出店の魔力と魅力
こんにちは。新潟の夏が暑いのは知ってましたが、長岡がここまでだとは…
ってくらい、蒸しています。
昨日東京から来た大学生は、「新潟って涼しいのかと思ってました…」と言ってました。
さて最近は、、、イベントに「出店」する機会がなぜか立て続けに数回。
なぜかというか、私がどれもやりたいと言ったものだったんですが笑
そこで感じた「出店する」ことの魅力と魔力について書こうと思います。
ちなみに、昨日の出店は、「うちの軒下マーケット」。
2年前に1年間コメタクをやりながら住んでいた町での、ツルハシブックス主催の久々のイベントだっただけに、イベントそのものへの思い入れはすごくありました。
内野町の商店街のいくつかのお店の「軒下」で、個人が雑貨や古本や野菜などを売るイベントです。
内野の魅力的な商店街を「歩いて」楽しんでもらいたい、
今までは気づかなかったすてきなお店や景色に「気づいて」もらいたい、
ツルハシブックスは閉店したけれど、「内野と」何かやりたい、
そんな気持ちを何人かが行動にうつしてくれました。
今回は、何か出店しない?といわれ、わりと直前まで決まっていませんでしたが、私は去年の夏にインターンをしていた「百姓百貨店」で出店することに。
山から、野菜やら花やら黒文字というハーブやら枝やら笑を持ってきたり、あめちゃんの絵の封筒を作って売ってみたり。
シェアハウスの友達が協力してくれて、「山のばあちゃんの名言おみくじ」なんてのもやってみました~
当日はピーカンの晴れ。風が吹いていたのが救いでしたが、やはり1日外での出店は、暑い。暑い。でもみんなが助け合って気遣いあっていて、
例えば大口さんがスイカを配っていたり、
お客さんが冷えたスポーツドリンクを持ってきてくれたり、
飯塚さんがジュースをくれたり、
それはそれで温かかったです。ツルハシブックスっぽいかんじ。
久しぶりの再会を果たしたり、大学生に内野を知ってもらえたり、
相変わらずほんとに商品としてなりたってるのか分からない百姓百貨店の商品も何人かには喜んでもらえたし
疲れたし最後車ぶつけてブルーにはなったけど、
やっぱり私にとって第二のふるさとなのは内野だなあ、と思えた嬉しい日でした。
そして前からちょっと思っていた、「出店」の魅力。
ここでいう出店は、自分のアイデアと手で「商品」にしたものを誰かにお金を払って買ってもらう、という経験のこと。
このことがどんなにいろんな意味を持っているか、私はまだはっきりと言語化できないけれど、
この春、社会人として組織に所属して得始めた毎月の「給料」とは違うお金な気がする。
ここで払うお金は、「共感」「評価」「投票」という気持ちそのもので、
それを払って買うことがコミュニケーションで。
買ってもらえたときの「通じた!」感、とデザイナーのめいさんは言ってましたが…
そして、予定調和でない、偶然のお客さんとの「商品を買う」というコミュニケーションは、特に特に出店側に充足感を与える。なんなんだろう。
なんだかとっても直接的だからでしょうね。たぶん。
お金を払う人と、何かを得て喜ぶ人が一緒だから、しかも目の前にいてどんな表情をしているのかとかが分かるから、
「生まれているもの」が直接的にわかるから、心地よいんだと思う。
そして自分のどこかが肯定された気がするのは、気のせいかな。
だからたぶん、「出店」は、自信のちょっとない人ほどやるといいと思う。
「ずっとやってきたこと」でも「まわりの人より上手いこと」でもなく、「自分の中の一番」でもなくていいから、「実はやってみたかった」「実は好き」なことを、「出店」という形で誰かに届けてみちゃえばいいのだと思う。
そこから生まれる、あー、これで喜んでもらえるのかっていう、「直接的な感覚」を知るだけでいいんだと思う。
うーむ。出店の魔力と魅力に気づいたので、これをツールにしていきたい。誰かの日々がちょっと楽しくなるツールに。
「として」が苦手。
こんばんは。新潟県はすごい雨です、ここ2,3日ほど。
土砂崩れなどの警報が出てます。うー。
私の住んでるところは街中なのであんまり被害はありませんが、
大雨の中の運転って怖いですね…私にとってはそれが一番でした。
さてー。なんだかもやもやな今日。思うがままに書いてみます。
前々から思っていたんですが私、「〇〇として」が苦手なんです。
「〇〇として」っていうのは、役割とか立場とかを意識してふるまったり行動したりすること、だと思っているんですが、、それに抵抗があるのです。
(面倒くさい性格ですね。)
いや、話を分かりやすく整理したりするときに使うのは別ですよ。
ただ自分のその場その場の直感や「やりたい」を押し殺して「作る」のが辛いのかもしれないです。
私は〇〇な立場だから、〇〇な役割だからって。
でも立場とか役割とか肩書きにくくられた行動って、結局既存のものをたどっているだけになっている気がして。
その「既存」は過去の人が開拓して成功した何かなのだとは思うのだけど、だからといってそれ以外のことをしてはいけないわけじゃない。
組織の「イメージづくり」もそうだなあ。
イメージを言葉にして作っている時点で、それは既存の範囲でしか考えられていないし、その時その時の個人個人の意思や直感を生かす足かせになるかもしれない。
(プロジェクトベースではいいかもしれないけど)
だいたい魅力的で小さくても続いてる活動って、最初に持たれたイメージを壊してる活動だと思う。
結局、創造の幅を狭めてしまうものが嫌なだけですね。笑
ああもうつくづく最近は、私は創造・表現することと創造や表現をしてなかった人がそれらをしはじめることに興味があるんだなあと思う。
シェアハウスで展示やりますー。
4月から住んでいるシェアハウスのことについて、あんまり書いてなかったですね~
私たちのシェアハウスは、住民を公募しているわけではないので、友達同士で一緒に住んでいるだけのシェアハウスですが、
長岡駅前にシェアハウスが他にないので、結構びっくりされたり噂にされたり。
ぼろぼろだった内装を自分たちで直したり作ったりして、その時にいろんな人に手伝ってもらったこともあって、住民以外にもいろんな人が遊びに来る家です。
住民は5人。もともと知り合いつながりなので、どんな人かどんなものが好きかとかなんとなくすぐわかったし、みんななんかもうありのまで過ごしてるので、めちゃくちゃ楽です。
って、別にシェアハウスに住んでることが楽しいって自慢したいわけじゃなくて、今回はちょっとした告知。
シェアハウスの住民で展示をするのです。
たまたま代表の池戸君が借りる予定だった小さなスペースを3週間ほどですが、シェアハウスの5人で借りることになりました。
タイトルは、「〇〇らしい暮らし展」。
一人一作品、おもいおもいの「暮らし」をあらわすものを持ち寄って展示する、ただそれだけです。
それだけすぎて、こんなちゃんとした場所借りていいのか、搬入の時不安になりました(笑)
まあでも、やりたくてやってるからよしとしよう。
いつかの夜に、
「ねえねえ、展示やらなーい?」
「え…いいけど」
みたいな感じで受け身で始まったんですが、みんなで何をしたいのかを話しているうちに、なんだかすごく大事なような気がしてきたので不思議。
たぶん、別に「シェアハウスだから」暮らしが特別なわけではなくて。
「シェアハウスっていいよ!」と言いたいわけでもなくて。
でもシェアハウスをしていると、他人の暮らしがすぐ近くにあるようになるから、
「あー、私とこの人の暮らしって違うんだなー」
っていう、すごーーーく当たり前のことに気づく。
何に心地よさを感じるかとか
何を大事にしてるかとか
何が嫌だとか
何が好きだとか
そんなの本当に人それぞれで、違っていいんだなーっていう。
そして、それも変わっていいんだなーっていう。
今回この人たちと住みはじめたからこそ生まれた暮らしの中の行為もあるだろうし。変わっていくものなのかも。あと、作れるものなのかも。とか。
それで、「今の私らしい暮らしってなんだろう」とか、「何を大事にしたいんだろう」とか
改めてちょっと考えてもらえたら嬉しいです。
いつか誰かが言ってた、「アートとは当たり前に問いを灯すこと」。
問いまでは灯せているか分からないけれど、「素敵な当たり前」にスポットはあててみたくて、
私のコーナーは食卓の写真展になりました。
その時、その場所、その人とだからこそ生まれた食卓と会話が展示してあります。
超、だれでもできる展示(笑)
良かったら見てみてください~
会場は「アトリウム長岡」。長岡駅から徒歩10分くらいかなあ。
次のブログでは、シェアハウスでの暮らしが私の精神状態をものすごくよくしていることを 書こうかな笑
お母さんと楽しく過ごす
おはようございます。いもうえです。
最近、お母さんと過ごすのが楽しいです。
買い物したり、ごはん食べたり、ぶらぶらしたり。
進路を変更してしまった半年前はあんなにお母さんとの関係をどうしたらいいか悩んだしつらかったのに、
うそみたいに楽しいです。
(まあもともと一番よくしゃべる仲ではあったけど)
今は長岡で働いているから、そもそも一緒にいる時間の長さが全然違うのだけれど、だからなのか、なんなのか、すごく穏やかでほっとできる時間です。
長岡の生活が充実しているからなのか、一応家を離れて「自立」しているからなのか。
あとは…「私が」お母さんに対する見方を変えたからなのかなーと思います。
先日こんなことを人に言われました。
「心を開けるのは愛されて育ったからだ」と。
親に愛されて、愛を自覚して育てられると、根底に「自分は愛されている」っていう承認があるから、それ以外に承認欲求をあまり求めないというか、
生きてていいんだとは絶対に思えているというか。
確かに私は、他人に心を開くのが早いです。
自分を出すのはそんなに怖くない。すぐ自分の弱いところとかも出して距離を縮めたりします。
そのおかげで好きになったことも、できたことも、いっぱいあります。
でも言われて気づきました。
ああそれは、私が愛されて育ったからなのだと。
ちょっと前まで「干渉」という言葉が浮かんでいたものは、「愛」でしかなかったのだと。
そう思えただけで、そういう見方ができただけで、こんなにもお母さんに感謝と愛が浮かぶものなのかと、思いました。
ただはねのけていた自分が恥ずかしいです。まあ、確かにその時は辛かったのだけど。
次に思うのは、お母さんにもっと自分を愛してほしいなーってことです。
お母さんの愛のおかげで、こんなに私は自己肯定感が高いので、今度は私がお母さんにたくさん愛を伝えて、お母さんの自己肯定感も上げたいです。
先日高校の部活の友達が新潟に遊びに来てくれた時も、お母さんに人生を楽しんでもらいたいって話で盛り上がりました、笑
たぶん、たぶんですけど、地方に移住したり最近できたベンチャーに飛び込んでみたり、親の価値観から解放されて動いているように見える私たちは、
逆に意外と、親のことは絶対ないがしろにしたくないのかもしれないなあと。
親の存在と自分のしたい生活・したい仕事、どっちも良い関係性を築ける道を探りたいのです。
月に一回くらい東京で仕事があるのだけど、その時実家に帰るのが楽しみです。
結構理想の生活、してるかも。
愛犬のハチにも会えるしね。
人の数だけ関係性に名前があっていい
こんにちは。昨日24歳を迎えましたー。
とってもしあわせな誕生日でした。むふふ。
昨日だっけな、たしか。
大好きな友達が、「姉妹で」ブログを始めてました。
私はその子から1,2ヶ月前に今度姉妹でブログをやると聞いて、わくわく待ってたのだけど、
こちらの記事を読んで、やっぱりすてき!と思い、そしてそれをきっかけに前から思ってたことを思い出しました。
http://sorahibi.seesaa.net/s/article/450111177.html
この姉妹の二人の関係を、簡単でわかりやすい言葉じゃないけれど、丁寧に本当の言葉で書いている記事。
タイトルが「言いあらわすって難しい」なんですが、ほんとに、人の関係ってそれでいいと思ったんです。
世の中の一般的な「人の関係」をあらわす肩書きは、
「姉妹」「親子」「師弟」「恋人」「夫婦」「同期」とかあまりにも種類が少ないけれど、
本当は、人の関係の種類は人の数だけあっていい。
というか、そう思うとどんな人との関係も面白く思えてきます。
恋人だから、恋人じゃないから、
親友だから、親友じゃないから、
そこで思考を止めてしまうのではなくて、今まだ名前のない関係が「その人と私」の間にあるって考えたら、
「こうすべき」なんて他人に言われるようなこともない。
だって、「その人と私」の関係は、私の人生にとって初めて生まれた関係なのは間違いないはず。
だったら、その人とのコミュニケーションの取り方に正解も不正解もない。
まだ私も知らない関係がこれから生まれていくかもしれないわくわくとともに、
自分と相手が心地よいコミュニケーションをとっていけばいい。
今だって、
「親子でもない」お父さんと同じくらいの年のお米屋さんとたまに夜ごはんを食べたり
「家族でもない」人たちと一緒に住んだりしているわけで。
いろんな人とのいろんな関係が、私の人生を豊かにしているのは間違いない。
心地よいだけじゃなくて、
私をびっくりさせてきたり
ざわざわさせてきたりする人もいるけど
そういう時は
「おっ、この人とはどんな関係が生まれるんだろう」
って思うとちょっと大丈夫。
たくさんの豊かな関係が生まれる人生にしよう。
古材屋で働いてみませんか。
4月に仕事を初めて1週目。私が初めて同行した企業への打ち合わせが、偶然この古材屋さんでした。
新潟県内の古民家を解体して出てきた古材をや古道具を「越後古材」として販売する井口製材所。
実は先日のシェアハウスのDIY中、「こんな古材屋が長岡にあるんだよ!」「えー写真きれい」と話題にのぼっていた古材屋でした。
打ち合わせでお会いしたのは、3年前に東京から実家に帰ってきた社長の息子さん。この3年間、webやSNSでの発信、直接のお客さんとの対応などにも力を入れ、リノベーションやDIYに惹かれる若い人の間でも話題になるようになりました。
いろいろな古材の魅力についての話が出たけれど、
「古材の生かし方は人によって違っていい。むしろそうやって違った視点で生かし方が増えるのが面白い」という言葉が印象的。
それってすごくいいな、と思いました。
もちろん商品を提供しているプロならではの目利きや技もあるけれど、
たぶん、古いものへの「好き」や「こう使ったら楽しいな」というわくわくがあれば、古材を生かせる素質はあるのだということ。
あと、古材はひとつひとつに「個性やストーリーがある」ということも。
だからか、と思いました。私も古材や古道具を見ていて、素人なりにいいなあと思えるのは、
それが過ごしてきた時間が唯一無二の「個々の色」を作っているから。
打ち合わせの後、12もある井口製材所の敷地内の商品が眠る倉庫を案内してもらって見ながら、思わずその素敵さににやにやしてしまいました。
カフェや酒場、ゲストハウスで生まれ変わって使われる古材もまた素敵。
Instagramにもたくさん写真が上がっています^^
そんな井口製材所ですが、単に人手というわけではなく、「一緒に楽しみながら古材の新しい可能性を探ったり古材の魅力を発信したりしてくれる仲間がほしい」そう。
社長の息子さんである専務は、会社内にいる古材を扱う師匠たちの引退前にはその「ワザ」「知恵」も引き継いでおきたいと言います。
いやあ。好きな人にとってはたまらん仕事な気がする。
というわけでこの夏、まずは実験的にイナカレッジでインターンを募集することになりました!
詳しくはこちらのwebから見ることができます。
一応1~2か月、毎週月~金で井口製材所に入ってもらい、仕事を習ったり新しい発信をしてみたりしてもらいます。
車で通ってもらうか、製材所近くに住んでもらうかは相談次第。
ただ一応インターンの枠はありますが、実際はいろいろ相談次第です!笑
新卒でも中途でも、働きたい、話を聞きたい、は大歓迎。
その後インターンをすることになったとしてもならなかったとしても、働くことになったとしてもならなかったとしても、井口さんにとっても、古材に興味のあるあなたにとっても意味のあるつながりになると思います。
なので、あまり気負わずご連絡ください^^
までメールいただけると嬉しいです!私のFacebookでもいいですが。
春の草木で染めてみた
先週の日曜日。
私の住んでいる長岡市の山の方で、
草木染めをしてきました。
きっかけは、よく着ていた綿のワンピースが色あせてしまったこと。
もう少し、着たいなぁ。と眺めていたら
染めれば?と元同居人さくらちゃん。
たしかに!!なにそれ!めっちゃ良い!!
一気に自分で染めたワンピースを着ているところを想像して、これは素敵すぎる!とぴーんときました。
そういえば、草木染めができそうな知り合いがいたなぁ。
そう思って連絡してみて、そこからおそらく2ヶ月後。
草木染めの会を実現することができました。
先生は、長岡市内にすんでいて、様々な「てしごと」を伝えたり暮らしの中で実践したりしている清野さん。
「ワザ」だけでなく、そこに宿る思いや向き合い方も尊敬できる人です。
せっかくなので、コメタクのさくらちゃんやめいさん、十日町に住む志保ちゃんも誘って、小さなイベントのような形で開催しました。
まずは、山を歩いて草木を集める。
よもぎ、朴葉、たんぽぽ、スギナ、、、
細かく切って、ぐつぐつ煮出す。
染める布は、ミョウバン入りの水に浸して揉む。
お昼ごはんは、持ち寄りおかずとあずき玄米。
ワラビの和え物、卵焼き、ポテトサラダ、キャベツの揉んだの、ズッキーニの漬物、玉ねぎの蒸し焼き、切昆布炒め、くわのみのジャム、、
午後3時。出来上がった布は、予想より鮮やかな黄色と黄緑の間の色。
温かい煮出し液に浸して取り出した時のみんなの嬉しそうな声。
ちょっと緊張したり疲れたりした部分もあったけれど、ものすごく豊かな時間だったと思うのは、
たぶん私が、「今」を閉じ込めたものが好きだから。
今、このメンバーが山を歩いて時間をかけてとった草も、
このメンバーが作ってきたおかずも、
「今ここ」が詰まっていて、それを愛でられるというか、楽しめる瞬間が本当に好きだ。
そして、豊かな暮らしなのはわかるけど一見なんだかハードルの高い草木染めも、
肌感の分かる知り合いに声をかけて、ある意味日常の延長線上でできたこと、
たぶんこうやって一歩ずつ暮らしを作っていけばいいんだなぁと思った。
最初は米を炊くのでいい。
でも米を炊き始めたからこそ、その先の背伸びもできる気がする。
先に進めばいいというものでもないけれど、
2年前にコメをタキ始めてから、私の暮らしは日に日に豊かになっている。