ヒラクさんの話
ちょっと前に、小倉ヒラクさんの出版記念イベントに行ってきました。
予定的には少しきつかったけれど、しばらく誰かのトークを聞くようなインプットもしていなかったので、えいやと。
場所は、燕市にあるツバメコーヒー。
少し遅れて入った会場は、後ろの席まで満杯。
知り合いと目が合って、席を指さしてくれました。
そこから、トークは約2時間。質疑応答も含めて、めちゃめちゃいい話が聞けました。
出版記念となった本は
Amazon CAPTCHAこちら。「発酵文化人類学」。
小倉ヒラクさんは、発酵デザイナーとしていろいろな地域や発酵関係で活動している、私も存在を知ってからもう4年くらいたってる気がする人です。
学生時代、よく農家さんのお手伝いに行っていた山梨の北杜市では、ヒラクさんプロデュースの「てまえみその歌」を全小学校で歌っていたし。
お邪魔していた農家さんの子供たちの部屋にもてまえみその歌の絵本が置いてありました。
そんな感じでまあ、「発酵」のイメージがあるヒラクさんですが、今日の話で響いたのは、「発酵」以外の話。というか、発酵を通して発酵以外にも重なる話。
(もちろん発酵の話もとても面白かったですが)
響いた言葉を書いていたら、無地のメモは真っ黒になりましたが、その中で3つのことを、自分なりの言葉でまとめてここに残しておきたいと思います。
ひとつめが、作り手が責任を負いすぎてる話。
フランスである質の良いワインが高い値段で売れるのは、価値を感じてしっかり伝える「売り手」がいるからなのだそう。
そうそうそう。これは藤本さんの「魔法をかける編集」でも言っている話で。
「生産者」の価値をその人の視点で切り取って誰かに伝える「編集者」の存在がこれからはきっとすごく大事。
私が思うその理由は、その方が個の考えや感じ方を出せるということと、だから編集のやり方は無限にあるということと、生産者と受け取り手の間のコミュニケーションの可能性も無限に広がることかな。
あと、「編集する」という行為がもっと評価されることで救われる人がすごくいる気がしている。
六次産業化を推奨されるけど、それって本当に作り手の仕事がどんどん増えていくだけで、場合によってはとても辛い。
あとは、「作れなくても」自分なりに価値を感じて、伝えたい!という思いを持った人がこれでいいんだと思えるし。
2つ目は、面白いものはやりながら気づくという話。
そうそうそうs。最初から面白いかどうかはっきりわかってるものなんてそうそうない。
たしかこれは、県に勤めてる人が、公務員にできることは?みたいな質問をしたときの答えだったな。
自由度高く使えるお金を増やすことです。そう言い切っていたヒラクさん。
今までの地方の取り組みも、「面白いことができた」という取り組みには、それを「私がこのお金の裏とりはなんとかします」と言える思いのある担当の職員がいたそう。それが、ひとつ上を突破できるかどうかでもあるそう。
それで、最初から「これはこうなるはずだから価値がある」と言い切れることが大事なんじゃないのだと。
やりながら、あこれ面白い、と気づいていく。
いやほんと、予想できないものの方が圧倒的に面白いと思ってしまうから、これにはめっちゃ頷いた。
そして三つ目は、「様々な伝統や昔ながらの知恵や文化があるけれど、今のライフスタイルにそれらを引き継ぐことが自然にできないなら、それらは必要ない、」という話。
「結局、今がいちばん大事」という一言がずしんと来ました。
そうそうそうそうそう。そっか。そうだよなー。
たしかに、理由なしに「伝統文化は大事」という優等生的な常識が深く根を張っているけれど、「伝統文化を守る活動」はそれだけで素晴らしいと思ってしまうけれど。
「今の私たち」がそれによって救われたり、それによって豊かになったりするものでないならば、必要ないのかもしれません。
もしくは、形を変えて引き継ぐべきものなのかもしれません。
きっと昔からそうやって変化してきたんだとしたら、今これから起きようとしている変化だってきっと自然な変化です。
「そのまま残す」「引き継ぐ」ことが苦でしかないのなら、「終わる」こともまた進化なのかもしれないと。
だから、そういう文化や何かが素晴らしいと評価するときには、「現代の誰か」にとっての意味を言語化しなさいと言ってました。それが言えないなら無理に継承する必要はないのだと。
結局、私が言語化できなかったり誰かに「こう思う」って言うには自信がなかったことをヒラクさんが代弁してくれたような感じだったなー。
でも、トークイベントのいいところってそこですよね。言語化されて整理されて、肯定される。
いや、最高でしたー。
(実はこの日本を買ってまだ読んでない。笑 トークで満足してしまった)
地域とひと
めまぐるしい、8月です。
新潟県の地域で暮らしながらプロジェクトに取り組む夏のインターンも始まって2週間ほど。
私の担当している地域も2か所あり、1週間のうち事務所にいる時間が1日程度という、飛び回る日々です。
とても疲れるけれど、インターン生たちが毎日送ってくれる日報が、どれもありのままの言葉で、最高にすてきです。
それを読んでるだけで何度も、やってよかったと思えます。
そんな中でちょっと感じたことを。
「これからの地域」について感じたことを。
あくまで、今の私が感じていることです。
「地方地域に外から人が入って活動する」ということにおいて、もしくは農村移住の過程において、とても大切にされるのが、「地域に溶け込む」「地域から認められる」ということ。
地域に溶け込むために、時にはお酒を飲みかわし、時には草刈りに参加し、時にはお祭りの準備を手伝い、時には…
暮らしのあちこちで、それは出てきます。
地域に溶け込めれば、認められれば、もちろんいいこともきっとたくさんあります。
だけど、「地域に溶け込む」は目的ではないと思うのです。外から来た人にとって。
だから、「地域に溶け込まなきゃいけない」わけじゃないと思うのです。
地域の人とのコミュニケーションや手伝いごとは、それ自体が楽しいから、もしくはその人たちの役に立ちたいからやるかもしれないし、そういうことを楽しめる人が私は好きだけれど、
集団としての地域に溶け込むために無理にやる必要はないと思う。
「地域に溶け込める人」「地域から認められた人」が評価されすぎな気もしている。いや、これまではそれでよかったのかもしれない。
「地域への終身雇用」を美とみなしていたら結局それは会社への終身雇用をしていた時代と変わらない気もしている。
移住が話題になり始めたころよりもさらに人口が減り、集落維持が深刻な今、「地域に溶け込める人」じゃないと楽しく暮らしていけない地域は、、、なんというか、「生活の場」にはなりえるかもしれないけれど、そこで「一緒になにかやろう」とはならない気がしている。
なんだこの、気がしている攻撃。笑
まあでも、確信をもっていえることなんてなんにもない。
というか、言い切ってしまうことからはあんまり何も生まれない。
地域で学べることが本当にたくさんあることは事実。
学べるというか、地域にいることで「問いかけられる」ことが本当にたくさんあることは。
幸せってなんだろうとか
お金ってなんだろうとか
私が喜んでほしい人は誰だろうとか
この気持ちは何だろうとか (春にだ)
そして、とりあえず自分のやりたいこととか計画してたことは置いておいて、目の前で繰り広げられる偶然で自然な出来事に身をまかせてみることが自分の中のなにかを突破することも確か。
いきなり田んぼに連れていかれたり、漬物を出されまくったりね。
全身で、断ることなく地域から何かを受け取ったら、それを表現するときは、自分の好きでいいと思う。
好きに表現できる地域が、外の人を受け入れてほしい地域だと思う。
そんな、感じたままを久しぶりに出してみた日。
やっぱりブログ大事だ、これからも書こう
編集だったのか!
先日、アルプスブックキャンプに行って来ました。
全国から名だたる素敵な本屋、雑貨屋が集まり、
湖畔でキャンプができ、
かつ久々にツルハシブックスのメンバーで出店ができるということで、
私は3週間前からこのイベントを楽しみに仕事やらイベントをがんばってました(笑)
このイベントが楽しかった話はいくらしてもきりがないので、割愛。
話は、ここで買った本の話。そこから生まれた気づきの話。
「Re:S」や「のんびり」でおなじみの藤本さんが書いた「魔法をかける編集」。
実はまだわたしは途中までしか読めていないのですが、
良い本に目がない?西田卓司さんが先に呼んで、興奮して「やばい、めちゃめちゃアツイ本だよこれ!」とメッセージしてきました。
西田さんが書いたブログはこちら。
西田さんの話を聞いて、実は昨日まで、ふんふん、たしかにそうやなあ、すごいな、くらいに思っていたのですが、
今日、あっと思いました。
そういえばずっと、私も「編集」のトライアルをしていたんだと。
私が今まで何度も考えてきたことが、藤本さんと西田さんのいう「編集」だったことに時差ありで気づきました笑
それを「編集」と「私が」呼ぶかどうかはまだちょっとわからないけれど、藤本さんと西田さんに言わせれば編集だったんだな、と思うことを私はやってたし、惹かれてました。
7月15日の、内野軒下マーケット。百姓百貨店。
6,7月の、すみだ青空市ヤッチャバ。
もっとさかのぼって、ツルハシブックスで作った冊子、「本棚と青い鳥」。
もっともっとさかのぼって、飯塚商店と大口屋を応援したいコメタク。
ずっと、何かを発信するときに、出店するときに、少し自信がありませんでした。
それは、「自分自身」が何かをゼロから生み出しているわけではないことへの自信のなさでした。
好きなものを伝えたい、地域の素敵なものを伝えたい、という行為をやってみていることに納得感はもちつつ、でも
特に誰かにお金を払ってもらうようなときには、農家や作家さんといった自分で何かを作っている人の前では、縮こまるような気持ちになることもありました。
でも、どこかでこれでいいな、とも思っていました。
だって、集落で、新潟の地域で、「わたし」が選んで、交渉して、運んできたものだもん。
(ここまでを8月頭に書きかけていたので、9月頭の今、続きを書きます)
編集とはたぶん、今の自分なりの視点で切り取ること。
だとしたら、すでに似たようなものがあることや誰かがやっているかどうかは関係ないし、
「みんなに評価されるかどうか」も関係ない。
「自分が価値を感じたから」それだけでいいのが、編集なのかもしれないです。
今、長岡の木沢集落で大学生たちがやっているのも、編集。
木沢集落に関しては、過去にもたくさん編集がされているので、今回の企画は「再編集」なのかもしれないです。
でもそれでいい、だって今来ている大学生たちにしか切り取れないものがあるから。
人の数だけ、編集の仕方がある。
そして、彼女たちを見ていると思うのは、編集の条件はもうひとつ、それ自体がコミュニケーションであるということかもしれないと思いました。
自分が「出会ったこと」「体験したこと」そこで感じたものを「出す」こと。
誰にでも届くものである必要はなくなり、自分の今を出していくことが、結局は多くの人の心を打つような気がしています。
そんなわけで、作り出す人と同じくらい、「編集者」が地方にとって、これからの社会にとって
大切な気がしている今日この頃。
私もしっかり自分の編集をしたいものです。
人生、どこへいくのかなー
このブログは、わたしにとって大事な「気づき」がある度に、言語化して整理したり誰かに届けたいなあと思うたびに書いているのだけど、
たまには単に私の最近のリアルな頭の中のことを書いてみようかなと思いました。
たぶん、わたしの、正直な部分というか、ありのままの自分自体を最近全然ことばにしていない気がして、それがなんかにごった池みたいに私の中で溜まっているので、ちょっと出してみたいのかもしれないです。
長岡に来て4か月。8月になりました。
長岡の夏がこんなに暑いとは思わなかったけれど、なんとかやっています。
最近ブルーなのは、暑いのが原因なのかなんなのか、料理をする気力がなくて食材をためてしまうことです。はあ。
好きな料理をできていることがけっこう私を救う気がするのですが、全くできていなくて落ち込みます。
私はどこに行くんだろうなーと考えます。
少なくとも、長岡が終着点な気は全くしないです。
でもだからといって次に行く場所の検討もつきません。相変わらず。
「やっててよかった」と思える瞬間がちょこちょこある「目の前のこと」をやりつつ、次の「大きなきっかけ」がやってくるのを待っている感じ。
うまく待つ。って結構大事なことな気がしています。
心地よく、楽しく、仕掛けながら、種を蒔きながら、待つ。
働き始めて、私の中にも「野心」「野望」があることにも気づきます。
どうせなら期待にこたえたい、期待以上を行きたいっていう、野心。
あとは、こんな素敵なことを実現して、評価もされている人がいる!私も私も、って。
多世代シェアハウスに、多様性コミュニティに、「食」の編集と教育に、「本」や「詩」にまつわる何かに、花や自然を閉じ込める何かに、、、
心からやりたいことが、10個くらいあります。
どれかひとつかふたつくらい、人生のいろんな糸が交わって、ある時タイミングが来てできたらいいな。
そう思って待っていることが正解なのか、自分から何かしらアクションすることが正解なのか、それがちょっとわからないです。
そして、やはり「今の自分」の大部分を作っているコメタクで何かしたい気持ちもある。
でも今こっそりこのブログを書こうとしてたら、「井上ちゃん、商売やらない?」と代表に声かけられて、すぐにやりたくなってしまう自分もいて。
なにが正解かはわからないけれど、少なくとも一緒に働きたい人たちとは働いているから、自分の上に何かしらが積み重なっているのはたしかなのかもしれないです。
いい人を見つけて結婚する夢もあるし。結婚する前にいろんな人との関係を楽しみたいのもあるし。
でも、どの人生にも時々近づけていない気がして、頭ではわかっていてもまだ私は「正解」から逃れられていないのだなあ、と思います。
そもそも正解なんてないはずなのに、、
それはたぶん、自分が正解にたどり着けるとどこかで思っている自信が足かせになっているな。
いっそもう、いろーんなことを諦めてみたい。
あきらめてあきらめたら、正解からは解き放たれそう。
でも全然、どれも、これも、諦められないのですね、現実は。
諦めた方が、他の成功してる人を見て嫉妬したりすることもないだろうに、ね。
そんなにわかりやすく嫉妬しないから、逆に難しい。まずは受け入れてしまうし、自分は幸せだと思っているから、屈折した嫉妬が、たまにふつふつする。
いったんここまで。
こどもたちと何かをやるということ
蒸し蒸し暑い、7月28日。
この日は、ちょっとしたチャレンジの日でした。
金曜日でしたが仕事はちょっとお休みして、
「寺子屋キッズ」という企画を手伝ってきました。
4月に引っ越してきて作ったシェアハウスのたまたま隣のビルもこの春からイベントスペースのような形でオープンしました。その運営をやっているのが武石さん。
今回の企画も武石さんの主催で、わたしとシェアハウスのもう一人の住人を誘ってくれました。「何か一緒にできないかな?」と。
小学生が夏休みの1日を使っていろんな体験を1日でする、というもの。
宿題もやり、工作もやり、料理もやり、、、その中のひとつとして、私たちはシェアハウスの近くに作っているコモンリビングというシェアスペースの壁を小学生に塗ってもらうことにしました。
小学生たちと絵を塗る企画をする。これだけのことですが、予想・想像できない部分がありすぎて、準備からどきどき、そわそわ。
ただ筆で書くのではなく、いつもはそんなふうに使ったら怒られてしまうだろうものを使って、自分で使い方を考えてもらおう、という風にしました。
たまたま仕事もちょっと忙しくて、合間でなんとか準備。
当日集まった小学生たちは、10人。1年生から5年生まで、男女も半分半分です。
まずは自己紹介。小学校の名前と、自分の名前。なんねんなんくみかも。
ちょっと緊張気味の皆さん。ついでに、「24歳のいのうえゆき」もちょっと緊張。
名札をつくって、次にやるのは夏休みの宿題ドリル。これは塾の講師をやっていたわたしにはむしろ緊張のほぐれる時間。
集中力の続かない男子たちは、秘密基地を作り始めてました。
40分ほど宿題をして、その後は好きな紙で「箱作り」。
好きな紙を選んで、さあスタート。
やり方は武石さんが教えてくれるけど、ついていけたり、いけなかったり。
はさみ、のりも使うのは順番。できなくてもいらいらしないでやる。
7歳でも9歳でも、言葉選びは変わっても、態度というか話し方や接し方は、わたしはわりとどんな人も変えないでやります。
自然な方が、自分も疲れないしね。
一人の一年生女子が、だんだん甘えてきました。(というか私を使ってきた)
箱が完成したら、おひるごはんづくり。野菜を持ってきたのはわたしで、前日にお世話になっている地域からもらってきたもの。
「これはなんでしょう?」
「…ズッキーニ!」
「こうやってできるものはなんでしょう?」
「なす!なす!」
絵とそのものを見せて話しながら今日のメニューも教えます。
女の子たちは、となりのわたしたちのシェアハウスで料理の手伝い。
なんだかみんなおそるおそる入ってきて、ずっと静かでした(笑)
小学生にはなじみづらい場所かもなあ。
ワームに戻ると、包丁で手を切った子がいて、ちょっとした騒ぎに。ばたばたと対応しながらもできた料理を並べ、(茨城から遊びに来ていたかずしくんも合流)
なんとかごはんスタート。
ズッキーニとなすの炒め物。
そうめん。
ポテトサラダ。
シンプルだけど、美味しくて、
ごはんを食べながらだと、4年生のちょっとおませな女の子たちもいっぱいしゃべってくれました。
そうして次は、いよいよペンキ塗り。
ポリ袋で作った即席作業着を着て、みんなでコモンリビングに向かって出発。
みんなで街中を歩くのがかわいくて楽しかった。
ペンキ塗りは、どうなることかと思いましたが、
はじまって30分で壁も、みんなの手も、絵の具置き場もすごいことになりました笑
みんな「解放された!!」って感じで。
わたしも若干解放されてしまいました、つられて。絵の具を手に塗りたくって壁に書くなんて楽しいよね。
使う道具は、筆以外。笑
私たちも思いつかなかった使い方をしていて、やっぱりこういうのが面白い。
最後はきゃあきゃあ言いながら手や足をふいて、集合写真を撮って、おしまいです。
終わった後は、疲れとものすごい充足感。
いやいや、やっぱりこちらがもらうものが多かった気がします。
単純に、かわいい。笑 癒し。笑
たぶんすごく子供たちにとっても大事な体験だったと思う。ひとつひとつが。
こどもたちにとって「体感する」ということの大切さをものすごく感じる。
もと保育士のかおり先生がすごいなと思ったのは、子供たちに伝える言葉のチョイスだったのだけど、それだけ、こどもたちには伝わるための言葉が少ない。
だからたぶん、「ことば」以外で知ってもらう必要があるんだと思う。
自分たちが食べている野菜がこんな形をしているんだということ
包丁を指で切ると痛いということ
絵の具を歯ブラシで書くとこんな線になるということ
思いっきり絵の具で遊んだあとは体を洗うのが大変だということ
自分の思いつきをやってみると予想とは違うということ
でも予想とは違っても何か快感だということ
兄弟でも先生でも親でもない大人がこんな表情をしているということ
全部、「ことば」じゃない、「体感」したものとなって彼女たちのどこかに刻まれていく。
どこに刻まれたかもわからないし、その刻みを思い出すことはないかもしれない。
でもそれでいい。
思い出さなくても、その刻みはたぶんその子たちを作っていく。
そんな、ひとつの彫刻作品が作られていく途中にひと刻みだけ刻んだような、それだけの行為なのかもしれない。こどもたちと何かをやるということは。
「瞬間」があればいい
このことをブログに書きたいと思ってからたぶん1週間は経過しているので、言葉の精度が若干下がっている気がしますが書きます。
やっぱり感情があついうちに言葉は出すべきだなあ。なかなか書く時間が取れないんだけどね。
少しもやもやしていたここ最近。仕事でこれからの事業や経営を考える機会が多かったこともあって、ぐるぐるいろんなことを考えていました。
いい仕事ってどんな仕事だろう、とか。
いいプロジェクトってどんなプロジェクトだろう。とか。
何かを「進めるため」の議論がミーティングの9割くらいになったとき、
何かを進めるためではないしむしろそれによって「止まって」しまうかもしれないけれど
何か抽象的なものを「共有するため」の議論を求めてしまうのは、コメタクとツルハシブックスをやっていたからだろうか。笑
だけど限られた時間の中でその議論をすることは私には提案できず、ミーティングが終わった後自分の頭の中でやることになるのです。
「大事にしたいものってなんだったんだっけ?」
っていうのを、「自分の中の自分」とブレストして共有していく感じ。
それを、どこかに行く途中とかごはんを食べながらやってしまいますね。
結局、大事にしたいことは自分とのプレストでもなかなか言葉に落ちず、いくつかそれっぽいものが浮かんでは消え、という感じでした。
ただ、ひとつ確認できたことがあって。
いい仕事ってどんな仕事だろうと考えた時に、
今まで見てきた「これは良いものだ、わたしが作りたいものだ」というものには
いつも「このためにやってたんだ」という「瞬間」があったなあと。
ツルハシブックスに学校で居場所のない高校生がやってきたときや、
コメタクに大学生がふらっとやってきて飯塚さんとお米の話をしてお米を買って帰っていったときなど。
いい仕事ほど「瞬間」に価値を置いていいような気がする。
いい仕事にはいい「瞬間」がたくさんある気がする。
長期的な成果の積み重ねで売り上げ目標を達成するようなことも大事なのかもしれないけれど、
結果的にはその「瞬間」はそれまでのプロセスがあってこそなのだけど…
あ、そっかそう考えると、
単なる「瞬間」じゃなくて、
一人でも強く「やっててよかった」と思えて、でもその瞬間は狙いすぎた瞬間ではなくて目指していたものとは少し違うところから来る瞬間なのか。
あれ、きちんと説明しようとすると難しい。笑
でもふと思ったのです、瞬間でいいんだなあと。
イナカレッジの今の仕事にもたまにそういう瞬間があるから、できている気がする。
(瞬間っては現場にあるかもなあー特に。お客さんと直接コミュニケーションしてるときじゃないと生まれないかも)
そんなことを考えてた次の日に、さくらちゃんから来た誕生日プレゼントのお礼メールにも、瞬間という言葉が書かれていました、さすが。笑
ゆき
(先日の仕事、車とれなくて電車で行った胎内。)
出店の魔力と魅力
こんにちは。新潟の夏が暑いのは知ってましたが、長岡がここまでだとは…
ってくらい、蒸しています。
昨日東京から来た大学生は、「新潟って涼しいのかと思ってました…」と言ってました。
さて最近は、、、イベントに「出店」する機会がなぜか立て続けに数回。
なぜかというか、私がどれもやりたいと言ったものだったんですが笑
そこで感じた「出店する」ことの魅力と魔力について書こうと思います。
ちなみに、昨日の出店は、「うちの軒下マーケット」。
2年前に1年間コメタクをやりながら住んでいた町での、ツルハシブックス主催の久々のイベントだっただけに、イベントそのものへの思い入れはすごくありました。
内野町の商店街のいくつかのお店の「軒下」で、個人が雑貨や古本や野菜などを売るイベントです。
内野の魅力的な商店街を「歩いて」楽しんでもらいたい、
今までは気づかなかったすてきなお店や景色に「気づいて」もらいたい、
ツルハシブックスは閉店したけれど、「内野と」何かやりたい、
そんな気持ちを何人かが行動にうつしてくれました。
今回は、何か出店しない?といわれ、わりと直前まで決まっていませんでしたが、私は去年の夏にインターンをしていた「百姓百貨店」で出店することに。
山から、野菜やら花やら黒文字というハーブやら枝やら笑を持ってきたり、あめちゃんの絵の封筒を作って売ってみたり。
シェアハウスの友達が協力してくれて、「山のばあちゃんの名言おみくじ」なんてのもやってみました~
当日はピーカンの晴れ。風が吹いていたのが救いでしたが、やはり1日外での出店は、暑い。暑い。でもみんなが助け合って気遣いあっていて、
例えば大口さんがスイカを配っていたり、
お客さんが冷えたスポーツドリンクを持ってきてくれたり、
飯塚さんがジュースをくれたり、
それはそれで温かかったです。ツルハシブックスっぽいかんじ。
久しぶりの再会を果たしたり、大学生に内野を知ってもらえたり、
相変わらずほんとに商品としてなりたってるのか分からない百姓百貨店の商品も何人かには喜んでもらえたし
疲れたし最後車ぶつけてブルーにはなったけど、
やっぱり私にとって第二のふるさとなのは内野だなあ、と思えた嬉しい日でした。
そして前からちょっと思っていた、「出店」の魅力。
ここでいう出店は、自分のアイデアと手で「商品」にしたものを誰かにお金を払って買ってもらう、という経験のこと。
このことがどんなにいろんな意味を持っているか、私はまだはっきりと言語化できないけれど、
この春、社会人として組織に所属して得始めた毎月の「給料」とは違うお金な気がする。
ここで払うお金は、「共感」「評価」「投票」という気持ちそのもので、
それを払って買うことがコミュニケーションで。
買ってもらえたときの「通じた!」感、とデザイナーのめいさんは言ってましたが…
そして、予定調和でない、偶然のお客さんとの「商品を買う」というコミュニケーションは、特に特に出店側に充足感を与える。なんなんだろう。
なんだかとっても直接的だからでしょうね。たぶん。
お金を払う人と、何かを得て喜ぶ人が一緒だから、しかも目の前にいてどんな表情をしているのかとかが分かるから、
「生まれているもの」が直接的にわかるから、心地よいんだと思う。
そして自分のどこかが肯定された気がするのは、気のせいかな。
だからたぶん、「出店」は、自信のちょっとない人ほどやるといいと思う。
「ずっとやってきたこと」でも「まわりの人より上手いこと」でもなく、「自分の中の一番」でもなくていいから、「実はやってみたかった」「実は好き」なことを、「出店」という形で誰かに届けてみちゃえばいいのだと思う。
そこから生まれる、あー、これで喜んでもらえるのかっていう、「直接的な感覚」を知るだけでいいんだと思う。
うーむ。出店の魔力と魅力に気づいたので、これをツールにしていきたい。誰かの日々がちょっと楽しくなるツールに。