おかかとこんぶ

社会人と長岡生活2年生。変化し続ける私をとりあえずはことばで残す。そのうちにはことば以外でも残したい。

自分を消さずに働く

今日は少し、勢いに任せて書きます。なので、あんまり筋が通ってないかも。

そして、いつもの、自分の感性をまさぐるような話ではなくて、少し、じれったい話かも。

実は、この夏のインターンは少ししんどいものがありました。

それこそ勢いでやってきたもののツケがまわってきたというか…

大事にしたかった人たちを辛くさせてしまいました。

やっと関係事項が落ち着いてきて、収束・改善に向かっているところです。

そんな中、今日した話。インターン生と上司と。

 

インターンがらみの仕組みや出来事を説明するのは難しいので書きませんが、たぶんこれはわりとどんな仕事で思い当たる話かも。

組織と組織の間にお金が発生したとき、たいてい組織の人間は「組織の人」としてのふるまいを求めらる。

そこで生まれるやりとり、交渉や契約、実務…人が行うその部分に、「個人」の意見や思想も多少は出てくることもあるかもしれないけれど、それが「組織」とずれている時には絶対に組織の意見の方が優先される。

だって、組織のお金には他にも色々な人や設備が関係しているから。そこには1人だけじゃ負えない責任があるから。

組織だからこそ生み出せているお金をもらって働いている以上、組織の人間として外に出て仕事をするときには、組織の顔でふるまわなくてはならない。

 

すんごく、たぶん、当たり前。

当たり前なんだけど。

 

それが私には辛かった。全然言葉が出てこなかった。

とりあえず相手の気分を害さないようにと投げた言葉は、相手に全く刺さらず、むしろ違和感を強めさせた様だった。

なぜつらいか。それが自分を消すことだからだ。

自分は確かに何かを感じているのに、それに反する形で自分の口や目や手を動かさなければならないからだ。

そういう時間が長くなっていくと、麻痺してきて何も感じなくなる(ある意味順応)か、辛くなって手や口が動かなくなるかのどちらかになっていく。

何も感じなくなるよりかは、辛くなって動かなくなって立ち止まる方が健康的だと思う。

何も感じなくなった人たちは、今度は「自分が何を感じているか」を思い出せなくなっていく。とってもとっても、それは怖い。

 

組織に所属していることが不自由なわけでは、きっとない。

組織の中のふるまいにおいては、私は本当にのびのびできている。自分を消さずに意見を言えている方だと思う。

それは偶然、組織のやっていることや方向性・分野と私が合ったからだと思う。ただただ、運がいい。

組織の中でも、「新人の顔」「○○部としての発言」に押しつぶされて自分を消していたら辛いのかも。

 

色々な顔があることが自分を救っている、という考え方もある。

いや、本当の自分は複数あっていい。けれど、それは自分を消しているわけではない。

Aの顔の自分と、Bの顔の自分は、それぞれの場で違う、でもまぎれもない「自分」を出せているから楽なのだ。

誰かに押し付けられた顔は、窮屈だ。

 

そもそも出したい自分なんていない、という人もいるかもしれない。

いや、でもどんな人も何かしら「感じている」んだ。それが自分。隣の人とは、きっと違う。

「感じたことを言う」ことがどんなにすっきりして、嬉しくなって、可能性に満ちているか。私は何十人ものインターン生を見てきてなんとなく知っている。

感じたことをわりとすぐに言えるようになった人、また言える関係や手段を得た人は、少し生き生きしだす。

それは表現の第一歩で、あなたにしかないものだ。

そういうものを見たり聞いたりするのが私はたまらなく好きで、パワーをもらう。

なので、「自分を消さなければならない」状況からはなるべく遠ざかって欲しいと思うのです。

 

自分は消したくないけれど、目の前のことやまわりの人も大事だから一生懸命戦っている皆さんの味方です、私は。

そして、願わくば自分を消さずに働ける組織が増えて、組織にいるかいないかも自分の状況に合わせて選べるといいなあ、と思います。

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小さな自分と創造すること

今年は梅雨が長いな~涼しい夏だな~と思って7月を超えたら、うだるような暑さが待っていました。

季節の変わり目と言われる土用に、まさにどかんと暑くなり、1日ばかり体調不良に。

ただ、今年は初めて梅干しを干せた!これはとっても満足。

そして、7月最後の週末にはさくらちゃんと一緒に、愛梨ちゃんとその息子君に会いに行けたのも最高でした。

 

さて、前から書きたかった話を。

だいぶ前に、「料理をすると精神状態がよくなる」という話を書いた。

坂口恭平が「cook」という本の中でも言っている。料理が鬱に効く、という話。

最近も、疲れた時に簡単でいいから家でごはんつくって食べると回復していたので、ますます実感していたのだけど、

それ以外にも同じように、少しだけ精神が健康的になる行動はいくつかあって、その共通点があるんじゃないかな、と思ったのだ。

 

精神が健康的になる、というのは、ただ疲れや辛さや寂しさを埋める・癒すことではなくて、自分の中にエネルギーや力のかたまりができてくるような感覚のこと。

こういうことができればこれから生きていけそうだなあ、と思うような感覚のことだ。

 

料理の他には、例えば畑仕事。草取り。

あと、映画や演劇。美術館に行くこともそうかも。

 

この辺の行動の共通点、それは「自分がすべて生み出すわけではない創造」なのではないだろうか。

材料がたまたま目の前にある、きっかけが向こうから差し出される、その上で自分が能動的に手を動かして何かを創造する。

全部を自分が計画したり、作ったりするわけでない行為。

畑や料理は確かにそうだけど、映画を見ることは創造なのか?と思うかもしれない。

けれどこれが結構、創造的行為だと思う。

特に、すべてを説明しすぎない、見る側の視点や思考があって初めて完成するような映画はたくさんあって、そういう映画を見るときって意外と能動的なのだ。

(だからそういう映画が好きなのかもしれない。わかりやすいセリフやキャラの映画はたまにでいいな)

 

 

なんで、「自分がすべて生み出すわけではない創造」が精神を健康的にするのだろう。

これは、さらにもう一つの別の考え方?に基づいて推測するのだけど、

「自分が大きすぎないこと」が鍵なんじゃないかと思うのだ。

 

自分の意思を尊重しよう。自分の個性を活かそう。自分の感覚を大事にしよう。

とよく言われるけれど、

じゃあ「自分ってなんだ?」と考え始めると、意外と行き詰まる。というかそれを考えること自体が辛かったりする。

自分の中へ中へ矢印を向けすぎると、他人と比べてしまうこともあるし、答えが見つからないで焦ってしまうこともあるけれど、本当に焦る必要なんてない。

自分ではなくて目の前にあるものに矢印を向けること。それをきっかけに手を動かしてみること。身体で感じること。

やってみてから、その時の私がどうなったか、心地いいかそうでもないか、それを考えてみればいい。

その状態は、やっぱり精神が健康的になっていっている気がする。

 

他人と違う自分を見つけようとしすぎないこと。

ただここにいる自分が、まわりの環境と目の前のものをきっかけに作り出したものを信じていくこと。

 

日々のことに関しても、長期的なことに関しても、そういうふうに生きていきたいと思う。

 

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向き合いすぎない

「梅」と「雨」をしっかり味わった6月だった。

去年のインターン先でもあった集落の畑で梅の管理を始めた今年。しっとりと深い緑色をした木々の中で、何度も梅をもいだ。

剪定をしていないこともあり、梅の実の数がすごい。とってもとっても取りきれず、何人もの人におすそ分けをした。

その合間に、夏休みのインターンの募集・半年プロジェクトのサポート・9月以降のトビラプロジェクトの準備…などなどやっていたら、6月はリアルに1日休みだったのは4日間?くらいだった。。その4日間もいろいろ詰め込んでしまったので、反省。

良い時間や出会いや気づきもたくさんなのだけど、振り返れていないなー。

 

そんな時の、定例「コメタク合宿」があった。定例とはいえ、今回はさくらちゃんが宮崎に帰省していたのもあり、たぶん10カ月ぶり?くらい。

「コメタク合宿」といってももはや最近はコメタクの活動には関係ないことばかり話している。私にとって、いつもと違う場所で、頭の中を整理したり立ち戻るべきところへ立ち戻る、みたいな時間だ。

大好きなさくらちゃんとコメタクのデザイナー、めいさんとじっくり話せる機会でもある。

 

まずは出雲崎で梅もぎをした(いきなり笑)。1時間で20キロほど。集落の人たちにも会ってもらい、おひるごはんももらった。

その後、宿泊先がある津南へ。途中、十日町のリオンドール内の喫茶店でふりかえりグラフを書いた。

津南では、モリクラフトへ寄り道。雨の森の中にたたずむ、落ち着いた色のログハウスに、入るとぷんと香るコーヒーの匂いに癒される。ここではさっき書いたふりかえりの共有をした。

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津南の目的地は、いつもお世話になっている諸岡江美子さんの柳の家。手仕事ワークショップなどのイベントや、宿泊業をやっている古民家だ。

classic-lab.comさくらちゃんとめいさんを連れて来たかったので、念願の想いが叶って嬉しい。

江美子さんてづくりの、宿泊者限定のノートに感動。私もこういうことしたい~

わいわい夕食を食べ、なんともいえない空間の心地良さに任せて、それぞれの時間を過ごした。なんだろう、いつものように「なんか話すか」とならなかった夜。

外にはカエルの声と雨音が響いていた。

 

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次の日の午前は、十日町の美術館「キナーレ」内のカフェにておしゃべり。その時間がすごくよかった。

 

向き合う、に少しだけ違和感がある。

良い行動のように聞こえる、その言葉に。

自分に、向き合う。

友達の悩みに、向き合う。

大事にしたいことに、考えなければならないことに、向き合う。

なにかを解決するためには、そのことに正面から向き合わなくてはいけない?本当にそうだろうか。

「向き合わない」と言うと、「逃げる」なのではないかと思われる。

でもきっとそうじゃない。

 

「向き合う」ということは、「すぐに答えを出そうとする」ことでもある。

「向き合う」ことそのものがしんどいときもある。

人が「決められない」「進めない」ときに、正面からコトの中心に向かってボールを投げるのは、何かを突破するかもしれないけれど、何かを失うことにもなるかもしれない。

 

そういうときに私がしたい関わり方は、

正面じゃなくて隣に座り

「なにが?どうして?」と聞くのではなく美味しいお茶を出し

一緒に眺めて待つことだなあと。

自分の身にも重要そうだぞ、ということがあっても、急いでそれには向き合わくてもいい。今心地良いと思う時間を過ごせばいい。

それは、向き合わずに逃げているように見えて、むしろ気がつかないうちに案外するっとクリアして進んでしまうコツかもしれない。

 

重そうなことからは少し気をそらして進んでいくくらいが、人生にはちょうどいい。

 

大学生に、大学時代に経験してほしいこと、みたいな話を授業などでも話す機会が増えてきたけれど、それも、「今するべき!!」と言い過ぎない。だってそれもあくまで私が一方的にそう思ってるだけだし、今しかないなんてこと、世の中には意外とないと思う。

 

エーリッヒフロムと町田君の世界に影響されて、最近はずっと「愛」について考えているけれども、

私は「お茶を出すような軽やかな愛」をみんなに渡したいのだと思う。

 

コメタク合宿を振り返ってみても、良い感じに「向き合いすぎない」旅でした。

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長期的にラクになる

前に、「人のつくられかた」に興味があるというブログを書いた。今回は、それがちょっと更新された話。

自分の信念・行動の根源的なテーマはなんだろうとよく考えていて、最近はそれがわりとずっと「無償の愛」だったのだけど「愛」というとちょっと重たく伝わってしまうときもあるので、なんなんだろうな~ときまぐれに言語さがしをしていた。

 

インターンのコーディネートの仕事をしていて、プライベートでもシェアハウスにいて、迷えるor岐路にいる大学生たちとたくさん出会う。その子たちの変化や無変化のそばにいる。

 

キャリア支援という言葉も、教育という言葉も、なんだか私の興味のどまんなかにはしっくりこなくて、じゃあなんなんだろうとずっと考えていた。

この3年くらいで、うわーこの子は良い変化があったな、という子には何人も出会ったけど、みんながそうなるべき、と思うのもなんだか違和感で(そもそも他人に変わるべきとか思いたくない)、でもその変化のきっかけに関われたことは嬉しかったのだった。

「自分なりの幸せを見つける」「自分らしい生き方を見つける」「自己肯定感をもつ」も、近いけれどちょっと違う、もう一歩。

 

昨日は大学生に向けた説明会だった。イナカレッジのプロジェクトはなかなか全体像と意義を説明するのが難しくて、毎年考え直している。でも毎年考え直すくらいじゃないとだめなんだよなあ。

自分がわからなくなったり、誰の期待に応えればいいのか分からなくなったり、素直になるのが怖くなったり、賢くやろうとしてひねくれたりこじれたり、そもそも一定の状態を保つことなんて不可能な、まさしく変化の連続である大学生という時期。

私はなんのお手伝いをしているのだろう。

大学生がどうなるお手伝いをしているのだろう。

 

そう思った時の、今の一番のしっくりくる言葉はこれだった。

「長期的にラクになる」お手伝いをしている。

もちろん、「今、ラクになる」もとても大切にしたいことだけど、その話はちょっと置いておく。長期的って何年くらいだよという話ではなく、自分が計画を立てられないくらいには長い期間のことかな。

 

思えば、私が新潟でした原体験としての変化もそれだった。

 

「どうなるかわからない時代」と言われる。それに関してはわりとどんな人たちも同意だと思う。

「どうなるかわからない時代」で生きていくのに必要なのは?

学校でいい成績をとることでも、ビジネススキルに長けて起業できることでも、

影響力やカリスマ性があってたくさんの人に注目されることでも、

年収が高くて有名な会社で働いている人と結婚することでも、

内定をいくつももらうことでも、

やりたいことが早くわかって逆算して計画を立てられることでもない。と思う。

 

必要なことは、自分をどんな状況にも対応可能にしていくということ。どんな状況でも、それなりに自分を満足させて、ご機嫌に心地良くいられるようにするということ。

私が新潟で得たのは、そういう状態だった。資格もスキルも得ていないのに、長期的に見てラクに生きていけるための要素を得た。

 

自分をどんな状況にも対応可能にする要素はどんなものか。もう少し具体的に書いてみることにする。長くなりそうなので、思いついたものから(笑)

ちなみに、その要素を身につけるために有効な一歩も書くことにする。

①自分の生活を自分で楽しめるものにすること

もう、これは本当に自分の身を守る。ようは、なんでもない毎日のくりかえしの中で、楽しみを見つけられること、かつ自分の手でつくっていけること、だ。

料理でもいい、掃除でもいい、インテリアでもいい、

朝でも昼でも夕方でも夜でもいい、

田舎でも都会でもいい、

1人でも友達とでもいい、

自分の「好きな」時間や道や家具や味を見つけること。

見つけて、私はこれが好きだな、と思うこと。

その「好き」に触れている時間を少しずつ増やしていくこと。

不幸や失敗、疲労に頭がとらわれてそんなことに気が回らない、という状況もあるかもしれない。でも思い続けること。

見つけられてきたら、次は自分でつくってみること。

DIYして自分で棚つくったり壁塗ったり、新しい料理を覚えたりドライフラワーをつくったり梅酒を漬けたりすること。

そんなことをしていると、なにかが不便だ、つまらない→「買えばいい」「動画見よう」と消費的に楽な思考停止をしてしまうのではなく、創造的に考えるようになってくる。

案外、自分の生活は楽しいことだらけだなあ、とわかると本当に一生生きていける気がするのだ。

どういうことか全く分からない人は、融通の利く大家さんの空き物件で友達とシェアハウスをつくってみるといい。もしくはそういうシェアハウスに遊びにいくといい。

長岡と内野なら紹介できます。笑

 

②よりどころ&頼れる人を増やすこと

これも、めちゃくちゃ有効。よりどころというのは、安心できる空間やコミュニティだと思うのだけれど、これは「種類を増やす」ということが大事だと思っている。

ようは、1種類じゃないということ。多様だということ。

家庭のことは家族だけ、仕事のことは会社の人だけが関わるというのもその構成メンバーがダメになったときのことを考えるとリスクだし、予想外のプラスなことが起きる可能性も低くなる。

ようは、血縁・仕事でのつながりではない「第三の」関係を負担なく増やせるようになると、長期的にとても楽だ。

もしものことがあれば頼れる人がいること、頼れる空間があることは、なにも無い時の心の安定にもなる。

新潟で生まれ育ったわけではない私が、大学時代も含めて丸3年間やってこれているのは、すべてそうした人がいるおかげだ。食べ物をつくれる人、建物や道具をつくれる人、知恵を蓄えている人、文化や作品をつくれる人、答えのない問いに向かって一緒に考えられる人、私を慕ってくれる人…

大企業に入っても、東京で働いても、多様な人には出会えたと思う。ただ、得たい関係も「自分で選べている」のは、今の環境ならではかなと思う。

今後大切になってくる関係だからこそ、偶然とのかけ算ではあるが、出会った後それを続けるかどうかは自分で選びたい。

こういうことをかきたかったんだっけ?まあいいや。

とりあえず2つあげましたが、まだあります。③は自分を知ること、かな。

今回はとりあえずここまでで…

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 (梅の木管理はじめました)

 

 

 

 

 

 

 

 

発酵に学ぶ

5月1日。令和になりました。

長い長いゴールデンウィーク…になるまでブログを書けずにいて、ちょっと悔しい。また1カ月空いてしまったー。今年も走りに走る年になりそうです。

 

さて、先日、長岡でトークイベントがありました。社会情報学者のドミニク・チェンさんを迎えた、「発酵とまちづくり」をテーマに長岡のこれからを考えて行こう、というトークイベント。

昼間、とっても晴れてあたたかく、公園でピクニックしたら日光のあたりすぎか少し頭痛い中での参戦(笑)

 

ドミニク・チェンさんは社会情報学を研究し、早稲田大学の教授でもある方。

wired.jpウェルビーイング」(幸福度?というような意味合い)の研究もしていて、こちらの記事もとても興味深い。「ぬか床」を研究もしているという、なんだか一言ではやっていることを説明できないような方でした。

 

今回のイベントは、そんなドミニク・チェンさんと「体験ギフト」を提供しているソウ・エクスペリエンスの関口さん、そして長岡造形大学の理事長、水流先生の3人の対談がメイン。

www.sowxp.co.jp

ちょっと頭痛かったのもありメモもとっていなかったのですが、ドミニク・チェンさんの話が面白かったので2つほど記録がてらこちらに書きます。

 

1.必要ない菌が必要

 

ひとつめは、ひょんなことから「ぬか床」に魅了され、マイぬか床をめちゃめちゃに愛しながら発酵の研究もしているチェンさんが、発酵デザイナーで有名な小倉ヒラクさんとたどり着いた最近の研究結果のこと。

 

「ぬか床における発酵とは、主に乳酸発酵のこと。これには乳酸菌が一番大切で、そのほかの乳酸発酵に必要ない菌はまずはだんだん減っていく」

「ピクルスくらいの発酵状態では、とにかく必要ない菌は減っていくが、」

「熟成したぬか床には、乳酸発酵のためには必要なかったはずの菌たちがまた増えてきている」

「これらの『乳酸発酵に直接必要なわけではない菌』たちも美味しさに一役買っているのでは」

という研究結果だった。

これは確かにおもしろい。「まちづくりと一緒だ」って結びつけることにもはや少し飽きてきたけど(笑)、でも多様性ってそういうものだ。

「直接必要かどうか(価値があるかどうか)わからないものが共存しているということ」。だと思う。

まちも本当にそう。人生もそう。仕事ができる人ばかりじゃなくていい、お金稼げる人ばかりじゃなくていい。失敗しちゃった人とか、苦悩した人とか、人としゃべるのが苦手な人とか、もっと言えば日本語しゃべれない人とか、勉強できない人とか、子供いない人とか、全員、いていい。いた方がいい。

それでみんなが完全に自分勝手に生きるんじゃなくって、少しずつ手をさしのべたり歩み寄ることで、美味しいぬか漬けみたいなものができるんじゃないだろうか。

GSシェアハウスやイナカレッジはそういう人たちが来れる場所にしたい。

そういう弱い部分を持った人が、「ここなら居れる」という場所がいくつもあるまちでなければ残っていかないと思う、文化も人も。

「管理しきれないことが大事」という言い方もしていた。「管理すればいい」って考え方が逆に危険なのかもしれない。

 

2.自分の心も生態系

もうひとつ、チェンさんがそんなに長くは話さなかったけれどとても印象に残っている話がある。

それは、「同時に多様な感情を感じたほうが幸福」という研究結果のこと。

だから、to do リストじゃなくてto feelリストを作った方が面白いんじゃないかって。

「あー最近恥ずかしいって感情抱いてないな」って思ったら恥ずかしい感情を感じられるようなことをする、みたいなのがto feelリストらしい。

「自分の心も生態系でぬか床みたいなもの」ってことかあー。面白い。

なんというか、負の感情、悲しいとか辛いとか寂しいとかって、感じなければ感じないほど幸せかと思いきや、そうじゃないんだ。

負の感情が深く味わいある音楽や映画などの作品を生むように、それがある方が熟成された良い心をはぐくむのかもしれない。

まあ、実際「恥ずかしがりにいこう!」「寂しくなりにいこう!」というのはちょっと不自然というかそれはもう少し偶然でいいのかもしれないけれど、

たぶん、心を動かさなくなる方の方が問題なんだ。ひとつの感情にとどまっていることの方が不健康なんだろう。

そんなこと言われたら、目の前のすべてのことが少しだけ怖くなくなる気がする。だってどんな感情を抱いたとしても、自分の心を熟成させることにはつながるんだもの。

ずっと負の感情は嫌だけど(私の場合それはなさそうだけど)、負の感情も受け入れられるといいな。

 

***

 

結局発酵って、人間のすることは「環境をつくって待つ」ことだけ。

発酵という現象が起きて発酵食品ができるのって、ほとんど自然の(菌の)チカラ。

これは私、地域でのプロジェクトや大学生のサポート(キャリア的なこと)をするときにもとっても共通することだなと思っている。

環境をしっかり整えれば、あとは一人の人間のチカラで何かしようと思わない方が、環境(ぬか床)の中ののたくさんの要因が絡み合って関わって素敵なものはきっとできる。

だからこそ「環境」は大事で、そこはしっかり質のよい環境にする。プロジェクトだって、人生だって、学生生活だって、きっと何をするかそのものより「まわり」が大事だ。

何をやりたいかが分からなくても、良い環境の中にいれば、つくっていれば、いつか発酵という現象は起きる。

それを令和はもっと実現して、もっといろんな人と共有できるといいな。

 

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(西会津で食べた、おかゆのおとも)

 

 

25歳のおばあちゃんになる

4月に、なりました。どこか他人事のように自分の人生が進んでいくような気がしている。2,3月は来客が多くて、常に走っている日々でした。合間に心から感動する瞬間も楽しくて大笑いする瞬間もたくさんありましたが。

 

前回のブログの続きみたいなことがまたテーマかも。

2月、3月、いろんな大学生や来客が長岡に県外からやってきました。

1泊以上シェアハウスに泊まり、私が案内役になって車でどこかへ連れて行ったり誰かに頼んで連れて行ってもらったりした人は、全部で10人以上。

休学する人しない人、経済学部の人人文学部の人、田舎育ちに都会育ち、映画好きに音楽好き。それぞれみんな違います。

居心地が良くて自然で話がぴったり合うーー人ばかりじゃありません。完全にずれている人はいないけれど、違うリズムに疲れることもあります。

それでも淡々と、フラットに、自分が疲れすぎないように、でもその人にとって素敵な旅になるように、過ごします、動きます。

 

それは、ただ一緒に時間を過ごすということが決まっている人に対して、評価や判断をしたくないから。

仕事を一緒にしたり、何かアクションしたり、遠くにいても関係を続ける上では、「その人がどんな人か(自分の好きな人か)」はとても重要だけど、

「一緒にいる」時間そのものがあるなら、もうそれだけでいいのです、ほんとはたぶん。特別な感情はいだかない。(もちろん嬉しいな、いいこだな、好きだな、と思うことも多いということをふまえて)

 

上司が最近、ある「農村への外部人材活用」の研修にパネラーとして出た時、荻ノ島集落の素晴らしい区長さんと一緒になって強く言ったのは

「役にたつかどうかで外から来る人を判断していたら本当の受け入れはできない」

ということだったそう。

もうこれ、本当に真理。イナカレッジの真骨頂。これがすべての土台。(めちゃほめる笑)

あと、「そういう機会に置いて大事なのは70歳以上のおばあちゃん」ということも。

これも本当にそう。

若者と農村、相互に「活用しあおう(自分にとって役にたつかどうか)」としてつくられる関係にそんなに未来はないと思う。

若者にとって大事なのは、本人たちは気づいてないかもしれないけど、「無償の愛」のようなものでつつみ存在ごと受け入れてくれるひとや場所や文化なのだ。

それをムラの世話好きばあちゃんたちは、無意識に提供している。笑顔ひとつ、声かけひとつ、行動ひとつで。

 

ただ、そこにいる。ごはんがあったから一緒に食べる。星がきれいだから見に行く。どんな人でも、親切にする。

どうせ新潟に来るなら、農村じゃなくてもそんなイメージをもってシェアハウスに迎え入れたいなあと思う。

そのうえで心地良いと思ったらまた来ればいいし、自分とは違ったなと思ってもいい。

そんな、25歳のおばあちゃんになりたいと思う。

(過去のインターン生たちに対しても最近母みたいな気分で見ちゃう笑)

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(温泉へいくある日のシェアハウスの住人。正規住人は6分の2)

 

 

 

「誰でもいい」というやさしさ

2月が終わりました。笑っちゃうくらいわかりやすく晴れている日が続いて、THE雪国の春。布団を干せるのが嬉しくてたまりません。

また、最近考えてることをつらつらと。

先日、インターンフォーラムという新潟県内のインターンシップに関する団体や大学、大学生が集まるイベントに、元インターン生の工藤君が来てくれた。

そして、その時の工藤君の言葉(その一週間後のイナカレッジのイベントでもですが)に、とても感銘をうけまして。

「成果をだすかどうか、能力がどうかじゃない自分を受け入れてもらったことが、大きかった」

それが、自分の感情とぐるぐる向き合うための土台になったそう。

 

その工藤君の言葉を聞いて、しばらくその言葉が頭の中にあった。

 

そして、その後川口地域の雪洞ほたる祭りで手伝いをして、新たな気づきが。

 

牡蠣などを売る屋台で忙しくお手伝いをしたのだけど、それが久しぶりにとにかく体を動かして、淡々と目の前の人の役に立つ感じがとても心地よかった。

もうそりゃあ、次から次へと人が来て。メニューも10種類以上あって。人が3人以上いないと到底回せない状態。

大学生も上司も一緒になって、とにかくお客さんの対応をして、補充をしたり牡蠣を焼く店主のアシストをして…気づいたら1日が終わっていた。

前回のブログでも出てきた舞夏も、疲れつつも楽しそうにお手伝いをしていた。インターンでやってもらう「自分の気持ちを伝える」とか「文章を描いたり自分なりのアウトプットをする」とかの仕事とは別の種類のこの作業があってよかった、と何故か思った。

 

ふと、まきどき村という畑と朝ご飯の会をやっている唐澤さんの言葉を思い出す。

「普段はコミュニケーションがとりづらい人でも、田植えや稲刈りだと大切な人手。必要ない人はいないから、一緒に手を動かしてなんとなく仲間になる。」

それが昔のコミュニティであり、村だった。

たしかに今は「なにができるか」「どんな人か」「個性はなにか」に注目しすぎているような気もする。

誰でもいい仕事はできるだけロボットがやればいいという風潮になっているような気もする。

けれどもしかしたら、単純作業なんだったら人間がやらなくていい、という判断はちょっと危険なのかもしれない。

そこには、ある意味で承認欲求が満たされるなにかがある。

 

なんだか矛盾しているようだけど、「あなたが誰なのか」が大事で、「あなた」に合わせて暮らしかたも働き方も恋愛の仕方も変えられる世の中では、同時に「あなたが誰であろうと」受け入れられる場がなくてはいけないのではないか。

そして、例えばとにかく大勢で手を動かす稲刈りや、DIYや、いるだけで一員になる田舎や農村がそういう場になれるのではないか。

 

私はどちらかというと人を選んでしまう方で、自分の感覚で好きだと思う人たちと一緒にやろうと思ってしまう。

それはそれで必要なのだけど、同時に「誰でもいい(部分もある)」というやさしさにつつまれているような機会をつくりたくもある。

「あなたが今ここにいるから」という理由だけで十分だ、と言いたい。

何十年も母をやった、ムラのおばあちゃんからはそのやさしさがにじみでているのかもしれない。

私もそんなおばあちゃんになりたい。

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(あめちゃんの絵)