おかかとこんぶ

社会人も長岡生活も1年生。変化し続ける私をとりあえずはことばで残す。そのうちにはことば以外でも残したい。

暮らし視点が足りない

先日、新潟大学のキャリア担当の方と打ち合わせをした。

今度行われるインターンシップフェアについての話。新潟県内のインターンシップ関係者が事例やノウハウ、動向などを共有するための場だそう。

地域インターンをやっているイナカレッジにもぜひ絡んでほしいとのことだった。まだ内容は仮決定&外部には出していない段階なのであまり言えないが、担当の方と話している時に良い気付きがあった。

イナカレッジのインターンは、たぶん就活前に企業が行うインターンとは違う。

じゃあ、どういう文脈で紹介できるだろうか?という話で、

こういう地方の企業でのインターンの意義として、「地元で就職してもらう」みたいな意図があるけれども、その視点で言うと、

「こんな仕事・企業があるなら新潟にいようかな」

ではなく、イナカレッジだと

「こんな暮らしがあるなら新潟にいようかな」

となると思うのだ。

 

だから、相対的にはイナカレッジインターンは「暮らしインターン」なんじゃないか。

そんな気づきだった。

 

数日後、都内で「イナカレッジバー」と称して

大学生何人かとお米を食べながらもやもやや興味ややってみたいことなどについて話した。(恒例の西田卓司プレゼンツですが)

その時に思った以上に「暮らしインターン」というとらえ方の反響は大きかった。

「就活説明会に行っても、その企業に入った時の自分の暮らしは見えてこない」

そうだよね。就職説明会は、給与とか福利厚生とか、仕事内容とか企業のビジョンとかはたくさん聞けるけど、

例えばこの会社の沿線にはこんな町があって、帰りにこんなところも寄れますよとか

この会社の社員さんはこんなふうに生活を楽しんでますよ、というのはなかなか聞けない。

 

いや、別に仕事さえやりがいがあって自分のキャリアになって給料がよければ別に生活は自分の思い通りにならなくてもいい!という人はいい。

というか、私の今までのまわりの人たちは、そういう人たちばかりだった。

というか、それは親にも先生にも当たり前のこととして対応されてきた。

 

でも、私はそうは思えなかった。

10年後のキャリアより、1年後の自分の生活に興味があった。

それはでも、休学して新潟にいた1年間で、暮らしを楽しむやり方を覚えたからだった。暮らしを楽しむことがどんなに今の自分を肯定できたりご機嫌にできたりすることにつながるか知ったからだった。

そして、今の自分を自分でご機嫌にできれば、どんな時もわりと幸せに生きていけると気づいたからだった。

それは、今勢いがあっても10年後どうなるか分からない社会の中で自分の生活をなげうって大きな企業に入るより、よっぽど自分にとって「安定」だった。

 

「暮らしを大切にしている」というと、「自給自足」「手作り」というキーワードが浮かびやすいかもしれない。

梅干し漬けて、畑をやって、縫い物をして、染め物をして、…というような。

もちろんそういう生活の要素も大好きで、とってもとってもやりたいけれど、

今すぐにはできないこともある。

私がいう「暮らし」は、もっとすぐにできること。

別にてづくりじゃなくたって、お金を払ってやる消費活動をちょっと意思をもってやるだけで、ご機嫌な生活は作れる。

茶店にいく、銭湯にいく、映画を見る、散歩する、器を買う、本を買う、ワンピースを買う、靴を買う、漬物を買う…

便利なものには頼るというのも、ヒントかもしれない。

あと、それらを一緒に楽しむ友達を持つというのも大事かな。

これくらいの小さなことができるくらいの給料が入れば、勤め先はむしろ「やりがい」「キャリアにつながる」とかじゃなく、「拘束時間長すぎない」「アクセスよい」「人が悪くない」くらいの要素で決めてもいい。

(といいつつ、私は欲張りなのでそれなりに仕事でも燃えたくなってしまうのだけど)

 

みんなこっちになりなよ!というのではなく、なんというか

この「暮らし視点」がとても少ないということにハッとしている。

特に、「大学生」にこの視点がもっとあってもいいと思う。

「子育て」「結婚」この辺のライフステージになるとみんなこの視点を持ち始めるのに、

大学生時代はそんなにその視点によりそった情報や環境がない。

でも大学生になって初めて一人暮らしをする人が多いのだから、「自分という人間が明日もそれなりに元気に暮らしていく」にはどうしたらいいのかを突き付けられる時期でもあるのだ。

この時期を、自分の好きな暮らしと共に作れるのかどうかというのはとても大きいと思う。

 

と考えていると、あれあれ、これは3年前にコメタクで言っていたことと同じじゃないか、と思った。笑

コメタクをやって一番暮らしが変わって、その価値を実感しているのは今の私かもしれない。

だから今、より「大学生の暮らし」に寄り添った企画がしたい気持ちが強い。

さて、何をしようかな。

 

 (柏崎の花火。海から上がるのとてもきれい)

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予測不可能性について

7月。ぐんぐん暑くなって、夏の雲がもくもく空を攻めてきて、

ワールドカップは決勝トーナメント1試合目で日本は惜しくも敗退し、

西日本では豪雨で200人もなくなる人が出た。

日本社会的にも、私にとっても、いろいろなことがあったこの1か月くらいだった。

 

そんな今日は、3連休の前日。明日は半分仕事ですが。

今日、一人の東京の男子大学生が、1カ月の波乱万丈なインターンを終えて東京に帰って行きました。

 

このまま資格を取って卒業することに違和感を感じて休学し、6月1か月時間あるので何かやろう、ということになり、小千谷の農村に放り込まれ、いろんな農家さんの1日をひたすら一緒に過ごし、日記を書いたくまがいくん。

そんな彼が日記の最後に書いていたのは、「予測不可能性」の中の安定性だった。

 

彼の日記を読んだ頃ちょうど私も「予測不可能であること」について考えていて、ちょっとそれについて書こうと思う。

 

予測できないこと。最近市役所の縛り多めの仕事をしていて、それがどれだけ扱いづらいかというのを、職員さんの様子からひしひしと感じる。

 

それで気づいたのだった。私は予測「不」可能な方が好きだなあ、と。

仕事も、生活も?、たぶん恋愛も、どうなるかわからない状況にわくわくしてしまう。好奇心なのだろうか。

 

いや。とちょっと考え直す。「予測できないことそのもの」が好きなのではない。

「言語では説明できない感覚」を信じて自由に動きたい。そういうことかもしれない。

つまり、今は何がどうなるか計画も予定も立てられなくても、自分や(一緒に何かする)相手の「直感的なもの」を信じられていれば、何かが起こってから判断すればよい。むしろ何かが起こった時の感覚で決めたい。

そういうことなのかもしれない。

 

(言語で説明できない感覚で人は結構動くと思っているので、移住定住系の事業ではそこを重視すべきだと思うのですが、判断基準が全くそこにないので、時々とてもやりづらい。例えば、ゲストとの打ち合わせの目的のひとつにその人がどんな人なのかを私が知る、というものが入ってなかったり。)

 

って、この話、半年くらい前にもブログで書いてましたね。結局ぐるぐる回るのだなあ。

 

あ、言いたかったのは、イナカレッジが学生にひとつ与えられる大切な経験は、

予測不可能性の中で感覚に任せて(くまがいくんは「五感」と呼んでいましたが)楽しむ・面白がるという経験なのではないか。ということ。

 

農村地域の暮らしは、いつも予測不可能だ。

いつ天気が変わるかわからない。誰に会うかわからない。

でも不安にならない。理由は?言葉や数値で説明できるものではない。

最初は不安かもしれない。でも1か月いて、それが不安にならなくなってくるころ、

大学生は少し、自分の感覚を信じられるようになっている気がする。

 

大学のプログラムも、予測可能な、計画的なものは多いかもしれない。

でも本当の教育効果を考えたら、どうなるかわからない、少しくらい成果は残せないかもしれないけれどその子の感覚にゆだねるような、予測不可能なプログラムの方が良いのではないかと思う。

だってもう、社会そのものが予測不可能だ。

誰が受けても同じ教育効果を保証できるのが、真の教育だろうか。

本質はそこではない気がする。「結果が保証できていること」の価値はこれからどんどん下がって来ると思っている。

 

「こうなったらこうなる、というものではない」

「でもそれがおもしろい。いろいろな価値観が交差して」

 

若者を何人も受け入れ幸せを問うことができている荻ノ島集落の春日さんはそう言っていた。

みんなこれを実感するところからしか始まらないような気がしている。

 

あーあ、市役所や国に理解してもらう努力なんか時間の無駄だと思っていたけど、最近は違和感あるシーンを目の当たりにすることが多いから、否が応でも問題意識がもくもくしてくる。笑

 

まあ、この上司なら一緒にがしがし変えていけそうな気もするから、もう少しこの位置にいようかな。プライベートでは小舟を漕ぎ出そう。

 

なんかよくわからない締めくくりですみません。笑

でも月1更新したいので書けて良かった!笑

 

くまがいくんのpolca。もう終わりましたが。

https://polca.jp/projects/THyLdrM3eZj

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「女性としての自分」を考える

25歳になった。

なんだか、24よりもどんっと来る数字だ。20代のどまんなか。もう借り物の顔をした20代ではない感じ。

そんな25歳の誕生日とその前後は、思いがけず「女性としての自分」を考える機会に出くわした。

 

先週、東京の実家に帰った。簡単に誕生日も祝おう、ということで少し早めだけど祝ってもらった。

25になっても家族全員とまではいかなくても両親と妹が祝ってくれるなんて幸せだけれども、今年はいつもの誕生日より母からのプレッシャーが強かった。

「適齢期なんだからね」

うわわー。来ますね。なるべくそちらからは話をそらそうと頑張る自分がいた。

 

結婚もしたいし、恋するのもデートも好きだけれど、一般的に「モテる」タイプの女性像になろうとは全く思わない私。なれない、というのもあるけれど。笑

お母さんは、私にずーーっと言っている。「やせること」「肌をきれいにすること」、最近はそれに「歯の矯正」が加わってきている。

たしかに、そのみっつは今の私に足りないことだし、それらはたしかにきれいな女性になるための一歩ではある。

「きれいになる」ってなんだろうか。

「幸せになる」という話と同じで、「きれいになる」にも人それぞれあるんじゃないだろうか。そのなり方も、たくさんあっていいような気がする。

それを、「きれいになるにはどうしたらいいんだろうね」「そもそもきれいってなによ」から始められたらいいのだけど、「きれいになるにはこうすべき」「きれいとはこういうこと」と最初から決められたような気がするから、母に言われたときに辛いのかもしれない。

 

ああ、きっとそうなんだろうな。書いていて気付いたな。自分にとっての「きれい」を考える前から、なんだか世の中の「きれい」のあり方を見せつけられて、それでどこか劣等感を感じてしまうことってあるような気がしている。

 

母の言葉の何が辛かったのか、実は自分でもよくわからない。でもはっきりと「辛い」と思ったことだけは覚えている。今の自分を否定されているから、そりゃそうなのだけど。

 

そんな東京での時間のあと、誕生日当日に、初めて助産院へ行った。

助産院」と言っても、普通の一軒家だった。新潟市西区にある「みちつき助産院」。

新潟県では1つしかないのだそう。ここを運営しているのが、助産師の更科先生だった。

 

特に妊娠を予定もしていないし、体調が悪いわけでもないけれど、助産師の知り合いが1年くらい前からとてもほしかった。

想えば、小川糸の「つるかめ助産院」を読んだ頃ぐらいからかもしれない。

私がどんなタイプの人かを知っている、体のことを相談できる人がほしいと思った。検索でいくら情報を仕入れられても、その安心感にはかなわないと思った。

 

今回はさくらちゃんが、お台所みかこさんを通じて更科先生と知り合い、会を開いてくれたのだった。出産DVDを見て話す会だった。

 

更科先生は、助産師は英語では「女性の隣にいる人」として訳されると言った。

「まさに!」と思った。なんて素敵な職業だ。

病院で働いている時期もあり、でも病院でできるお産の形は限界があったという。

今、みちつき助産院でのお産は、どれも妊婦さんの気持ちや状態に合わせたお産。

「良いお産」に必要なのは、正確性の高い設備や手順ではなく、より本能的になるために必要なことを整えることだという話が興味深かった。

好きなものをそばに置いたり、好きな体勢で産んだり、好きな人にいてもらったり。

 

ここでもたぶん、大事なのは「自分にとっての」心地良さや気持ち。

改めて「何を感じているのか」をちゃんと自分に聞く重要性を感じる。

分析でも解釈でも意味でもなく、「嬉しい」のか「悲しい」のか「寂しい」のか「気持ちいい」のか。そういう単純なことを。

 

何人かの女子でお菓子を食べながら出産のことやそのほかいろんなことを話すのは楽しかった。こんな場があるなら生きていけそうだと思った。

良い助産院さえあればよっぽど移住したくなるわ!と思った。笑 

 

もう少し、「女性としての自分」を私も考えたいし、私のまわりの女子たちにも一緒に考えてほしいと思った。

それは「女性だから」というものに縛られたくないからこそ、「井上有紀」は「井上有紀」だ!と言いたいからこそのものでもある。

自分の性別のあり方なんて自分で決めなくてどうするんだと思うから。

ただ少し、ふだんの会話や職場や飲み会でふらっとできない話題もあるから、場を作って考えたいかもしれない。

 

 

最後に、大好きなリトルプレスでの大好きな部分がありまして。

 

出産ができるという素晴らしいことも女性は持っているけれど、別に生むことだけが種の生存になっているわけでも、本能なわけでもない。

「自分を大切にする」それも立派な本能で。

それぞれ「自分にとっては」を持ちながら、軽やかに生きれるといいなあ。

 

大好きなリトルプレス「うかうか」はこちら。

title-books.stores.jp

 

案内したくなる町

最近、たくさん散歩をしている気がする。雪もなくなって、寒くもなくなって、晴れの日も多くて…だからかな。嬉しくて、快適で、ほんの数か月前、街が灰色と白で埋まっていたことなんて結構忘れてしまう。

 

ひとりで歩くのも好きだけど、誰かと歩くのもとても好き。

春になって、遠くから新潟に、市外から長岡に、人がやってくることが多くなって、

その度にけっこう「案内」をしている。

半分仕事も「案内」だしなあ。

 

案内はしてもしなくてもいいのに、自分の時間を使ってするということは、

「案内したい!」と思わせる場所あって人がいるからだ。

この場所を案内することで、純粋に知らなかった場所を知ってもらうのもあるし、私が好きな場所はこういうところなんだよっていう紹介でもある。

そして、その人といる時間が楽しくなるかどうかもかかっている。大事だ。

 

そんな大事な案内先は、できるならば、グーグルやテレビ・雑誌で見たから、以上の理由がある場所がよかった。

行ったことあるから、も。もう一歩。

 

良いなと思える人がやっているとか、ストーリーを自分が話せる場所。

そうだ、その場所にひとつでも物語があって、それを自分の感情込めて話せる場所だ。

 

そういう場所が一番多いのは、結局内野だった。1年間、車なしでどっぷり商店街に住んでいたから無理もないね

今は車でびゅんびゅん、内野にいたときの何倍もの範囲で飛び回ってしまっているから、

歩いて回れる案内には限界がある。ドライブも楽しいけど、一度に何か所も行けない。

 

それでも、最近はなんだか、長岡にも歩いて案内したくなる、そんな場所が増えてきた。

私が住んでるシェアハウスは最初からだけど、最近できた音楽図書室。もねちゃんの新しいシェアハウス。自分が棚を作っている文進堂。

茶店・飲食店などもちょこっと。

 

それだけで。それだけなのに、生活がとても楽しい。人を迎えるのも楽しい。

 

みんな、住んでいる町に案内したくなる場所が増えるといいんじゃないか。そんな風に思う。

小さくても、自分が自分の言葉でストーリーを話せる場所が。

だから、文進堂で「自分の棚」を持つことも良いかもよ。笑

 

住みやすくなってきた、長岡。

自分の感覚を信じて、過ごす時間を、ともにいる人を選んでいきたいです。

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といって、長岡ではない駅。笑 トトロの道

5つの私

明るくて社交的そうな子が「実は私根暗なんだよね」と言うシーンに、意外と多く出会う。

影がある感じ、知らない部分がありそうな感じの方がそそられるよね、という話は置いておいて、

ヒトはいくつもの面でできているよなあ、と思う。

何より自分がいくつもの自分でできていることを実感していて、その考え方は結構楽にいれるので

今日はその話を書いてみようと思う。

 

SNS上の自分がいる。発信されたものだけを見て私のイメージを形づくっている人たちがそこにいる。

まあ、だからこそイメージ戦略なるものができるのだけど、逆に何層もある、何面もある私をそこで知ってもらうのはとても難しい。

別に何層もの自分を知ってもらわなくてもいいのだけど、少なくとも自分は自分のことを少し重層的に理解していたい。

なので、ここ最近の、半年くらいの私を「5つくらい」に分解して理解を試みようと思う。

いったんこうして自分を整理しておくと、たいていのことは、「あーまたこの自分が出たかー」と思って落ち込まなくてすむし、「お、これは今までにない自分かもしれない」と新しい気づきにもなる。きっと。笑

さあ、最後までかけるかなー。

 

1.軽やかさと場の心地良さを大事にしたい私

たいていの、まだ個人的な付き合いが浅い人には、この私が一番出ていると思う。

偶然や自然な流れ、場の空気に乗っかって何かが動いていくのが好きで、それは「ただその場にいた」というだけで何かが始まる面白さがあると、何回かの経験で実感しているからかもしれない。だから、基本的に軽やかでいたい。

今の仕事のきっかけも、今の暮らしのきっかけも、そもそも新潟に来たきっかけも、すべては偶然にのっかったからなのだ。

そして、私は場の心地良さをすごく大事にしてしまう。

目の前の人をまずは肯定したいし、同じ場に居心地悪そうな人が一人でもいるのが苦手で、とにかく不安だけは取り除きたくなってしまう。

そのせいで、ああ、ちゃんと本当に思っていたことを言えばよかった、とかあとで思うこともある。

本当は気まずくなることや多少場の空気が壊れることを恐れないところから生まれることもあると、頭ではわかる。

けれどそうふるまわずにはいられない自分がいるのだ。

 

 

2.私のために丁寧に暮らしたい私

この私は、コメタクを始めた2015年から、突然存在が大きくなってきた私である。

自分のために、日々の暮らしの小さなことを少しだけ「丁寧に」する。

別に自給自足とかをするわけではなく、料理をするとか、ふらっと散歩をするとか、詩集を買ってきて読むとか、手紙を書くとか、花をかざるとか、ふらっと日帰り旅をするとか、好きなカフェや商店に行ってたわいもない話をするとか。

このことが、どんなに私を楽にするか、私を整えるかが、仕事をしてますます感じられてきた。

仕事やイベント主催などで忙しくなってくると、いつもこの私との闘いだ。

よく陥るのは、仕事では誰かの丁寧な暮らし・ライフスタイルへのきっかけを作ろうとしているのに、自分ができてないじゃんっていう矛盾。

葛藤はよく起こすけれど、私はこの私がいることで保てている気がする。

 

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3.とにかく自分がやりたい私

この私も、なかなか強い。そして面倒だ。

このやりたいというのは、プレイヤーになりたい、私が体を動かしたいという言い方もできるかもしれない。

面白そうだなということを思いつく。この困りごとはこうすれば一歩突破すればいいんじゃないかということを思いつく。

例えば、地域の人と仲良くなること。そこから何かを一緒にやること。

思いついたら、それを「私が」やりたくなってしまう。飛び込みたくなってしまう。

飛び込んだ人が、一番喜ぶ人の顔を目の前で見られて達成感があるというのを知ってしまっているからかもしれない。ずるいんだよね、ほんと笑

まあ、それは少し他の人に任せられるようにもなってきたけれど。

イナカレッジも、コメタクも、内野のことも、木沢のことも、本屋のことも、城内町のことも、

なかなか私はこれ一本!となれない。しばらくはまだこの私とお付き合いかな。。。

 

4.愛と関係性に執着する私

これもやっかいなものです。笑 でも、私らしさ、ここにあり!という感じでもあります。笑

なんというか…「この人だから」という理由が大きくなりがちなのです。

感動しいなのかなんなのか、「心を通わせられたかも」「大切な瞬間や価値観を共有できたかも」と思った相手はもう、すぐ好きです。笑

好きだから、その人の今までとか、これからとか、今とか、とても気になってしまいます。あ、別にこうするべきとかは思わないのだけど。

高校まで、「親と私」「友達と私」「兄弟と私」という関係性の中でしか育ってこなかったせいもあるのか、それ以外の「お父さんみたいな米屋」「親戚みたいな海産物や」「50個離れたおしゃべりともだち」とか、面白くて素敵な関係性が新潟をはじめいろいろなところでできてしまい、その関係性が思いもよらない出来事や物を生む可能性があるということを信じちゃってるのです。

関係性はたしかにすごくいろいろなものを突破するとは思うのですが、私の場合は愛が増えすぎて、離れることが寂しくなったりということも。

 

5.表現に触れたい、作りたい私

これはわりと、最近認識している私。

私が心からぐわっと喜びを感じる瞬間が、その人の「個」が出た表現に触れること、だということ。

音楽も、詩も、絵も、文章も、動画も、演技も、空間も…

まわりに受けるように、とつくったものじゃなくて、その人の「こうしたい」が出ている表現が美しくて、だけどなんだか減ってきているような感じもあって。

感動するかどうかは、プロかどうかとは全然関係なくって。

おばあちゃんがつくったものでも、小学生がつくったものでも、「その人」が表れているものが好きすぎて、これをどうにか、身の回りに置きたいし、世間に増やしたい。笑

 

 

ちょっと最後手抜きしましたが、あくまで「ここ最近」の私ですし、濃淡あるし、これより小さいけれどまた別の私もいる。

よく「このことで自分は変わりました」「この時期から意識が変わって…」というけれど、一人しかいない自分が変化したというよりは、自分を構成している何人もの中に新しい自分が加わった、っていう感じじゃないのかな。

できれば、「この自分は好きだなあ」と思える自分の割合を増やしていきたいものである。

嫌いな自分も、まあいてもいいよ、と言いたいけどね。

自分を構成している自分たちの中には、小さい頃すごく大きな存在だったのにいつのまにか新しく来た自分の後ろに隠れてしまっていた自分もいる。

そういう自分を思い出してあげることも、良いような気がする。

あー、そういう自分もいたのねって。ごめんね忘れてたなって。

汚い自分だって、かっこわるい自分だって、過去にもいたし

未来にもいるかもしれない。

 

なんとなく、こんな風に自分を整理してみるのもありかもしれないよっていう、話でした。

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料理をする

1週間全くしていないと、むずかゆくなってくるものがある。

それが、料理だ。

 

いや、むずかゆくなってくるというのはうそかもしれない。

別に平気っちゃ平気だ。ホンモノの面倒くさがりかつシェアハウスに住んでいる私が、料理をせずに、1週間を過ごすことくらい、なんてことはない。

料理をしなくても、辛くはない。やらずにはいられない!というほど好きでも得意でもない。

でも、ちょっと疲れたなー、なんか体が重いなー。という日が続いたときに料理をすると、驚くほど回復していることがある。

 

なにがあるかな、と確認して。米をといでセットして。野菜を切って、ぐつぐつ煮たり炒めたり。ビールあるかな、あーないか。梅酒でいいか。

あ、にんにくあるじゃん、入れよう。

 

そんな、行き当たりばったりで無計画な作業。コンロにかける鍋の順番を間違えたり、物の置き場がなくなったり、ばたばたしている。

けれど、良い感じに頭が空っぽになる。目の前の野菜や鍋に無意識的に手を動かすのは楽しい。

 

この時間は、私が私に定期的にプレゼントしてあげなきゃいけない時間なのだと思っている。

きっと料理じゃなくても良いのだろうけど、(畑とか手仕事とか…)今の私が一番しやすいのは料理だ。

 

夜ごはんをゆっくり作る他にも、朝少し早く起きてお米炊いて、おにぎりを昼に持っていくのも効果的だ。

なんていうか、本当に、自分を大事にするちっちゃい行為ってこういうことなんだと思う。

こういう日常を小さく良くする大切さに気付くことの方が、キャリアや結婚や移住などの大きな決断のためのアドバイスよりうんと重要な気がしている。

 

だから、暮らしの手帖の「暮らしのヒント集」、松浦弥太郎の「今日もていねいに」って本が大好きだし、実家をはなれる学生に読んでもらいたいなと思う。

 

あ、そういえば!こないだ私が古本を置いている本屋で、「今日もていねいに」を買っていってくれた大学生がいました。ノートに一言書いてくれているんだけど、もうそれが嬉しすぎて…

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選択肢と愛

ここ最近、少し余裕はないけれど、素晴らしいことばかり目の前で起こっている。

わからない、文章で説明してもそれは伝わらないかもしれないけれど、少なくともたしかに、私の心は喜びに震える瞬間に定期的に出会っている。

 

東京からイベントで知り合った高校生が遊びに来てとても良い顔をして帰ってくれたり、

集落のおばあちゃんにとっても嬉しいことを言われたり

手書き新聞をわたしたら、シェアハウスの大家さんが朝ケーキを焼いて持ってきてくれたり

事務局でインターンしてくれてる子が自分を出せるようになっていたり

農業法人でバリバリ売り上げをあげていたインターン生が報告会で話したことが小さな幸せの大切さだったり、

ああ、この瞬間のためにやってきてよかった、と思える瞬間が本当にやってくる。

その量は、忙しさにも比例しているような、していないような…頑張っているごほうびだと思うことにしよう。

 

そんな今日は、これからインターン生と一緒にプロジェクトを始めるある小さな町の個人スーパーでの打ち合わせがあった。

「このスーパーがお客さんに届けたいものはなんなのか」という議論が中心だった。

受入の中心となるのは、専務のお母さん。年齢を聞くとびっくりするほどの若さと元気で、スーパーでは知らない人にも声をかけ、かごの中に入っているものを見ては、

「今はこっちの方が旬ですよ」と物を買えるように進めたり、お客さんの子供がうるさくしすぎたりしているとちゃんと叱ったり、冷蔵庫の中身を聞いて一緒に献立を考えたり、

それはそれは愛とインパクトのある、少しおせっかいすぎるくらいの接客をする。

うーんと1時間半話し合って、「作業ではない買い物そのものの満足感」というようなところに落ち着いたのだけど、改めて「おすすめを教えてくれる店」「相談できる店」というものが身近にあることって本当に大事なんじゃないかと思った。

 

おすすめがあるということは、そこに意思があるということ。

そして、自分が儲かるかどうかというよりは、本当にその人にとっていいと思うから、これが良いと言う。表明する。無償の愛に近い。

相談できるということは、そこに場の雰囲気や地域がつくれる関係性があるということ。

困りごとや欲しているものは、刻一刻と変わる。そんな中、その時その時に合ったサービスを消費するのではなく、相談できる人が一人いることはとても安心だ。

 

ふと、3週間前くらいに参加した「ハックツ合宿」を思い出した。

全国で10代のための本屋関係の活動をしている人たちが集まる合宿である。

その時にこんな話が出たのだった。

 

「多様な選択肢があることって、それだけで本当に幸せなのだろうか?」

 

日本の教育の同調性や同一性に対する意見として、「多様性の尊重」の話は本当に多くの場でされている。

私も、ツルハシブックスや全国の地域、タイでまさに「多様性」を実感したことが大きな価値観の転換にはなったし、それぞれが好きなものを選べばいいよねって考えで、基本的にはいたいと思っている。

他人には縛られたくないし、他人を縛りたくもない。

自分の「良い」の感覚はあくまで自分のもので、みんな違う感覚があっていい。

根底でそう思えることは、まずは自分を救うと思う。

 

そのうえで、思う。

たしかに多様な選択肢を知れる環境が増えた。多様な暮らしや仕事や価値観が認められるようになってきた。

あなたはあなたのやりたいように、やりたいことを。そんな教育も増えてきた。

でも、ハックツ合宿に参加した高校生は言った。

「選択肢が多すぎて、どうしていいかわからなくなる」

「自分が何も持っていないことへの不安にも襲われる」

最もだと思った。

多様な選択肢を知ったうえで、愛のあるお節介が必要なのではないだろうか。

お節介は、一方的で、勝手だ。

「あなたにはこれがいいと思う!」「これが美味しいと思う!」

と決めつけてしまうのだから。

でもそれが、言う人側の利益に関係ないことなら、きっとそれは愛だ。

人生に関わる大きな決断でなければ、若者はみんなもしかしたら、こんなふうな

誰かの一方的で勝手な愛を潜在的には欲しているのではないだろうか。

 

それがたくさんあるのが集落で、商店街で、地域なのかもしれない。

日常の何気ない買い物だって、いや買い物こそ、

ただたくさんの選択肢がある大型スーパーの他に、

選択肢はなくともお節介を焼いてくれる人や、信頼できる相談相手のいるお店にたまに行けることがとってもとっても大事なのではないだろうか。

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