大学生たちがやっているのも、編集。

木沢集落に関しては、過去にもたくさん編集がされているので、今回の企画は「再編集」なのかもしれないです。

でもそれでいい、だって今来ている大学生たちにしか切り取れないものがあるから。

人の数だけ、編集の仕方がある。

そして、彼女たちを見ていると思うのは、編集の条件はもうひとつ、それ自体がコミュニケーションであるということかもしれないと思いました。

自分が「出会ったこと」「体験したこと」そこで感じたものを「出す」こと。

誰にでも届くものである必要はなくなり、自分の今を出していくことが、結局は多くの人の心を打つような気がしています。

 

そんなわけで、作り出す人と同じくらい、「編集者」が地方にとって、これからの社会にとって

大切な気がしている今日この頃。

私もしっかり自分の編集をしたいものです。