おかかとこんぶ

社会人も長岡生活も1年生。変化し続ける私をとりあえずはことばで残す。そのうちにはことば以外でも残したい。

選択肢と愛

ここ最近、少し余裕はないけれど、素晴らしいことばかり目の前で起こっている。

わからない、文章で説明してもそれは伝わらないかもしれないけれど、少なくともたしかに、私の心は喜びに震える瞬間に定期的に出会っている。

 

東京からイベントで知り合った高校生が遊びに来てとても良い顔をして帰ってくれたり、

集落のおばあちゃんにとっても嬉しいことを言われたり

手書き新聞をわたしたら、シェアハウスの大家さんが朝ケーキを焼いて持ってきてくれたり

事務局でインターンしてくれてる子が自分を出せるようになっていたり

農業法人でバリバリ売り上げをあげていたインターン生が報告会で話したことが小さな幸せの大切さだったり、

ああ、この瞬間のためにやってきてよかった、と思える瞬間が本当にやってくる。

その量は、忙しさにも比例しているような、していないような…頑張っているごほうびだと思うことにしよう。

 

そんな今日は、これからインターン生と一緒にプロジェクトを始めるある小さな町の個人スーパーでの打ち合わせがあった。

「このスーパーがお客さんに届けたいものはなんなのか」という議論が中心だった。

受入の中心となるのは、専務のお母さん。年齢を聞くとびっくりするほどの若さと元気で、スーパーでは知らない人にも声をかけ、かごの中に入っているものを見ては、

「今はこっちの方が旬ですよ」と物を買えるように進めたり、お客さんの子供がうるさくしすぎたりしているとちゃんと叱ったり、冷蔵庫の中身を聞いて一緒に献立を考えたり、

それはそれは愛とインパクトのある、少しおせっかいすぎるくらいの接客をする。

うーんと1時間半話し合って、「作業ではない買い物そのものの満足感」というようなところに落ち着いたのだけど、改めて「おすすめを教えてくれる店」「相談できる店」というものが身近にあることって本当に大事なんじゃないかと思った。

 

おすすめがあるということは、そこに意思があるということ。

そして、自分が儲かるかどうかというよりは、本当にその人にとっていいと思うから、これが良いと言う。表明する。無償の愛に近い。

相談できるということは、そこに場の雰囲気や地域がつくれる関係性があるということ。

困りごとや欲しているものは、刻一刻と変わる。そんな中、その時その時に合ったサービスを消費するのではなく、相談できる人が一人いることはとても安心だ。

 

ふと、3週間前くらいに参加した「ハックツ合宿」を思い出した。

全国で10代のための本屋関係の活動をしている人たちが集まる合宿である。

その時にこんな話が出たのだった。

 

「多様な選択肢があることって、それだけで本当に幸せなのだろうか?」

 

日本の教育の同調性や同一性に対する意見として、「多様性の尊重」の話は本当に多くの場でされている。

私も、ツルハシブックスや全国の地域、タイでまさに「多様性」を実感したことが大きな価値観の転換にはなったし、それぞれが好きなものを選べばいいよねって考えで、基本的にはいたいと思っている。

他人には縛られたくないし、他人を縛りたくもない。

自分の「良い」の感覚はあくまで自分のもので、みんな違う感覚があっていい。

根底でそう思えることは、まずは自分を救うと思う。

 

そのうえで、思う。

たしかに多様な選択肢を知れる環境が増えた。多様な暮らしや仕事や価値観が認められるようになってきた。

あなたはあなたのやりたいように、やりたいことを。そんな教育も増えてきた。

でも、ハックツ合宿に参加した高校生は言った。

「選択肢が多すぎて、どうしていいかわからなくなる」

「自分が何も持っていないことへの不安にも襲われる」

最もだと思った。

多様な選択肢を知ったうえで、愛のあるお節介が必要なのではないだろうか。

お節介は、一方的で、勝手だ。

「あなたにはこれがいいと思う!」「これが美味しいと思う!」

と決めつけてしまうのだから。

でもそれが、言う人側の利益に関係ないことなら、きっとそれは愛だ。

人生に関わる大きな決断でなければ、若者はみんなもしかしたら、こんなふうな

誰かの一方的で勝手な愛を潜在的には欲しているのではないだろうか。

 

それがたくさんあるのが集落で、商店街で、地域なのかもしれない。

日常の何気ない買い物だって、いや買い物こそ、

ただたくさんの選択肢がある大型スーパーの他に、

選択肢はなくともお節介を焼いてくれる人や、信頼できる相談相手のいるお店にたまに行けることがとってもとっても大事なのではないだろうか。

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あなたの道をいこう

 

1,2月はとても忙しかった。(まだ終わってないけど)
自分がやりたい、と言い始めたことで自分の首を絞めていたような気もするが、なんかかんか仕事が多かった。
それに加えて、大雪。
来週の予定が毎週どうなるか分からない状態で、とても疲れた。
これが全部空から降ってきたことが信じられないほど、町は真っ白で、
宇宙からやってきた白い化け物に襲われたみたいだった。

そんな雪と戦いながら(それはそれで学びもすごくあったのでまたブログに書こう)しごとをしている中で気づいたこと。

 

最近ますます違和感アンテナが敏感になっているような気がするが、その時も違和感アンテナがびびびと反応したのだった。

 

イナカレッジと同じような事業を、成功させ、全国的に評価されている人たちとの研修の中でだった。
その人たちは、全国にネットワークを作り研修などを行うことによって、そのような事業を成功させるためのノウハウを皆に共有し、
成功する団体を増やそうとしていた。とてもすごい。そこにいる人たちは、こんなことまでできてるのかー!と思うことをたくさんなしとげている。

 

「学生そのものを見すぎる人を学生を育てることはできない」「この人だから、という理由でできたりできなかったりする状況をなくしたい」と言った言葉にも軽い衝撃を受け、それについてしばらくぐるぐる考えた。

それらによって生まれた問いは、究極的にはこれだ。

「何かしらの成果を出したいときに、人によってそのやり方は変えていいのか?」

今の、今のところの、私の答えは、「変えていい」だなと思っている。
「変えていい」であってほしい。

いやいや、そこを、このやり方ならどんな人でも成果出せるよ!というノウハウを探していくのが大事なんでしょ、と言われると思う。
だってその方が効率がいいし、そのノウハウを横展開できるし、売ることもできるから。

 

でも、それの何が違和感かというと、「努力できる」前提でそのノウハウがあることだ。
「もし成果を出したいなら、きつくてもそのやり方を実行せよ。」
「頑張れないなら、できないよ」
そんなメッセージを感じる。

 

わからないけど、「頑張る」しか道がないという状況はわたしはとっても不健全だと思う。

「誰かに言われた正解に向かって頑張る」以外の道を、いかにつくるかだと思う。


この道を車でまっすぐに行けばゴールにたどり着くことは、先人たちのおかげでわかったのかもしれないけど、
他にもゴールに行ける道や手段はあるかもしれない。

泳ぎが得意なら泳いでいけばいいかもしれないし、スキップしながら行ったっていいし、草刈りをして新しい道を作ったっていいし、
スキーですべって行ってもいいかもしれないし、

それはね、たくさん経験を積んで、自分のやり方が確立できるようになったらそうすればいいんだよ。
若い時はまずは頑張らなきゃ。

そういわれるかもしれないけど、私はどんなに若くてもちゃんともう個は形成されていて、その個に合ったやり方でやればいいと思う。
個に合わせたって人と関わりながら学ぼうとしながら何かを進めていく限り、ちゃんと勝手に育っていく。


そうやって、それぞれに合わせて新しいやり方を作っていきたい。
人と人をつなげてプロジェクトを作っている私たちは、どこまでもオーダーメイド精神で良いのだと思う。
イナカレッジの上司たちは、根底でそれをわかってる。
だから、「この人ができるやり方」を、ちゃんと探す。

ああ、ここで働いていてよかった。改めてそう思いました。

 

※「仕組みを作る側」「現場で動く側」という役割によって違う考えはあっていいなと思いました、あとで

 

 

 

 

「カルテット」と「それでも生きていく」で知る、成就するものだけが良いわけではないこと

 

1月頭くらいに書いていた、書きかけのブログがある。やっぱりちゃんと書ききろうとすると一発じゃ終わらなくて、そうすると結局、書きかけのまま放置することになってしまう。

 

まあ、ざっくりいうと内容は「私のやりたいのはやっぱり、感性を磨くお手伝いをすることだって気づいた」って話です。平田オリザの本の影響もあって。

 

で、今日はそれの続きを書く気力もまだないので、大好きなドラマの話をします。でもきっとどこかでつながってる。年始に書こうとした内容とね。

 

2018年は、惜しまず個の表現に触れようと思いました。

映画も見たいし、舞台も見たいし、展示やライブにも行きたい。

芸術や表現と言われるものだけが感性を磨くことになるわけではないけれど、一人でできる感性みがきはそういうことがやっぱりやりやすいし、実際そういう表現を通してみる日常とは違う世界の威力ってすごいんだ。

 

だから、1月はすでに映画を4本見てます。わたしにしてはとても多い。DVDもあるけど。なんだろう、とてもいい。これはまた今度言語化しよう。

 

で、映画ではないんだけど、2017年1月からやっていた「カルテット」というドラマがとても好きで、あとたしか2011年の夏ごろにやっていた「それでも、生きていく」というドラマもとても好きで、このドラマを見て考えた「好きという気持ち」についての話をします。

 

「カルテット」は弦楽四重奏のできる4人が軽井沢で共同生活しながら、お互いをだましたり好きになったりしながら生きていく話。

4人のキャストの演技も、セリフも、予想を超えてくる展開も、秀逸すぎて毎回映画を一本見たような気分になっていました。全然あり得ない設定なんだけど、人間ってこんなふうに多面的だよなあ、ほんとは。というのが根底にある感じがあちこちからします。

 

「それでも、生きていく」は、妹を殺された青年と犯人の妹が出会い、心を通わせる中で家族と自分の生き方に向き合っていく話。

こちらは重い話なんですが、どうしようもないことに向かう人間のありようがすごくリアルで、日々は続いていくんだよってことが時に悲しく、時に笑えるような雰囲気で描かれる。

うーん、大竹しのぶの演技も良いし、瑛太満島ひかりも素晴らしすぎて、だいぶファンになりました。だいぶ泣きました。

 

・・・全然説明できている気がしない。笑 まあ、本当にこのふたつのドラマの良さを語り出したらものすごいことになっちゃうので、今回はこのへんにしておきましょう。笑

 

 

「それでも、生きていく」を見たのは高校3年生のとき。受験勉強の合間に、これだけは、、と思って地デジじゃないテレビで見てました。

注目すべきは、このドラマの結末。陳腐な言葉を使うと、めっちゃせつないです。

 

(※たまたまYouTubeで最終話の最後があがっていた。最高)

 

お互い、とても好き。でも、離れる道を選んだ2人。

2人は、それぞれの日々のささいなこと、でも相手を想い出した小さなことを手紙に書きます。

でも、それは相手に送らずに木の枝に結んでいくのです。

 

 

カルテットのすずめちゃんは、別府さんのことが好きだけど、こう言います。

 

「いいの、片思いで。いった旅行も思い出になるけど、行かなきゃった旅行も思い出になるでしょ。」

 

「ちょっと頑張らなきゃいけない時、その人が、ちょっといるの。で、エプロンかけてくれるの。それでちょっと頑張れる。そういうくらいの、好き。」

 

 

・・・・・・・・・

これね、なんか説明するのが野暮な気がしてきました(笑)

もうね、まずは見てほしいんですが、このドラマを久しぶりに思い出してふと思ったのが、

「成就する恋だけが意味があるわけではない」ってことです。

 

どっからが恋なんだ、みたいな話をすると果てしないので、まあ、「好きだと思う気持ち」として。

その人が居ない時にその人のことを思い出して、ちょっと自分が行動を変えてしまうようなこと。会いたいなと思うこと。会えなくても、その人の幸せを想うこと。

たぶんねえ、その気持ちそのものに価値があるなあって、思います。

世の中にたくさんそんな気持ちが生まれたらいいのにって思います。

成就するかどうかなんて、たぶんあんまり関係なくって、その気持ちを持ってるだけで、うん、まずは十分。

その気持ちは見えないから、みんな目に見える成果や契約を求めてしまうし(付き合うとか、結婚とか)、いやいやアプローチしなきゃ意味ないでしょ!って言う人多いけれど、

ひとを好きになるってそれだけで、褒められていい。えらい!

 

ええと、何が言いたかったんだっけ。笑

でもそういう、ちゃんと「いろんな色を持つ気持ち」に敏感でありたい。大事にしたいのです。うん。

 

 

ある日の本屋

しごと帰りに、とても嬉しいコミュニケーションをもらった。

嬉しい。とても嬉しい。

寒くて暗い、1月19日。

なんでもない、金曜日だけど飲み会もなにもない、平凡な日。

なんなら仕事でちょっとざわざわした、ブルーな気分も入り混じる日。

だけれども、小さな小さなコミュニケーションのおかげで、今はるんるんだ。

***

 

仕事が終わって、「お先に失礼します」と事務所を出た。

外に出ると雨のにおい。でも降っていなかった。

ラッキー。朝傘を持って出なかったのは正解だったか。

 

横断歩道にさしかかる。11月に私が本を置き始めた本屋が見える。

あー、そういえば文進堂、行かなきゃなあ。

 

お正月に、かなり本気で、なんかやりたいと思ったのだった。この本屋で。

でもなんだかんだで、頭の中の妄想は進むも、日々の予定をこなすのに追われて、行けていなかった。

どうやって始めればいいかなー。アイデアはいくつかあるものの、これだ!となるきっかけがなく、いつもそこで終わってしまう。

 

というのも、こちらの本屋、しばらく居座れる場所がないのだ。

なので、店主の五十嵐さんと立ち話をして、話題が尽きると帰るしかない。

もちろん、本を見ることもできる。

でも置いてある本は申し訳ないけれど、私はあまり興味のない本が多い。

 

…よしいくか。

 

迷ったが行くことにした。横断歩道からは、20秒もかからずに着く。

入口からいつも店主さんの背中が見える。

今日はグレーの三角帽をかぶっていた。

「かわいい」思わずつぶやきながら自動ドアで中に入る。

 

すぐに振り返った五十嵐さん。

「おーう」「こんばんは。あけましておめでとうございます」

「そういえば、2冊売れたんだよ!」

待っていたかのように言われた。

「ほんとですか!」誰だろう、ツルハシ関係の誰かかな。

すたたた、と私の棚へ行く。

誰でも書き込めるノートを置いてあった。開いてみると…

 

山口県から来ました。内田樹の本、買っていきます」

と年配の方かな?と思うような字でメッセージが書いてあった。

 

うわあ、なんだこれ。めっちゃ嬉しい。

「それ、いいねえ」

と五十嵐さんも言ってくれた。

 

その後は少し最近のことや、店内に置いてある本のこと、他の人も棚に古本を置いたらいいね、というような話をして、18時半の閉店時間になって店を出た。

 

滞在時間、実にたった10分。

だけど、すごい元気をもらったのはなんでなんだろう。

 

なんかわからないけれど、今日、確信した。

「五十嵐さんの」本屋だからやりたい。

この人は、少し不器用だろうしなかなかやりたくてもできないことがあるんだろうけど、

とても謙虚で、優しい。夢もある。

発信がうまくて、わかりやすくて、まっすぐに全力でできる人もいるけれど、

私が一緒にやる人はそういう人じゃない。

 

まだまだやり方はわからないけれど、少しずつこのことに時間を使っていこうと思いました。

 

本屋の中の一棚で山口県の人とコミュニケーションできたのも最高にうれしかった。

いやー、高校生と、やりたい。

高校生が屋台できる本屋、やりたい人だれかいないかーー

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昨日行った、イロハニ堂の本棚。ここにも素敵なコミュニケーション。

 

 

 

 

未来をちょっと考える

12月28日です。はやいなー。

明日から東京です。1年を振り返ることになるんだろうなあ。

今年は11月~12月にかけてたくさん振り返りをしました。

付き合ってくれた皆さん、ありがとう。

それでも、一回一回の振り返りは違うものになっていくというか、1週間もたてば考えてることなんてかわるんだなあって感じ。

 

12月後半、かな。なんだかまたちょっと焦り始めました。

わたし、これやってていいんだっけ。

これ、やるべきことなのかな?とか

うっわ、私のできることってほんとうにない…ホームページも作れないしデザインもできないしコンサルもできないし料理もできないしものづくりもできないし農業支援もできない…

と思ったりとか。

 

信じたいな、と思える未来像が浮かぶと人はモチベーションがあがると思っているので、少し未来のことを考えているので、整理しようかなと思います。

 

今私はしごとで、ざーーーっくりいうと新潟県内の地域支援(うーむ、良い言い方ないかしら)を、インターンやらセミナーやら主に「人を呼ぶ」というやり方でやっているわけです。

しかも、専門家ではなく「素人」を呼ぶ。

 

たぶん、今までそのコミュニティに居なかった人が居るというだけで、実はすごく何かを変えていて、

空気感なのかなんなのかはわからないのだけど、

一次産業や伝統産業のような昔から継がれてきたものには、「現代にとっての価値」を常に考えて行かなきゃいけないと思うのだけど、

そのときにそこの空気に溶け込みすぎてしまった人だけではなかなか「現代にとっての価値」を確かめたり生み出したりするのって難しいと思うのです。

だから「新しい空気」を持ってくるというだけで役目ははたしていると思っていて。

もちろん「ポジティブな空気」である方がいいのだけど。

本当はそれ以上になにもいらないのかもしれません。

 

ただ受け入れ先に連れてくるだけでは価値を証明できないから、プロジェクトをやったりするわけです。(もちろんプロジェクト自体にも価値はあるんだけどね、というかプロジェクトをやることで「良い空気」を外から来る人が持てるような感じかな)

 

 

今、地域はどんどん変わっていて

いや、昔からずーーっと変わり続けてきたただなかに「今」があるだけなのかもしれませんが

 

数十年くらい建っていた建物が、

数十年くらい農業がされていた場所が、

数年くらい活動している団体が

数年くらい開いているお店が

 

あっ!というまに誰にも使われなくなることも自然にある。

その中で、何ができるんだろう、と考える。

 

でもきっと、将来できるかもしれない私の子供がおとなになるくらいまでには残っているものもたくさんあって、

というか残せるものもきっとたくさんあって、

これからもまだまだできるであろう大切な人たちに、

まだ残っている価値のあるものを、はい、と手渡したいだけなのかもしれない。

 

そして、物は消えてなくなる可能性もあるけれど、「五感で感じた体験」と「関係性」はそれを覚えている人が居る限り、価値がむしろどんどん膨らむ可能性もあるもの。

 

ああ、その二つが売りたいんだろうなー、イナカレッジは。

 

そしてそれを創る手段として、「一緒になにかやる」があるんだろうな。

 

でもまだわからないのは、地域でやる理由だね。

理由は分かっているんだけど、言語化できないなあ。なかなか。

 

今日は全然言葉が出てこない。事務所だからかな。

「個の色をもっているもの」に来年はもっと囲まれたいな。

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(家の前で野菜をもらった時の写真。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

贈りグセ

今日は、自分の感性を確認するブログにする。

ちょっと危険を感じたのです、仕事の会議で。

あ、これはきっと、気づいたら好きな表現に触れている時間が短くなって、

私が本当に「私のために」大事にしたいものが小さくなっていくな、と。

仕事がやりがいないわけじゃない。むしろ、これは私自身ががーっと走りたくて走ってしまうものだからこそ。

なので、ブログで自分の欲望と感性を確認する。笑

 

たぶん、3年前の私にはなかったクセに、最近気づきました。

いや、2年前すらなかったかもしれないな。

 

それは、日常的に贈り物をするようになったこと。

 

 

贈り物って言ったって、ちょっとしたものです。

でも、かわいいお店に行った時や、休日にちょっと遠出をした時は、必ずと言っていいほど、考えてしまう。

「あ、これ○○ちゃんが好きそうだから買っていこう、いつあうんだっけ」

「シェアハウスになんか買っていこうかな」

って。

500円くらいまでなら結構ためらわず買ってしまうし、誕生日とか何かしてもらったお礼とかならもっと出してしまう。

 

あと、ちょっと暇な時間ができた時や、誰かとの予定が近づいたときに

「あ、手紙書こうかな」「プレゼントできるものないかな」

と考えてしまう。直前だからいつもそれでばたばたするけど笑

 

こうなったのはたぶん、ここ2年ほど、何人かの「贈りグセ」がある人に囲まれていたから。

 

というかそもそも、コメタクもツルハシもその他の好きな活動は、活動そのものが誰かへの贈り物のようなものだからだろうか。

いや、地域の人でも、好きな贈り方をする人を何人も知っている。

 

ふだんのおすそ分けは「余ってたから」とか「偶然もらったから」というものが多くて、それはそれで嬉しいのだけど、

ここでいう贈り物は、自分と一緒にいない時間に自分のことを想ってくれて、何かしらその人が時間やお金を使ってくれた贈り物のこと。

買うものだけでない、その人を思い出してメッセージや電話をすることも贈り物かもしれない。

その人が喜びそうなことを考えて行動に移すこと。

 

そこには全然直接自分に返って来るものへの期待はない。

「え?なんで?」ってなる贈り物やそこまで?っていうほど時間やお金や手間をかけた贈り物も多いのに、

押しつけがましくなくて、自然で、受け取る方も申し訳ない気分にならない。贈る側が嬉しそうというか、贈りたくて贈っているのが分かるから。

 

そういう「贈り方」をする人が、2年前くらいから側に何人もいた。そういう人から贈られたり、そういう人が贈るのをそばで見ていると、それがすごくかっこよく思えた。

 

気づいたら私にもすっかり「贈りグセ」がついているなあ。ふと思った。

 

贈りたくなってしまうのだった。それを渡したときの喜び、意外な顔を相手がする瞬間がたまらなく嬉しい。

このことがもっと大事にされてもいいんじゃないだろうか。

「贈る喜び」を知る前よりも、人生は劇的に楽しくなったとさえ思う。

みんなもっと、知った方がいいんじゃないかと思う。

 

 

 

「贈る」を作る仕事をいつかしたい。

「贈る」についてもっと考えたい。深めたい。

 

 

いつか、一番素敵な贈り物を贈るあの子と、そんな仕事がしたい。

 

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(最近閉まってしまった近所のギャラリーmu-an。ここではいくつもの目に見えない贈り物をもらった)

 

自分が入る余白

やっぱりブログはその日のうちに、熱いうちに書かないとどんどん書きづらくなっていきますね。。

というわけで、今日は今日のことを書きます。

心の琴線に触れるものが日々多くなってきているというか、?が!に変わるスピードが速くなってきているという感じがします。

でもそれはそれで、思考より私の行動の方が追い付いていなくて、「まってまって」っていう感じ。整理って難しい。時間がとれればできるというものでもないし。

思考ぐるぐる、行動ゆっくりだと、「やりたいことができてない」、という気分になりがちですね。よくないよくない。

のんびり、でも一歩ずつちゃんとやろう。最近寒いし。雪も降ったし。

 

今日は、長岡造形大学に行きました。

イナカレッジで考えているプロジェクトの共有を副理事さんにしにいきました。

そこでの話がとても面白かった。

 

長岡造形大は、デザインを広く勉強できる大学です。

実は私の住んでいるシェアハウスにもこの大学の建築の2年生の女の子がいて、

毎日様子を見ているのでなんとなくどんな大学生活なのかは知っていました。

去年見に行った卒展も申し分なく面白くて、イメージとしては、センスのある子たちが多くいて、面白い表現や方法・技術が学べる大学、という感じ。

 

場所は、長岡駅から車で10分、徒歩30分?くらい。数年前に私立から公立になったので、倍率が一気にあがり、県外から来て大学のまわりで一人暮らしをしている学生も多いです。

キャンパスも、きれいに並んだケヤキ並木?に、のびやかな芝生に、コンクリ系のシンプルでスタイリッシュな校舎。

だからこそどこか、今までは自分の中では、少し遠い存在だったというか、そこに自分のお客さんがいる感じはあんまりしなかった。

 

けれど今日は、ここに自分のお客さんがいる気がしました。

そして仲間が見つけられそうな気がしました。

 

デザインを学べる大学と聞くと、

「ああ、才能のある子たちがいるんだな」とか

「もうやりたいことが決まっていて、専門的で、将来もすでに絞っているんだろうな」

と思われがちです。

 

そしてもっというと「デザイン」とは、

「他の人が考え付かないような、かっこいい(美しい・面白い)色や形」

のことだと思われがちです。

 

でもどれもちがうんだなと思いました。

今日の副理事さんのお話や、最近私に相談に来てくれる造形大生の話を聞いてそう思いました。

 

副理事さんによると、デザイン(デザイン思考)には、共感から実装まで6つのステップがあって、実際の色や形を決めるのはその一部でしかなく、そもそもデザインは

人の気持ちや行動を中心に、課題を解決したり新たな価値を提供するものなんだと。

だから、課題を解決する(伝えたい人に伝える)ための手段なんだから、「かっこいいかどうか」「新しいかどうか」で判断されるものではないわけですね。

 

だったらますます、才能うんぬんは関係なくなってくるなと思いました。

だってたぶん、そういう意味でのデザインの力を磨くには、良い人の近くで良い「トライ&エラー」を繰り返すしかないですから。

 

 

最近わたしに相談してくれる大学生のKちゃんは言います、

「建築はいくつかあるやりたいことのうちのひとつでしかなかった」と。

そりゃそうだよね、高校生の時に決めているんだもん。

やりたいことが新たに生まれることだって、変わることだってあります。もちろんわからなくなることだって。

 

でもなんとなく造形大では、

「才能があって大学では授業で技術を学んで、卒業したらデザイン・設計系(大学で学んだ分野の)の仕事につけること」がステータスであり、正解と言われるような気がしているのかも。もしかしたら。

でもそんなの全員じゃなくていい。

そもそも「学び」というのは実際に学ぶまで「何が学べるのかわからな」くていいんだから、

「結果的に」学べたもの・身についたもので、卒業後それを生かして働ければいいんじゃないかな。

 

じゃあ何をしたら、結果的に上で言う「自分の」デザイン(人の気持ちや行動を中心に、課題を解決したり新たな価値を提供するもの)を学べるのかというと、

 

「自分が入る余白を、他者や地域の中に見つけること」

かなあと最近は思っています。

そして、見つけた余白で自分の直感を信じて「トライ&エラー」をすること。

その先で、「自分のお客さん」に出会うこと。

 

余白っていうのは、課題とか困っていることとか、なにか不完全なもの。埋まっていないもの。

自分が入るっていうのは、「あ、これ自分のためにあるのかもしれない」と思ったり「他の人がまだ見つけていないな」「発見してしまった、出会ってしまった」と思ったりすること。

みんな同じ役割の何人もが参加する活動、毎年同じ活動、すでに広まっている&成功している活動、とかではあまりあてはまらない。

 

なぜかそういうところでは、軽そうな大人が軽く言う。「○○ちゃん、やってよ」「とりあえずやってみない?」

トライの機会が勝手にやってくる。わからないうちにやってみると、失敗もする。でも楽しくなってくる。

 

 

その先で、「自分のお客さん」に出会う。

ああこの人に届けたくてやるんだなっていう人に出会う。

そうなるともう、もやもやとしているものがだんだん晴れてくる。

 

こういうシナリオを書いているだけで、「あーこういう子が増えてほしい!!」と思って思って仕方がないわたしは思う。

造形大生が今の私の一番近くのお客かもしれない。と。

 

だってデザインという名の「伝え方」「届け方」ばっかり教わっていて、

「届け先」を持っていない子はきっと多い。

そんなにすぐは「届け先」は見つからなくていいんだけど。「誰に届けたいのか」という問いを持ちつつ、まずは余白を見つけてほしい。

 

 

そしてその余白って、「小さい地域」や「小さい企業」に多い。

新潟は小さい地域(広さではなくて、経済規模とか人口ね)や小さい企業が多いから、私には新潟が「余白パラダイス」に見える。

でも余白を知ることができる人は限られている。地域を知る人と話さずには余白は知れないからだ。

幸運にも、私が就職したところは、地域の余白をたくさん知ることができる。

 

地域を知る人とのつながりが深い上司たちがいるから、情報が入って来る。

各地域にインターン生もいるから、いろんな景色を目の当たりにすることができる。

あとは、タイミングにも身をまかせつつ、いろんな機会を作って、その余白を届けるだけだ。

 

 

「あなたが入る余白」、一緒に探します。

そのために井上有紀の半日「助手席インターン」っていうのをやろうかと思うんですがどうかな。笑

 

 

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