おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

「あなた」として行こう


5月になりました。
仕事柄、土地柄?、しょっちゅう山の方へ行くのですが、最近は本当に春の山の色がきれい。
この不思議な淡いグラデーションに気づけたことが最近の嬉しいことです。新芽と花の色。

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さて、そろそろ夏のインターンシップの準備が始まっています。
わたしのいる組織が運営しているのは、新潟県の農村地域でのインターンシップ
1ヶ月の短期バージョンや、半年や1年の長期バージョンがあります。

夏のインターンシップというのは、主に大学生に向けた1ヶ月のインターンシップのことで、去年は東京や県内から20人ほどの学生が8つの地域でインターンをしました。

内容も、お酒づくりから集落の聞き書きから写真プロジェクトまで様々。
各地域それぞれ2,3人の大学生で活動します。
通える人以外は、ほぼ皆地域に住み込みながらのインターン
生活も仕事も、地域の人にあーやこーや教えてもらいながら、自分の体でやってみる。
そんな、田舎のありのままと自分自身のことを直接感じる1ヶ月です。

最近は大学の中にも、地域に行く機会は結構あります。
授業で行くこともあるし、ゼミで行くこともある。縁ある地域のお手伝いに通っているサークルもあります。
もちろん大学の外でも、私が学生時代入っていたようなインカレサークルではそういった地域に行くこともできます。

高校まではほとんどの人が地元で過ごしていただろうから、違う環境の他の町で生きている人たちに触れることそれ自体がとても良い勉強だし、地域側からしたら若い大学生たちが来てくれるだけで嬉しい側面もあるし、
まあなんか悪いことは少ないわけです。

ただ、もし自分がこういうものに興味があって、そっちの方向にもうちょっと背伸びしてみたいなら、大学生に大切にしてもらいたいことがあります。
それは『「あなた」として行けるかどうか』ということ。

その活動に関わる人たち、受け入れ側の何人かにでも、「あなた」として認識してもらって、つまりどういう子かをなんとなく知ってもらっている状態で、何かを実践すること。

その状態で、今のあなただからこそ作れるものを作ること。(それがプロジェクトの成果なのか、なにか製作物なのか、言葉なのか、空間なのか、体験なのかはわからないけど)

それがたぶん、すごく大事だと思ってます。
思った以上に、そこでの経験が自分の財産になります。
私もそうだったし、まわりを見てもそんな気がしています。

だから、1ヶ月住み込みなのか通いなのかとか、プロジェクト内容や目標が大きいか小さいかとかはあんまり関係ないのかも。
「どういう子か」を大切にしてもらえるかどうか、なのかもしれないです。

手っ取り早いのは、「ひとりで」行ってみること。
地域に本当にぽんっと一人で行ってみることじゃなくて、いつも一緒にいるコミュニティや学校で一緒に授業にでてる仲間がいないところで、「あなた」として何かに参加してみることです。

「わたしにはそんなに個性がない」「特技やずっとやってきたことがあるわけでもない」
ってのも、あんまり関係ないです。

個性なんてみんなないし、みんなあります。

ずっとやってきたことだけが「好きなこと」「得意なこと」なはずもありせん。
今日初めて生まれる得意なことも好きなこともあるのです。

大学生にしてほしいこと。

「あなた」として認識されること
そして
そこであなただからこそ作れる何かを作ること。

それはもしかしたらもしかしたらだけど、
地域でのインターンでできるかもしれないなー。


そんなことを考えながら、インターンの新人コーディネーター、頑張ります。
視点を変えたらいろんな話が出てくるから、話したい人は直接お話ししましょう♪

いろんなことが、もっと結果論

 

さてさて、書きたいネタはたくさんあるけれど全然追いついていません新社会人井上です。
そんなに気張ってとても丁寧なものを1本かけなくてもいいから、2,3本気にせずどんどん書いていこうと思いました。

分かりやすいようでわかりにくいいつもの前置きはなしで、今回思ったことを書くと…

みんなが思っているよりも、いろんなことが、だいたいのことが、もっと「結果論」なんじゃないかあ。
ということ。

ようは、結果的にそうなっただけで、別にそこに普遍的な理論も確実性の高いノウハウも案外存在していないということ。
組織のことも、個人のこともきっとそうだ。

地域に移住者が来て取り組みがうまくいって成果が出たのも
好きなことが見つかってそれを仕事にできたのも
家族と自分の生活が充実しているのも
結果的に今そうなっているだけ。
 
いや、これは別に、
結果論なんだからそれぞれの頑張りは無駄だと言いたいわけでもなく、
どうしたらうまくいくかとかを考えないでテキトーにやってほしいわけでもない。
 
ただ、「あっちでうまくいってるから」「あの人がこうしてうまくいってるから」と
場所も関わる人も時期も違うものなのに、
ひがんだり嘆いたり無理をしたりしてしまうのが、なんか違うなあと思うって、それだけです。

もっと、目の前にある自分側の人やものを見つめてほしいし、コミュニケーションを取ってほしい。そっちに時間と心を使ってほしい。

常識という服がまだ着れない新社会人のつぶやきでした。
 
 
 

経験は貸し借りできない



しばらく間があいてしまいました。
引っ越し、シェアハウスづくり(床作り、壁塗り、床磨き、タイル剥がし、荷物運び、買い物)、仕事スタートと、
誰に言ってもわかりやすい「変わり目」の3週間でした。

4,5回は来たことがあるけれど、住むのはもちろん滞在もしたことがない町。
でも、2年前に新潟に来てから積み重ねたいちばん心強いもの「ともだち」が近くに何人もいるおかげで、どこかずっと安心しているんです。生活のほとんど何も整っていないのに。これは不思議な経験でした。

で、仕事が始まりまして。

毎日パソコンに向かうようなルーティーンワークも親が揃えたがるスーツも泊まり込み研修も#同期でインスタに楽しげな飲み会の様子をあげるような同期も立派な入社式も「いついつまでに丸暗記」みたいな資料や参考書もなし。

代わりにこの2週間であったのは、つながりのある地域への挨拶まわりと打ち合わせの同行、企画書や提案書の作成とミーティング。

まわった地域や組織は10ヶ所以上。
すべて車移動で先輩が連れて行ってくれました。

いやはや、とりあえずは一緒に働きたかった人と一緒に居れて嬉しいし楽しいです。
前までは知らなかったその先輩たちの、「経験に基づいた言葉」みたいなものがすごい。太刀打ちできなくて、圧倒的で、嬉しくなる。

やっぱりひとつひとつの工程を「目の当たりにした」ことが大きいんだと分かる。

そこの地域の、組織の、人の、絶好調な時も落ち込んでいる時も何もない時も目の当たりにしているからこそ出てくる言葉がある。

私だって、ちょろっとだけど実際の地域や会議の様子や関わる人たちの表情を目の当たりにしたこの2週間の前と後では全然違うのだから。

前から気づいていたことをもう一回書いている気もするけど、まあ、今感じてることのアーカイブってことで書きますと、

写真とか文章で見聞きしたものじゃなくてナマモノの動きを目の当たりにして、その空間を包む雰囲気や誰かの表情や音やにおいや色をちゃんと感じたものを「経験」と呼ぶとするなら、
自分がした経験に勝るものはないんだなぁと思います。

人の経験を聞いたり見たりすることも大切なことだしその相違にも価値があると思うんだけど、
他人が直接経験した時見た景色を借りることはできないことを頭に置いておくことは大切なのかなと思った。

だからこそ、したい経験は、見たい景色は、自分で取りに行きたい。取りにいける環境の元に自分を置いておきたい。

もしかしたらそれが、それだけが「やってみる」ことへの一歩を踏み出させるのかもしれない。

シェアハウスづくりのDIYだって、あれをやったから、あの時直接見た景色があるから、これからできることや語れることが増えるんだろうなと思います。



どんな景色が見たいですか。
それをやった後の景色が見たいですか。

何か迷ってる時はこう自分に聞いてみるのもありなのかもしれない。

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今目の前にあるもの」と非言語コミュニケーション

はやくも三月半ば。


大学の卒業と、社会人のスタートが刻々と迫っています。
まわりは卒業旅行や追いコンに勤しんでおりますが、相変わらずわたしは新潟と東京を行ったり来たりしながらイベントやら米屋やら本屋やらをやっています。
私にとってはこれが卒業旅行に置き換わるくらい楽しいのです。

そんな最近の、活動以外の楽しみのひとつが…あるドラマ。

火曜10時からTBSでやっている「カルテット」です。

5年ほど前にやった大好きなドラマ「それでも生きていく」と同じ脚本家で、
役者もセリフもたまらない。良い。

毎週染み入るセリフを楽しみにしているのですが、今回も良いセリフが。

過去の過ちを隠していたことをわびるマキさん(松たかこ)に、すずめちゃん(満島ひかり)が言うセリフ。
「私が好きなのは、今ここにいるマキさんだよ。過去に誰だったかなんてどうでもいい。すっごくどうでもいい。」

多少うろ覚え&一見ありそうなセリフではありますが…
最近私が思ってたことにぐぐぉっ!とはまったので、引用させていただきます。笑

すずめちゃんが知らない過去のマキさんじゃなくて今目の前にいるマキさんが好きだということ。
実は最近、ちょっとこのことと逆のことを実感しました。

前は近くにいたけれど今は遠くにいる人で、大切な人がいます。
でも私は、近くにいない「今」のその人じゃなく、近くにいた「過去」のその人のことばかり追っていました。
でもなんとなくその人の「今」が全然見えなくてもやもやしていたのです。
遠くに行ってからも、たまにやってくる一時的な「寂しい波」の度にLINEをしていたのですが、そんな自分にどこか違和感があった。

そのもやもやは、たぶん「過去のその人」に向かってLINEをしていたことからくるもやもやでした。
「過去」のその人を思い出して自分一人で元気を出したりするのはいいけれど、コミュニケーションを取ろうとしている相手は「今」のその人です。そりゃ違和感があるのも当たり前。

自分のことも思い返すと、人は本当に変わっていくなあと思っていて。
見た目とかじゃないし、価値観とか性格も大きく変わるわけじゃないんだけど、
なんとなく1ヶ月前の私と今の私は違ったりする。
だから、過去にも未来にも縛られず、「今」目の前にいる人を大切にすることが大事だなあ、と改めて思いました。
「今のその人」が見えない環境なら無理にコミュニケーションを取らない方がいいかもしれない。


カルテットとその私の気づきが結びついた瞬間でした。

で、あとひとつ。
じゃあ「今のその人」って何をもって今のその人なんだろうって話。

たぶんそれは、言語じゃ説明し得ないもので、
今のその人の表情や声やにじみでる空気感みたいなものから分かるものだ。
その人を「目の前にして」そこから感じるもの。それが「今のその人」だと思う。

矛盾してるようだけど、「直接会う」以外にも「今のその人」を感じ取れる手段はあると思っていて、それは手紙の文字や写真や「その人が今の自分を込めて発した何か」だと思う。ただそこにLINEはあんまり当てはまらない。

「言語じゃない何か」が伝えるものはとても大きい。
コミュニケーションの余地はそこに求めていきたい。
言葉もとても好きだけど、非言語が生む力が大きいことはわかった上で、丁寧に使いたいものだと思う。

どんなプロジェクトや企画を進めるのにも大切な視点だと思うので、忘れずにいたいこと。
私はたくさん変わったし、これからも変わり続けるけど、忘れずにいたいことは、ある。
そしてそれはこの1年間でたくさん増えた気がしている。

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のうどうてきな楽しみを


ふうう。今週は疲れた。
が、学びも多かったー。

「いのうえゆき」として人前で話す役割のあるイベントが3つもあったのです。
珍しく、どれも自分が始めたものではなく主催者さんにお願いされたもの。
そしてどれも話の内容は自由度の高いもの。

当日になるまで話したいことが決まらないのが私の習性なのですが、今回もそれを発動し、直前までこれだ!ってものが降りてこなくてひやひやした前日を過ごしていました。

ひやひやざわざわするのは疲れるし、どれもめっちゃ上手く話せたわけではないけれど、話す機会をいただけたことで、深く考えるきっかけができて気づいたことがあったからよかった!!と今思っております。

経歴柄、まちづくりやら地域活動やら、「地域」っていう文脈でのイベントが多かったのだけど、
私はもう結構長いこと、地域の課題(特に人口減少)を解決するための地域活動に響かなくなってしまっている。

地域での活動は、
「人がその人自身の楽しみや豊かさをのうどうてきに取りにいくこと」の延長である方がすてきだと、そう思っている。

人生のなかの「楽しむ」という行為を、飲み会やカラオケや温泉旅行や海外旅行などの「非日常」で「お金を出してサービスや物を等価交換する」娯楽に求めるのではなくて、
小さくて身近なところから「自分で作っていく」。
それは例えば、好きなお米屋さんでお米を買って炊くことだったり、ちょっとだけ時間をかけてだしをとることだったり、本棚をDIYで作ってみることだったり、今の自分に合いそうな詩集を買ってみることだったり、といった本当に日常の些細なことの延長にある。
人によってはそれが、畑をやってみることだったり、友達を好きな地域に連れてくることだったり、地域の人にインタビューすることだったり、何かプロジェクトや活動を立ち上げることだったりする、ってそれだけだと思う。

(この場合の「のうどうてき」の逆は「受動的」というよりは「消費的」なのかもなあ)

だから、本当は何も学校や会社を辞めなきゃできないことばかりじゃない。

ただ休みの日にしていたことをちょっと変えるだけでも、いいのだと思う。

それは、イシキタカイケイなわけでも自己犠牲的なわけでもなくて、
楽しみや豊かさを能動的に取りに行っているだけなのだから。

(「休日は好きな町で本屋の店員やってます」って言いたい人は武蔵新城来てください笑)

「地域」という分野や場所は、その「能動的な楽しみ」と相性がいいのだと思う。

みんななにかしら地域とは接点を持っているから身近だし、農業やものづくりなど当たり前のように昔から「自分で作る」精神が残っている場合も多い。
あとは分野としての地域ってのは「顔や生活が見える人とのつながりがあること」の代名詞のようなもの?だから、そのことも相性がいい理由かも。

「この地域の課題を解決したい!」という人は大切だけど、そんな人ばかりじゃなくていいし、というかむしろそういう人しか受け入れられない場所には魅力がないし、

地方地域だって結局は個人の集まりなんだから、一人一人の楽しみや豊かさを作ることが原点な気がしている。

なるべく「若者として」「地域として」「組織として」というくくられた意思に支配されずに動きたいなー。


また分かりづらい文章を書いてしまったけれど、恵比寿と内野と山北でイベントをしたばかりの今の私が感じていること。

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「個」を共有する



3/3〜5は、東京都美術館で行われたTURN展でスタッフをしてました。

TURN展の詳細はこちら

様々なアーティスト・作家さんが、障がい者施設や高齢者施設などの福祉施設を訪れ、そこにいる人たちと話したり時間を過ごして生まれた作品を展示しています。

今回私は、出展作家さんの一人であるEAT&ART TAROさんと、高校時代の友達を介して知り合い、作品の手伝いをさせていただくことになりまして。

前からTAROさんのやってることや、新潟でもちょっと触れたことのある障がい者×アートという分野に、「なんかすごくこっちな気がする」波をびりびり感じていた私は、
「ターン展手伝わない?」の誘いに何の迷いもなく乗りました。

3日間やっていたのは、ひたすら来場者と話すこと。(白衣を着て笑)
TAROさんは高齢者施設で出会った嚥下食をきっかけに、好き嫌いとは別に知らず知らずのうちに変化してきた食の「くせ」「ルール」のようなものを「フードコントロール」と名づけて、来場者のフードコントロールを聞き、嚥下食を体験できる作品を展示したんです。

他の作家さんの作品も、福祉施設での気づきや体験をもとに、写真や絵や映像や言葉や空間でそれぞれの表現をしていました。

いやー。もうすごく、言葉にできないほどよくて。
ひとつの衝撃的な作品がずーっと頭にのこるような、そういう感動じゃなくて、
日常生活の周りにいる人すべてが作品に見えてくるような、そんな感動でした。

終わってみて思うのは、ターン展は、「個を共有する」場だったのだなぁ、と。

組織や肩書きや経歴でくくられない、どんなに似ている人が隣にいたとしてもあなたがまぎれもない「個」だということを、
様々な方法で共有していたんだなぁ、と思いました。

みんな違ってみんないい。
そんなこと分かっている。
たぶん多くの人がそう思うと思います。教科書でもこの詩を散々読んだもんね。

でも、思っている以上に私達は、「同じ」であることに価値を置かれて育ってきたと思うんです。
入学も受験も部活も行事も恋愛もバイトも就活も、
同じ時期に同じことをやって、「やっぱこれはこうだよねー。これが正解だよねー。そういうもんだよねー。」って
共感できることがとても大切な世の中で。

新潟に行って、たまたま自分とはいろんなことが全然違う人たちと出会って、同期でも同級生でも部活仲間でもない、「いのうえゆき」としてその人たちと話せた時に、
なぜかすごく呼吸が楽になった気がして嬉しくてたまらなかったのは、
ずっと「個」を「個」として大切にしたかったからなのかもしれない。

今回、いろんな人のフードコントロールを聞いていて嬉しくなる瞬間は、
「その人にしかわからない」話をされた時でした。
「セブンのおにぎりは食べるけどローソンのおにぎりは食べない」
とか
「魚らしさを感じたいから刺身にお醤油はつけない」
とか
「昔見たショッキングなものの側に食パンが置いてあったから食パンが食べられない」
とか、
側から見ると理解できなかったり矛盾してること。

全然、全然理解できなくて、嬉しくなる。

この人と私は違うんだなーって。

すごくすごく当たり前のことなのに、意外とそれを実感する機会はなくて、でも「食」は誰にでもあるからこそ、違いをこんな風に笑って共有できる。

そして、「個」とは変わるものなのだということも分かる。
「何か他のものとの違い」は、単に「その瞬間における違い」であって、
時が経った時に昔の何かを理解できなくても全然いいんだと思う。



他の作品でも、いろんな人の「個」をびりびりと感じた。

同じ施設の利用者さんでも、
画用紙に描くものは違って、描く場所や形や大きさも違うし、
ダンスも違うし、見たい夢も違うし、球体の家に置きたい家具も違う。
それは周りが理解できないものだからこそいい。

そして、そういう「個」たちを作家さんが、他の人と「共有できる」形にする。
そうすると、私たちはこの東京都美術館という場所で、「個」に触れられる。出会える。

様々な個に触れると、なぜだかとても自己肯定感が増す。いろんな不安や怖さの穴が埋められていって、どこか安心する。泣きそうな気持ちの私もいる。

ああ、この小さな違いがこの人をこの人たらしめているように、
私をわたしたらしめているものはこんなに小さいものなんだと。小さいものでいいんだと。

そして、私は、目の前の人のそういうものを大切にしていきたいんだと強く思いました。

これから迎える新たなステージの始まりにとって、また大切なことに気づけた3日間でした。


TAROさん、TURN展に関わった皆様、来場した皆様、誘ってくれたみづき、本当にありがとうございました!

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「いい顔」見ましたか

早くも2月が終わりますね…

楽しいことと気づきがいっぱいあった2月(ちなみに1ヶ月すべて春休み)だったので、書きたいことが溜まってるんですが、

ひとまず今日の気づき。


ここ1ヶ月くらいで急激に来る回数が増えた武蔵新城。駅前の物件を使って「本屋」を作るプロジェクトをやっていて、それで行く回数が増えたのですー。今日も同じくそのプロジェクトの作業に来ていました。


本日の作業は、本屋をする予定のスペースの、天井と壁のペンキ塗り。


それなりに人数がいる作業。それなりに汚れます。それなりに時間もかかります。でも、そういうのが楽しい人にとっては楽しい作業。


私はいつものように「ほどよい直感で」知り合いに声をかけます。

なんかこの人いいかもな、くらいの感じで。


現場には所属や年齢もばらばらな人たちが偶然集うことになります。これもいつものこと。

半分以上の人が分かるようで分からない顔をするプロジェクトの概要を説明したり、たわいもない話でその場を楽しんだりしながら作業を進めます。


今日のペンキ塗りは5〜6時間で完了。銭湯で疲れとペンキを落として、その後打ち合わせをちょっとして解散。その間、メンバーは入れ替わり立ち替わり変わっていきます。


実家のある調布から武蔵新城までは、電車で20分ほど。それほど遠くはないけれど、1ヶ月に5回も6回も行ってこんなふうに1日過ごしたり

友達に武蔵新城まで来てもらって一緒に作業するなんて、はたからみたら、もしかしたら、なんで?となるかもしれない。


でも私、本当に自然に、行きたくて、やりたくて、そうしていた。

ただ、行く直前は正直、一瞬面倒になったりもする。

ちょっと混んでいる電車に足を踏み入れる一瞬や、片付けられていない自分の部屋の机が目に入った一瞬に、

「あー、わざわざいくのか」という面倒さが頭をよぎる。


結構いろんな予定の直前ってそうですよね。

行動心理学?でも人と会ったり何かする予定の直前はモチベーションが下がるっていうデータがあるらしい。


だけど、このプロジェクトの予定では、直前にはそうでも、終わった時にほぼ必ず、「今日も行ってよかったなー」と思っているのです。心から。

だからまた行きたくなる。

他にもそういう経験をよくしているけど、それってなんでなんだろうなーと考えた。


もちろん、今日の目標を達成した、とか、新しい学びがあった、とか、その時々で違う理由もある。でも、もっとシンプルに、その奥底を見つめてみると…


もしかしたらそれは、誰かの「いい顔」に出会えたからかもしれない、と思った。


今日もそうだった。


来て一緒に作業をした人が、

作業の後合流して一緒に銭湯に行った高校生が、

夜に本屋の看板を描いてくれるということで話した人が、


「いい顔」をしたんだ。


「いい顔」は笑顔とは限らない。(今日はわりと笑顔だったけれど)

もやもやしている顔や泣きそうな顔や力んでいる顔やあきれている顔が、自分にとっての「いい顔」の時もある。


好きなことをしていて楽しそうな顔は「いい顔」だ。


その基準は人によって違うから、自分しか判断できないのだけれど。


声の感じとかも含めて、直接合わないと分からない、言語化できない「誰かのいい顔」が、

気づかぬうちにじわりじわりと効いていて、

自分のしていることに肯定感を持てるのかもしれない。

飛躍しすぎだろうか。


ただ、今まで、言語化できないものに惹かれてした決断のそばには、どれも誰かのいい顔があった気がして、

いい顔に出会っている頻度が多い日々は幸せ度も高い気がして、

あながち間違ってもいないかもしれない。


もし、誰かのいい顔、あなたがいいな、と思える顔に出会える場所があるのなら、その場所を大事にしてほしい。

それはきっと、あなたの顔もいい顔にし得る場所だから。