おかかとこんぶ

新潟にいる人。映画と本と家ごはんが好き。

そだちとわだち

久しぶりにはてなブログ。ほんと、1年以上ぶり!?しばらくnoteの方に移行していました。

なんとなくnoteの方に書きづらいことをこちらに書こう。笑

noteはSNSとブログのあいだのツールなので、こうなんというか「わたしっぽさ」みたいなのを意識して書いてしまうのです。あとはちょっと作品っぽく書いてしまうと言うか。

純粋に言葉にしたい、文章にしておきたい、みたいなことはもっとたくさんあるけど、noteにはあまりかけていません。あとはTwitterと自分のword日記に書いている。

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今年は、今までとこれからの自分の生き方と自分自身の内面と、暮らしと仕事を全部いっぺんに見直した(見直さざるを得なかった)年だった。

今もまだ見直しきれていない。のだけど、書きたいことがあったので書いてみる。

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29歳になった。まわりの結婚・転職などに影響されて将来の不安がつのる時期とされている「クオーターライフクライシス」に入ってからすでに2、3年ほど経っている。私も例に漏れず不安になったり、実際に働き方を見直そうと試みてきての2,3年。

25歳くらいまでの私は、「今」と「1~2年後」くらいまでしか具体的な想像をせず、あとは自分の直感が導く「きっとこっちに行った方がいい」という方向へ突き進んできた。シェアハウスからシェアハウスへ引っ越したり、田んぼや畑を始めてみたり、友達とラジオやZINEづくりを始めてみたり…そのひとつひとつは私にとってはあまり大きな決断をした記憶はなく、外からきたきっかけボールを私なりに打ち返してできてきたものだったし、それをし続けられたのも具体的な「今後」の想像を数年後くらいまでしかしていなかったからだと思う。

クオーターライフクライシスに入ってからの私は、急に「30年後」くらいまでを考え始めた。いや、正確には「パートナーやまわりの仲間と楽しく暮らし、自分を表現しながら、個人で(もしくは家族と)仕事をやれているといいな」となんとも完璧なストーリーを描くようになっていた。そのストーリーを描いてしまったために、そして少しその未来が見えてしまったがために「どうしてもそうならなければ」とある意味自分を縛っていたのかもしれない。

その想像が「いったん難しい」もしくは「早めに決断しなくてはならない」という兆しが出始めた今年の夏の終わりごろから体調を崩し始めた。仕事も繁忙期で時間の余裕がない中、精神的にきつい出来事が立て続けに起こった私は、数日食欲がなくなった。村上に車で向かう途中に寄ったタリーズのパスタがほとんど吐き気で食べられなかったのは今でも忘れられない。

 

私はいつしか、人と自分を比べる自分に影響を受けすぎるようになっていた。自他の境界線を引きなおす必要があるという話はまた別で書こうと思うけれど、私が人と比べやすくなっていたひとつの理由は、私の選んできた進路と環境にあると思った。

 

生まれ育った場所も、学歴も、家庭環境も、関係ない。ある程度の年齢に達したら、行きたいところへ行ってやりたいことをやろう。暮らしも一緒に居る人たちも好きに選べばいい。

もちろん叶わないこともあるけれど、そういう考え方自体は普通になってきている。私もそう思うからこそ、大学4年で休学したし、新潟で就職もした。両親からは反対されたし、楽しいことばかりではないだろうことも分かっていたけれど、その道を選んだ。今だって、後悔はしていない。その選択をしなかったらもっと後悔していたと思う。

だけど、当時はわからなかったことが、ある。

それは、「イレギュラー」な道を選んだら、ずっと自分で道をつくりつづけなければいけないということ。あと、「好きなもの」「やりたいこと」を能動的に選べるのは自分が「元気なとき」であるということ。

 

「レールを外れる」という言い方がある。生まれ育った環境・年代が同じ中でたいていの人が選ぶ進路ではないものを選んだ人たち、選ばざるを得なかった人たちが言ったり言われたりする言葉。どちらかというと自分で言うことの方が多いかな。東京の進学校を出てM治大学を出た私が、新潟の小さな会社に入ってシェアハウスや田んぼをしながら暮らしているということに対してもそういう言い方ができる。

でも、そんなはっきりしたレールなんてもともとないとも言えるし、外れるかどうかの2択じゃないとは思う。ただ、なんとなく既存の「何も考えなければ一番生きやすい道」はたしかにあると思うのだ。

雪国の言葉でいうと、レールというより「わだち」がしっくりくる。わだちというのは、先に行った車のタイヤが雪をふみしめて次に行く人が進みやすくなっている道のこと。

 

新潟に来て出会い、今もつきあいのある友達は、感性と価値観がなんとなく近い。一緒にいて居心地がいいし、話したいことは尽きない。高校時代までの友達よりよっぽど心を許している。お父さんやお母さんみたいな年上の頼れる人たちもいるし、慕ってくれる年下の学生たちもいる。

けれど、新潟出身や地方出身の人が再びあるいはずっと新潟に居ることはある意味「わだち」に沿っている行為であり、私とはちょっと違うなと思ってしまうことがある。

ちなみに、地元の人と結婚すればだいぶその「わだち」に入れる感覚がある。「結婚」というものもそういう「わだち」のひとつとも言える。いくら「新しい働き方」「新しい暮らし方・家族のあり方」と言ったって、そういう道を選んできた先人たちが多いということは、それだけ選ぶ理由があるのだ。それを選ばないということは、生きづらさや孤独感をかかえながら生きていくということでもある。

そういう生き方を、私は今までポジティブな面でしかとらえていなかった。まわりにそれを褒められたり喜ばれたり、取材されることも多かった。「移住」というわだちも最近ではできてきていて、(この場合は「文脈」が近いかな)たぶん一時的にそのわだちに乗っかっていたのもあると思う。「そういう生き方って良いよね!」と思い言われすぎることは、今の私の生きづらさにつながっている。

 

年末、久しぶりに会った年下の友人に「最初、ゆきさんとはそだちが違う感じがしたんですよね」と言われた。「そだち」という言葉の持つ響きがあまり好きではなくて、なにそれ、と不満げな反応をしてしまったけれど、そういう感覚ってあるのかもしれないと思う。他人と全部をわかりあえないのは仕方ないのだけれど、わかりあえたらと期待してしまう私たちはそんな風にかすかな差異を見つけて少し悲しくなったりする。

 

みんな、ある意味では「わだち」と「わだち」のあいだに新しいわだちを作り続けて生きている。でも、太くて強い、大勢が踏みしめていったわだちを意識してしまうときがある。東京出身で東京の大学あるいは地方の国立を出て、東京でしばらく会社員をやり、数年たって同棲して、結婚。子どもができて、家を買う。あと私の場合周りに居るのは、学生時代の活動をきっかけに思い入れのある地域に移住して、会社やお店を立ち上げて、その地域で出会った人や学生時代から付き合っている人と結婚。結婚後も自由に自分のやりたいことを続ける。私と異なってる場合だと、新潟出身で一度県外で働いて、しばらくたって地元の良さを思い直してUターンして自分の事業や活動を始める。

ああ、嫌だ。私の頭の中はこんなふうに人をパターンで見ているなんて。すごく嫌だ。人のことをそんなふうに分析している暇があったら自分の目の前に集中したい、と思う。でもどうしても考えてしまうのが私の頭だし、たくさんのパターンを知る・見る仕事をしてきたせいもある。

 

ほんとは、そんな大きなわだちのようなものの話じゃなくて、どんな運転の仕方をしたり、何を楽しんで道を進んでいるのか、車窓からなにか見えたのか、そういう小さなことの方が本当は大事で、そこに注目したいのに。

 

今は偶然、そういう時期なのだろうと思ってやり過ごすことにしよう。時間がたつ、ということがどういうことなのか、29歳になるとちょっと分かってきた。時間がたつことを待つだけで変わることもきっとある。だから今この時の複雑な気持ちをこれはこれでここに記しておく。



 

 

 

2020年よかった映画(とドラマ)

2020年もあと1日で終わり。2018年から始めている、今年よかった映画ベスト10を今年も書いていこうと思います。

普段のブログは、今年noteを始めたので比較的そっちに書いていましたが、映画の話はなんとなくこっちに書こうかな。

本当にものすごい1年でした。いいとか悪いとか一言では言えない、社会も個人も揺さぶられた大きな1年だったと思います。

その中でも変わらず人の心をささえたのは、「作品」でした。「身体だけでなく心の栄養も補給しなければ生きられない」という言葉を読んだのはたしか、若松英輔さんの「弱さのちから」という本の中だったかな。まさにその通りで、今年は作品がなければ心が生きていけなかったと思います。リアルのイベントがなかったからこそ、映画には救われました。(生演奏や演劇を見る機会が減ったのは悲しいことでしたが)

 

今年からAmazon primeで映画を見るようになりました。便利ではあるけど、1つ1つの映画へののめりこみ具合、世界への入りぐあいが映画館やDVDより劣る気がしてしまいました…部屋を暗くしてプロジェクターで見るとまあまあいいんですけどね…

そういうのは言い訳かもしれないですが、全体として去年ほどはハマらなかったかな、という印象です。でも素晴らしい作品たくさんでした!

 

それではいきましょう。まずはベスト5!

 

1.プリズンサークル(2019)

2.はちどり(2018)

3.音楽(2019)

4.インターステラー(2014)

5.ワンダー君は太陽(2017)

1~3はどれも小さい映画館で見たもの。新潟市のシネ・ウィンドと上越市の高田世界館では本当にいつも良い映画が放映されています。もっと見たかったな~

 

「プリズンサークル」はドキュメンタリーで、島根の官民協働の新しい刑務所の更生プログラムの様子を映したものでした。犯罪を犯してしまったある4人にフォーカスし、話を聞いたりプログラムの様子を、顔だけはモザイクをかけて映していました。

prison-circle.com

人が育っていく過程の、ささいなことの積み重ねによって心が壊れる、そこから犯罪まで道がつながってしまう。それは決して関係ないことではなく、共通する部分のある人間だと思いました。知ってよかった、見れて良かった映画でした。

 

「はちどり」は経済成長の最中にある韓国をある中学生の視点から描いた映画。「余韻」が好きな私は、この映画のセリフとセリフの間にある沈黙や表情がとても好みでした。思春期の葛藤はせつなくて苦しいけれど、変わりゆく社会がもたらす母の苦悩も父や兄の苦悩もうまく描いていて素晴らしかった。

animoproduce.co.jp

 

「音楽」は、衝撃のアニメ作品。前から少しだけ原作の漫画家さんのことは知っていて、作画が手書きでめちゃくちゃ時間かかったらしいとかいろんな噂きいて見に行った。いやー、びっくりしたな。常識を超えてきます。心配になるくらい主人公がしゃべらない(笑)でも、なにかを心からやりたいと思う時の「衝動」、そして「音楽」とは上手さじゃなくてただ気持ちいいものでいいんだという初心を全力で表現していた。無駄と思えるシーンに時間を使う感じもたまらない(笑)背景の手書きがすごい。

on-gaku.info

映画とは関係ないですが、12月に見た鼓動の即興演奏で、「はまるリズムってメロディや歌詞がなくてもこんなに気持ちいいんだ」という発見があったんですが、この映画はそれに近いものを感じました。

 

インターステラー」はなんとなく誘われて友達の家で見たんですが、宇宙の神秘へのときめきとドキドキがすごくて、久しぶりにしばらくその世界から帰って来れない感じになりました。「そういうことか!」ってつながるのもすごく気持ちいいし、一気に17年くらい過ぎちゃう絶望とか、感情が忙しかったけど壮大な物語を堪能したい時はこれ最高ですね。

 

「ワンダー 君は太陽」は開始20分くらいから最後までほぼずっと泣いてました(笑)顔面麻痺をもって生まれた主人公をとりまく家族や友情の話なんですが、ただ「みんな優しくしようね」で終わる感じじゃなくて、わき役の子たちのドラマもちゃんと描いていて、複雑な気持ちをうまくストーリーに入れていて、すごくよかった。あたたかい涙を流したいとき、見るといいです。登場人物みんなが愛しくなります。

 

続いて、ベスト6~10です!

 

6.素晴らしき哉、人生(1946)

7.キングダム(2019)

8.アヒルと鴨のコインロッカー(2006)

9.パターソン(2016)

10.パラサイト(2019)

 

悩みましたが、こんな感じ。

 

「素晴らしき哉、人生」はクリスマスイブに見ました。ずっと良いよって言われてたけど、2年くらい先延ばしにしてたもの。白黒映画ですが、引き込まれる面白さ!前半の展開はテンポがよくて、世界を旅したかった主人公が地元の小さな町の父親の仕事を継ぐことになった背景が描かれる。廃墟での新婚パーティのシーンが好き!後半というかかなり最後の方でのファンタジーとも言えるハラハラさせてからの大事件は、タイトルのメッセージを伝えるための演出かな。小さな町で生きるということ、その良さも苦労もあたたかく宝物のように描いていて素晴らしかった。

 

「キングダム」は、実は漫画にハマったのでランクインさせました。笑 私がこんな戦ってばかりの漫画を好きになるとは思わなかったけれど、借りて読み始めたら、ちょうどコロナで時間があったのもあってハマってしまった。時には戦うことも必要よな、とか、本能型でいこうわたしも、とか思った。映画は全57巻くらいのうち1~4巻部分だけだけど、うまく再現できていて楽しい映画でした~

 

アヒルと鴨のコインロッカー」は、伊坂幸太郎好きなのに見てなかった1作。ボブディランの音楽が心地よく流れる、さすがの不思議魅力的な登場人物だらけの作品でした。「重力ピエロ」的な展開で、最後に伏線回収する感じ、少しざわりとさせる事件もある感じ、懐かしい感じがした。瑛太、若い!

 

「パターソン」は、期待度が高かったためか少し見てる間は退屈に感じてしまったけれど、なんでもない日常をこんな風に描いている映画はあんまりないし、それ自体が良いなと思えました。詩を描いている人というのもいいし、最後のノートを渡すシーンが大好き。主役の俳優さん(アダム・ドライバー)、とても良い味だしてる。

 

「パラサイト」、ぎりぎり迷って入れました。確かに私の日常に衝撃をさしこんだ映画だったには違いないから、、、刺激が強すぎてちょっとしばらく引きずりました(笑)でも、これだけぞわぞわどきどきさせるのもすごいし、俳優さんも女優さんも魅力的だし、面白かった。韓国映画を見慣れていなかったので新鮮でもありました。

 

番外編ードラマについて

今年は、ドラマもAmazon primeでたくさん見ました!

1時間で終わるし、明日が楽しみになるし、映画と同じくらい力入れてこだわってつくっているものもたくさんあるので、軽く作品に触れるにはいいなあ。

 

よかったのは、MIU404、アンナチュラル、オレンジデイズ深夜食堂、恋する母たち、かな。

野木亜紀子さん脚本は素晴らしいなと知るきっかけにもなりました。今まで見てなかったものでは、オレンジデイズもよかったー。名作。

 

最後軽くなってしまいましたが笑、作品づくりに携わるすべての人に感謝!来年も良い作品に出会えることが楽しみです。

 

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家の中で映画を見るときは飲み食べしながらできてうれしい

 

 

 

ココルームと出会って考えたこと①

釜ヶ崎でゲストハウスのふりをした表現の場をつくっている「ココルーム」のことを書きたいと思う。ココルームと出会って受けた衝撃と、その後の思考について。

関西の本にまつわる拠点をめぐる、3泊4日の旅に出たのは3月の後半のこと。

旅から帰ってすぐ、新型コロナウイルスの感染が拡大し、世の中はその防止のための方向にすべて変わっていった。急激で、容赦ない変化。

日々変わる状況と予想できない仕事や生活の先行きに頭や心が持っていかれ、なかなか落ち着かなかった4月。

確実に歴史には、「世界がコロナウイルスに脅かされた2020年春」と残るはずだけど、同時に私にとっては「ココルームと出会った春」だったということも忘れたくなかった。それくらい大きな衝撃だったから。

まだまだ整理なんかできてないけれど、断片的にでも、一部でも、考えたことを残しておこうと思う。

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リスペクトの根底にあるのは、「支援ではなく学び」

ココルームは、釜ヶ崎という町にあった。恥ずかしいことにそこがどんな町なのか知らなかった私は、ゲストハウス「ココルーム」に泊まるために初めて訪れた最寄り駅で1度目の衝撃を受ける。

駅前の大きなコンクリの建物の前にならぶ、ブルーシート。荷物の山。すれ違うアジア人たち。安いホテルの看板。

肌で、目で、普通の町と違うということを感じた。その後に連れが「あいりん地区」というこの町の呼び名に気がつき、日雇い労働者の町ということがなんとなくわかってきた。

胸がくっと詰まったようになったまま、驚き少し恐れながら商店街をあるき(この時私は6年前にいたタイにいるような気持ちになっていた)、ココルームに着いて最初に話した人が、スタッフではないが滞在しながら場に関わる通称おといさんだった。そして、そのおといさんと最初に交わした会話が、「水くんでみますか?」だった。

ココルームには、庭がある。そしてその庭に井戸があるのだ。

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(ココルームの庭を上からみた写真)

あとでゆっくり解説してもらったが、この井戸は釜ヶ崎のおじちゃんたちと作ったものだという。ココルームが呼んでいる「おじちゃんたち」とは、日雇い労働をしている方だったり、路上生活をしている方だったり、家族がいない方だったり、生活支援をうけている方だったり、さまざまな釜ヶ崎の住人たちのこと。時には差別的な目で見られたり、「支援するべき対象」として扱われたりする人たち。

ココルームは、そんなおじちゃんたちとともに「表現の場」をつくっている。詩のワークショップやカフェやごはんの時間や対話など、さまざまな手段で。

井戸も、そんなおじちゃんたちとつくったものだった。おといさんが言うには、「自分たちが企画したけど、結局おじちゃんたちの道具や技術に助けられながら完成した」そうだ。

そして長い夜の語りお茶タイムに、神戸からかけつけてくれた友達ペーターの「どういう姿勢を大事に、おじちゃんたちと接しているんですか」という問い(たしかそんな感じの)に、おといさんはこう答えていた。

「支援しようじゃなくて、学ぼう、という姿勢ですね」

あっと思った。イナカレッジで大事にしていることと同じだった。

たぶん、学ぼうと思えるレベルが、ちょっと農村とここではまた違うとは思うけれど、その言葉で私の中の何かが腑に落ちた。

ああそうか、だからココルームの言葉や行動は、優しく押しつけがまくなく、気取っていなくてフラットに開かれている感じがするのか。

学び合おうとする姿勢が、素敵な井戸づくりを生んだのだろう。一緒になにかをつくるから学び合えるのか、学び合うという姿勢があるから一緒になにかをつくれるのか、どちらが先かはわからない。それは場合にもよるだろう。

けれどもたしかにこの井戸がこの場所にあるということが、その過程の話を聞くとますます象徴的に「どんな人からも姿勢次第で学べる」ということ、ココルームが学び合いから表現とフラットに受け入れ合う日常を生んでいる場所だということを表している気がした。

合理性がこぼしていってしまうもの

私たちが釜ヶ崎に滞在していたのは、わずか20時間ほどだった。その時間はただただ状況をよく見て、感じ、知ることが精いっぱいだった。「考える」「言語化する」ことは、旅が終わってココルームで買った本「釜ヶ崎で表現の場をつくる喫茶店ココルーム」を読んで始めてできたように思う。

ここからは、釜ヶ崎の光景を思い出しながらこの本を読んで響いた部分を引用しながら書きたい。この本、ココルームを立ち上げた上田かなよさんが中心で書いているのだけど、ココルームの運営の変遷や思いをつらつら書くのかと思いきや、その部分はあっという間に終わって、谷川俊太郎さんや鷲田清一さんなど様々な人が問いに答えたりココルームについて言語化したり対談したり、ココルームのことだけでなく自己表現とは?働くとは?幸せとは?場とは?といった幅広い世界と人生にまつわる「ことば」を織り交ぜた、ぜいたくすぎる本だった。

filmart.co.jp

釜ヶ崎にたくさんの日雇い労働者・路上生活者たちが集まるようになったきっかけは、高度経済成長期にさかのぼる。急激な経済成長と街の発展・拡大のために、多くの労働者たちを「効率的に」集める必要があった。

合理的な理性、合理的な思考が、高度経済成長期を支え、豊かな社会を生み出したのですが、そのまさに合理的な理性が、一方で、豊かな社会から排除された人々を作りだした。その排除された人々の、いわば対抗政治というものが出て来る。

本の中で、栗原さんという政治社会学者はこう言う。今に至るまでの歴史的な過程は、さまざまな時代時代の影響から釜ヶ崎での運動、出来事を伴うものであり、それを分かりやすく説明できるほどまだ勉強しきれていないので詳しくは割愛する。

彼ら・彼女らが依拠するところは理性ではなく、美的な感受性や感性、判断力です。判断力というのは、総合的な直感の力と、美を受け止める力とでも考えたらいいでしょう。

最近、というかずっと、「大きな流れ」が「急速に」つくられたときに排除されてしまう、こぼれていってしまうものに興味がある。マジョリティが、「みんな」が、「いいね!」といって促進しようとするものはいつも合理的だ。「説明できる」「誰でもわかりやすい」から、「いいね!」と言いやすいのだもの。

(まさにコロナウイルスで時代が一気に変わっている中、これはますます実感する…!)

こぼれていってしまうもののことを具体的に想える人は、相当想像力があるか、当事者もしくは当事者に近い人だと思う。「大きな流れ」そのものを見ていると、それ以外の可能性を考えない。それ以外のものを見ない。

それは人間のとても恐ろしいところだと思う。想像力は何もしなければどんどん鈍くなる。鈍くなった先で、ふとした時に誰かを傷つける可能性は充分にある。

言語化できないもの、感受性や感性や直感としかいえないもの、それを持ち続けられるか。磨き続けられているか。それによって、合理性がこぼしていくものを感じていられる人がどうか少なくなりませんように。

何もできなくていい、その存在を感じられていること、知れていることが大事だと思う。

ちなみに、美を受け止める力とは、目をそらさない力のことだろうか。この言葉に関してはなんともまだわかっていない気がするな。

(②へつづく)

 

*ココルームがクラウドファンディングを実施中です。コロナが収まってからもココルームが存在していますように。

http://motion-gallery.net/projects/cocoroom2020

この件に関するおといさんのブログはこちら。

000otoi.hatenablog.jp

 

 

2019年良かった映画

2019年ももう終わり。東京へ帰省するバスの中です。今年は、今のところあまり新潟らしくない冬で、晴天が多かった。今日も、飛び切りの青空です。

今年も、本当にいろんなことがあったけれど、去年はまだ出会ってなかった人や作品の中で、今年出会えてよかったと思える人や作品があったら、それだけで良い年といっていいような気がしています。

というわけで…今年も、良かった映画ベスト10を書きます!去年も年末にこちらのブログを書きまして、それが私の中で良い整理になったり、人に紹介するツールになったりしてとても良かったので。

okaka-to-konbu88.hatenablog.com

 

去年が実は、私の中での映画元年といえるほど、映画の存在が大きくなった年でした。そのおかげで、今年も結構たくさん映画を見てました。

使っているアプリ、filmarksを見返すと、36本ほど。来年は、ネットフリックスかアマゾンプライムを契約することも考えていますが、基本、TSUTAYAか劇場派な私。

テレビがないので、ドラマは「凪のお暇」と「時効警察、はじめました」しか見ていなく、映画が良い栄養剤でした。

 

さて、それではまず、ベスト5から!!

 

1.町田くんの世界(2019)

2.インスタント沼(2009)

3.0.5ミリ(2014)

4.wild tour(2018)

5.食べる女(2018)

 

順位はなんとなくです。2~4は同列かな~

ひとつずつ一言コメント。

町田くんの世界」は原作の漫画が好きな友達が2人いたので、なんとなく知ってましたが、なぜかその時の私のテーマにぴったりはまってしまい、全然重くないシーンばかりなのに一人号泣。不器用だけどみんなに優しい町田くんが、恋をしたりまわりのみんなをちょっとだけ変えていく物語。「みんなが大切」と「あなたが大切」はきっと両立するというメッセージをもらった気がしました。この時、エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んでいたので、「愛はあたえるもの」という部分で被ったのかも。

 

インスタント沼」は、1月に見て、その後三木聡にしばらくハマってました。コメディにはまったことはあまりなかったのですが、これは本当に最高。ぬふふふって感じのシュールな笑いだけど、どこかで大切なことを教えてくれている気がする。こういうささいなことから笑いを生み出して生きるすべがあれば、ずっと笑っていられるもんね。感動させるより笑わせる方がきっと難しいから、すごい。

最後のセリフが大好きなので、貼っておきます。

いい?世の中の出来事の、ほとんどはたいした事無いし、人間、泣いてる時間より笑ってる時間の方が圧倒的に長いし、

信じられない物も見えるし、一晩寝れば、大抵の事は忘れられるのよ。とにかく、水道の蛇口をひねれ。

そして、その嘘と意地と見栄で塗り固められたしょうもない日常を洗い流すのだー!

 

 

 

0.5ミリ」は衝撃作。現代社会が見落としていることを表現してくれた感じ。安藤サクラの演技がものすごいし、しばらくなんだか呆然としてしまった。最後のシーンで寺尾早穂の歌がよかった。

 

「wild tour」も衝撃って意味でのランクインですね。完全素人の中高生に出演してもらっているという…自分も映画をつくりたい、という気持ちになりました。あの、中学生の素の表情に胸がきゅんとする。4月のしましま本店というイベントで出会った映画雑誌を作る仕事をしている男の子に教えてもらった映画。

 

食べる女」は、とても見やすい(かわいい女優が多いのでそれも含めて笑)映画でした。女の子が何かを食べてる表情が素敵だし、古い家に1人で住んでいる小泉今日子がいろんな女の子を招き入れてごはんつくってあげるのも、リアルにそういうの良いなと思った。恋愛観や家族観も多様で現代的で、共感できました。

 

続いて、残りの五作。ベスト5には邦画しかありませんでしたが、ちょっとだけ洋画も入りました。

 

6.Before SUNRISE(1995)

7.愛がなんだ(2018)

8.人のセックスを笑うな(2007)

9.ギフテッド(2017)

10.ある船頭の話(2019)

 

「ビフォアサンライズ」を見たのは11月でしたが、そこからちょっとだけ洋画にハマってます。男女が電車で出会って、一日だけウィーンの街を歩いて過ごす、それだけの映画なのになぜかすごく心に入ってきました。

私の映画で好きな部分が「展開」というより「セリフや表情」だということが分かったし、人の距離が近づく理由も、「タイミングと言葉」なのかもしれないと思いました。英語ならではの行間もあるなあと。リズムがいい。

三部作となっていて続きがあるので、それを楽しみに。

 

「愛がなんだ」はちょっとした話題作。角田光代の原作小説を読んだときには、「むむ、面白いけどつらいなあ、登場人物に共感はできないかも」と思ったけれど、実際に映画を見たら思ったよりも消耗しない感じのいい映画でした。

次に書いた「人のセックスを笑うな」の方が、ある意味せつなさの固まりかも。なんというか、繊細で脆い、初めての恋を素晴らしくマイペースなリズムで描いてるのが「人セク」で、全部の登場人物が超人間らしくて、意外に泥臭くて強いのが、「愛がなんだ」。好きになったり、振り回されたり、愛がなんなのかわからなくなっても、この人たちは結構生きていけそうな気がした。

両作品とも、俳優陣がめちゃくちゃはまり役で良い表情してくれてるので、おすすめ。

 

「ギフテッド」は、家族もので、とにかく泣きました。笑 教育ってなんだというのも考えた。近所のおばちゃんがすごく良い感じ。最後のシーンが本当に泣ける。泣ける映画というのは、涙を無条件に出してくれるので、とっても貴重です。たまにはみんな泣いた方がいいと思うなー

 

「ある船頭の話」は、12月に仕事をやすんで高田世界館に見に行った映画。まだ若干整理しきれてませんが、この時期この場所で見ておいてよかった、と後から思う気がしています。オダギリジョーが初監督で、新潟の阿賀町で撮影をしたもの。

物語としては、華はあまりなく少し暗い印象ですが、とにかく川や山の映し方が美しいのと、人間の弱さや孤独、日常について思いを馳せるきっかけになる映画。どきっとしたりざわっとしたりするようなシーンもありました。船頭という今まであまりスポットが当たらなかったであろう仕事にスポットをあてたオダギリジョーの、表現したい美しさってなんだろう…とかちょっと考えすぎてしまったかも。

 

長くなりましたが、以上が私の2019年良かった映画ベスト10でした!映画評論家でもなんでもないので、客観的な評価はかけらもしていません。そもそも作品に客観的な良い悪いなどなくて、なんならその時たまたま私の状態とマッチしただけなのだろうと思っています。

去年の私の映画を通して考えたテーマが「家族」だとしたら、今年は「愛」だったのかも、とラインナップを眺めて思いました。

今年こそこれの「本」バージョンをやるぞと思いながら、果たしてどうなるかな…笑

とりあえず、皆様良いお年を。

そろそろ東京に着きそうです。

 

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高田世界館はほんと、新潟が誇るべき場所。この日もよく晴れてたな

 

 

 

生命力と人文知

今年後半、びりりと響いた本。それが、奈良で家を開いて私設図書館を運営する青木夫妻の書いた「彼岸の図書館」だった。

yukatakamatsu001.stores.jp

本の紹介のところには、

「本書は、青木夫妻が移住を決意してから私設図書館『ルチャ・リブロ』を立ち上げ、『土着人類学研究会』を開催しながら現代社会の価値観に縛られない異界としての知の拠点を構築していくまでの『社会実験』の様子を、12の対話とエッセイで綴る、かつてない「闘う移住本」です。」

とある。

ここだけ抜き出すと少しわかりづらいけれど、中身は対談・対話が多いので、意外と読みやすい。するすると一気に読んでしまった。

 

この本を出版した「夕書房」さんは、7月に東京で開催された「TOKYO ART BOOK FAIR」でブースを見つけ、気になっていた一人出版社。その場で青木さんたちが出していたZINE「ルッチャ」を買い、帰って読んで、その共感度と言葉選びの良さに感動していた。

tokyoartbookfair.com

大好きな内田樹さんが対談相手にもなっているところから、「この本はきっと面白いぞ」とは思っていたけれど、読めば読むほど「私が言語化できていなかったことを言語化してくれている」感がすごかった。

思わずツイートをしたら、著者の青木さんがリプをくれたのは感激。

 

 

この彼岸の図書館の中に、共感ポイントはたくさんあるのだけど、読んで欲しい友達たちの手にまわされてる今、手元に本がない中でぼんやりと残っているキーワード2つについて考えてみる。

 

1.生命力

たしか対談の中で建築家の光嶋さんが仰っていた言葉だったと思う。

それが、「生命力」だ。

 

私は人間の中の、その人固有の、本能や直感のようなもの、それを信じて行動できることの大切さについて考えてきた。そしてなんとなくそれを「感性」という呼び方で表現してきた。

例えば、私がストレートに就職せずに新潟で米屋をやる1年間を選択した理由。

内定した就職先を蹴って、一緒に居たい人や地域を選んだ理由。

それは、理性や論理に基づいて、万人の理解できる言葉では説明できないものだった。

説明できなくてもいい。私が私の「感性」を信じられれば、行動の理由はまずは充分。

そんなことを休学した1年間で学んだし、何度もブログでも書いて来た。

 

光嶋さんは建築家なので、「生命力とは何か」ということよりも、「生命力がより高まる空間とはなにか」ということの方に注目しているし、その話の方が多かったけれど、私はその「生命力」という言い方が気に入った。

「数値化できないもの」「生命力を内包する身体の感覚」「見えないものを見ようとする」「自分のセンサー」…

それって、さっき私が言っていた「感性」に近いものなんじゃないだろうか。感性という言葉からは、センスとか美的感覚みたいな印象も受けるけれど、私が言いたかったのはこっちの、もっと身体や命に近いものかもしれない。

しかも、生命力が高い状態というのは、「じぶんと世界の境界がなく、すべてが溶け合っている状態」だという。

自分の生命力を最大限に高めるとき、それは一見矛盾しているようだけど、「自分」をより他のものと差別化したり優秀に見せたり、要は「分ける」ことではなくて、むしろ同化していくことの方が大切だと言うことみたいだ。

その状態に実際に、故意になることはたぶんとても難しいことだけれど、世界との同化を受け入れられることが自由だという発想は、なんだか私に新たな道を開いた気がした。

 

そして一番思ったのは、自分の生命力がより高まるような選択をしたいということ。それは、「能力を最大に生かす」とかいうことではなく、ただ自分という自然の一部があるがままに居れるような環境や空間、行動をしていくということだと思う。

本当にこの環境や空間で生命力が高まるのか?と疑っていきたい。それが理由で居る場所を変えたっていいのかもしれない。

山や森、海、農村に身を置くことはひとつの分かりやすい例で、それ以外にも生命力が高まる場はたくさんあるのだろう。

これについてはもっともっと掘り下げたい…(対話好きの友人たち、ぜひ議論しましょ!)

 

2.人文知

もうひとつのキーワードは、「人文知」。

内田樹さんが、この奈良にある図書館ルチャ・リブロのことを「人文知の拠点」という言い方をしている。

また、ルチャ・リブロの青木さんは、ラジオや本やその中での対話を通して「答えのない時代をいかに楽しく送るのかを研究・実践する場」を「土着人類学」と呼んで提唱している。

土着人類学については、もっとたくさん説明が必要そうだけど、詳しくは本を読んでください。笑

「人文知」は、姜尚中さんが専門的な知識である「専門知」と区別して定義していて、「人生をいかに生きるべきか」を考えるための哲学や文化や社会や宗教などの知識だと説明している。

つまり、とにかく青木さんも内田さんも、この場所も、「そもそもへの問い」を繰り返しているのだ。

「豊かさってなにか」「生活とはなにか」「場とはなにか」…

哲学対話にも通ずるけれど、どれも「根源的な問い」には違いない。

そして、すぐに経済活動に役に立つことじゃなくても、そういう「役にたつ・たたない」という議論で揺れ動かないものを、本や場を通して届けていきたいそうだ。

本を読んだ直後の私のツイートがこれ。

 

 

 

そして、「混乱・激動の時代こそ人文知が必要だ」という心強い言葉に、私の今を大いに肯定してもらった。

経済成長もしない、人口も減る、行政も厳しい、民間も厳しい、そんな声ばかりが聞こえる昨今。国はすぐに「役に立つ」理系や資格系の学問を優先し、人文系の資格の取れない学問は減らされていく。企業でも「即効性」が求められる。

一見、必要なのは「すぐに役に立つ(お金になる)」知識だと思ってしまいそうになるけど、内田さんはそうじゃないと言ってくれた。

 

激動の時代だからこそ、心を、問いを、対話を、大切にしよう。きっと過去のどんな激動の、動乱の時代にも、「幸せとはなにか」とかって問うてきた人たちがいたと思う。文学や芸術などの作品を生み出した人もいただろう。

そこにきっと価値がある。

 

そして、良い問いへの思考をするためには、「自分の生活をおくる」ことも大事。畑で食べるものをつくったり、草を刈って土地を管理したり、山や季節の循環や恵みを実感したりしながら日々を送ること。

そのうえで遠くに想いを馳せたり作品をつくること。

そんな「自然」な状態に近づく人が一人でも増えていくといいな。そのうちの何人かと一緒に、この地で暮らしていきたい。

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「一緒につくる」という道

書きたいことはいっぱいありましたが、なんだか書きあぐねていたここ最近。

最近は、イナカレッジの仕事以外でやりたいことやこれからのことにたくさん頭を使っていたような気がします。

一昨日登壇したイベントで、「学生や地域のサポートをしている井上さんですが、井上さん自身の夢や今後は何を考えていますか」という質問が出て、うまく答えられなかったのは、それを考えてないからではなく、考えすぎているからでした。

そもそも私がなにもなくてゼロからやりたいということはないですが、依頼がないけどやりたいことは増えてきています。

その中の一つが、やっぱり「本屋」あるいは「本屋的なもの」。

そのことが頭をよぎっていた10月、なんと意外にも実家のお母さんから「これ興味あるなら申し込むよ?」というLINEが来ました。

それが、10月27日に開催された、神保町ブックフェスティバル内の「出版産業シンポジウム」で行われたトークイベント「本屋を開業する」。

行きたかった本屋titleの店主辻山さん、さわや書店の田口さん、HABookstoreの松井さんという豪華なメンバーでの対談です。

勉強になる話盛沢山だったんですが、あえて何点かを抽出して考えたことを書いてみます。

1.本屋の役割

ゲストである田口さん、辻山さんはどちらも、お金を稼ぐ手段というのではない、「本屋の役割」を強く意識して活動されていました。

田口さんは、もはや町の社会福祉的な立ち位置としての本屋、辻山さんは、たくさんの本を知る中で良い本を選んできちんと伝えるという意味での個人本屋。

どちらも強く必要性を感じているんだと思います。

個人的には辻山さんの、「今ここにある本は氷山の一角だと身をもって知っているということ」という話が面白かった。以前規模の大きい書店で書店員をやっていたことが生きているそう。

「選んでいない本もどこかで知っていないといけない」

最近増えている個人本屋も、「好きそうな本」ばかりになってしまうと意味がない。アマゾンみたいに、「関連商品」が出て来るだけであれば、2回目3回目は行かない、と。

私はこれを、「本屋では違う世界への扉が開かれている」ことが重要なのかなと解釈しました。多様性の担保というか、同じ価値感に閉じていかないというか。

私が本に没頭して通っていたのは、中学校の図書館。そこには、伝記も文学も小説も図鑑もありました。あの、ばらばらな感じは実は、様々な世界への扉を開いていたのだと思う。

まずは本がある空間にするだけでも良いけど、「本屋」にするなら多様性が必要だと思いました。

2.一緒にお店をつくるということ

こっちが本題。笑 

辻山さんがしていた話で、titleはカフェとギャラリーもやっているという話になったときのこと。

「ギャラリーを使ってもらう人は、こちらから声をかけるのと向こうから言ってくるのの割合は、半々です」

つまり、「場所代を公開して誰でも使っていいよ」というわけではないということ。

「お互いがここでやりたい・この人とやりたいって思わないと、この店がやりたいことはお客さんに伝わらない」

「一緒にお店をつくる意識なんですよね」

ここ、めちゃくちゃ共感。ちょうど、私が使っている物件のギャラリーでも同じことを感じていました。

これは結構いろいろなことにあてはまると思っていて。

特に、「インフラ的に必要不可欠」「設備や技術や労働に対してお金を払う場合」ではない、プロジェクトや場の運営や仕事や人間関係において、「一緒につくる」という意識をどこまで作れるかが大事だと思います。

 

「ウィンウィン」という言葉があまりしっくりきません。

「お互いがやりたいこと」がどちらもやれて、どちらかが何かを「提供する」か「提供される」側になって、…一見良さそうな感じがするけれど、結局自分の「損具合」「得具合」をなんとなく測って、判断している感じ。それを「とりあえずみんなハッピーだからいいよね」って言われてる感じ(ひねくれ)。

もちろんそうやって測らなければ自分が傷ついたりすることがあるのであれば、仕方ない。けれど、ちょっとでもそんな可能性がある相手や事柄なら、そもそも距離をとって関わらない方がいいのです。

せっかくやるなら、「完全に自分本位」でも「相手の要望に応える」でもなく、「一緒につくる」という第三の道のことを、できる限り考えたいです。

だってその方が、様々なものを超えられると思うから。予測不可能なことにも向かって行けそうな気がするから。

いちいち行動ひとつひとつの損得を考える相手とは、なるべく安全なやり方にしか向かえない気がします。

この「一緒に未来に向かう」「一緒に価値だと思うものに向かう」が共有できる人たちと、人生を楽しんでいきたいなと思いました。

あれ、途中からイベントの感想でもなんでもないや笑

でもとにかく、私の仕事以外の今後の妄想はふくらむばかり…笑

またちらりとお見せしたいなと思います。

ちなみに、この次の日にtitleに行って買った本「彼岸の図書館」がめちゃくちゃに良かったので、またそのことで書こうかな。

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(当日のメモ、解読むずい笑)

 

 

安心感と好奇心

最近も、脳内哲学対話を繰り広げている井上です。哲学対話とは、何人かであるテーマについて「なぜ?」「そもそも○○とは?」を深掘りする対話のこと。先日哲学対話×筆談のイベントに出て、とても面白かったです。

「答えがたくさんある問いの話」をぐるぐるするのが大好きなので、最近はそういうことができる友達とばかりつるんでいます。これはこれでコミュニティを狭めているのかな…

 

そんなわけで、最近私の中でテーマになったキーワードについて書きます。

上に書いた、「答えがないこと」も関連する話かな。

 

**

「好奇心」。または、「知的好奇心」。

現代、そしてこれからの時代を切り抜ける上で、とても大切になるものだと思う。

Wikipediaには、「物事を探求しようとする根源的な心」とある。

知らないことを知る喜び、あるいは、体験したことのない体験をする喜び。

好奇心が強いタイプの私からすると、大げさに言えば、生きていくための原動力だ。

気のせいかもしれないけれど、おじいちゃんになっても生き生きしている人は好奇心が強い人なような気がする。

 

最近、中田敦彦YouTube大学にハマっている。少し前から話題だったけれど、おすすめされていたこともあって、そういえばとふと開いてみたら、面白くて見続けてしまった。

歴史や文学について、教科書で一度聞いたことのあるようなものを取り扱い、ホワイトボードの前で解説している動画なんだけれど、あっちゃんの話術もあってか、全然飽きない。

これのすごいところは、「知るの楽しい」「もっと知りたい」という気持ちにさせることである。何より、あっちゃん自身が楽しそうだ。

文学にしても、歴史にしても、「今の自分達」につなげる話を忘れず、かつ「これが答えだ」とは言わずに、「いろんな説があるんだよ、あくまで俺はこう解釈した」と言う。(登場人物になりきってしゃべるのに笑っちゃうのは芸人ならではとして)

 

塾で講師をしていたとき、一番大切なことは「この勉強おもしろい」と思わせることだとずっと実感していた。その土台ができてしまえば、あとはどんな子も自分から進めることができる。

「範囲の進め方」「ドリルのこなし方」「単語の覚え方」だけ教えていても、「好奇心」の土台がなければ、本当に表面をなでるだけだった。

すべての教科で、数年の間にそうなることはなかなか難しいから、結局無理矢理暗記して大学受験の時期に合わせるんだけどね。

 

私は学校での勉強としては、理系分野が好きだった。どうしても、文学や歴史を心から楽しんだことがなかった。だからこそ、大人になってこういう動画で面白い、と思えると、私にも歴史が楽しめるんだと嬉しい。

 

で、何の話だっけ。

そうそう、本や過去の中の世界だけじゃなく、現実に起こることに対しても好奇心があると生きやすいということ。

好奇心があると、わりとなんでも「学び」に思えるから、失敗も成功も、「学べた喜び」に置き換わってしまう。

好奇心があると、「もっとこうしたらどうなるかな」「ここに行ったら、この人に聞いたら、知れるかな」が自分の中から湧いてくるので、自然と自発的になる。能動的になる。

 

ではどうやったら、まわりの目を気にしたり、誰かと比べたりしないで、好奇心を発動させることができるのだろう。

好奇心があることと、それを素直に出したり行動に移せたりするのは別問題だ。

そこで私は、「安心感」が大切だと思っている。

先日参加した「未来言語」というワークショップでも、「コミュニケーションの土台は安心感だ」という話が出ていた。

 

「主体性の創出」

「行動・挑戦する人を育成しよう」

「個性や能力を最大に引き出す」

というような言葉をよく目にするけれど、これらはすべて、

「ここでは自分を出してもいいんだ(自分が感じたことを言ったりしたいことをしていいんだ、もしくはしなくてもいいんだ)」という「安心感」がないとなかなか表には出てこないと私は思う。

じゃあ何が「安心感」なのか。それは受け取る人によって違うからわからない。

でも、工夫はできる。安心を生む工夫。そして、姿勢。

もちろん「気心知れた相手」に対しては安心しやすいけれど、それ以外でも安心感を生む工夫は様々なところにある。

そして強調したいのは、立場や年齢的に、上→下へのコミュニケーションにおいて、本当にささいなことが圧力やプレッシャーになるということ。

自分にも言い聞かせているけれど、言葉だけではない、表情や空気、声、…様々なものが相手に威圧感を与えることがある。

圧力を感じた側は、なかなかそこから「自らこうしよう」「これをしたい」という気持ちにならない。「主体性」からどんどん遠のいていく。

圧力ある環境でも行動するべきだ、精神が弱すぎる、という意見は無視しておこう。

圧力のある環境だから何かが鍛えられる・成長する、ということは、意外とないんじゃないかと私は思っている。たまに、そういう人種がいるだけで笑

圧力で成長する可能性より、圧力で心を閉じてしまう怖さの方が、私にとっては大きい。「素敵な感性」を圧力のせいで見たり聞いたりできないのは辛い。

だったら基本的に圧力なんてない方がいい、と思う。

 

少し話はそれてしまったけれど、地域インターンを通して、自分なりの安心感と好奇心を得られるようになってほしいんだよな、たぶん。

 

「自分の安心感」「他人に与える安心感」に敏感であること、

自分の好奇心を育てたり開放したりすること。

 

そんなふうになれる人が増えたらいいなあ。

 

 

 

 

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(料理するのも、まずは好奇心。揚げ浸し×すだち、美味しかった)