おかかとこんぶ

社会人と長岡生活3年目。変化し続ける私をとりあえずはことばで残す。そのうちにはことば以外でも残したい。

2019年良かった映画

2019年ももう終わり。東京へ帰省するバスの中です。今年は、今のところあまり新潟らしくない冬で、晴天が多かった。今日も、飛び切りの青空です。

今年も、本当にいろんなことがあったけれど、去年はまだ出会ってなかった人や作品の中で、今年出会えてよかったと思える人や作品があったら、それだけで良い年といっていいような気がしています。

というわけで…今年も、良かった映画ベスト10を書きます!去年も年末にこちらのブログを書きまして、それが私の中で良い整理になったり、人に紹介するツールになったりしてとても良かったので。

okaka-to-konbu88.hatenablog.com

 

去年が実は、私の中での映画元年といえるほど、映画の存在が大きくなった年でした。そのおかげで、今年も結構たくさん映画を見てました。

使っているアプリ、filmarksを見返すと、36本ほど。来年は、ネットフリックスかアマゾンプライムを契約することも考えていますが、基本、TSUTAYAか劇場派な私。

テレビがないので、ドラマは「凪のお暇」と「時効警察、はじめました」しか見ていなく、映画が良い栄養剤でした。

 

さて、それではまず、ベスト5から!!

 

1.町田くんの世界(2019)

2.インスタント沼(2009)

3.0.5ミリ(2014)

4.wild tour(2018)

5.食べる女(2018)

 

順位はなんとなくです。2~4は同列かな~

ひとつずつ一言コメント。

町田くんの世界」は原作の漫画が好きな友達が2人いたので、なんとなく知ってましたが、なぜかその時の私のテーマにぴったりはまってしまい、全然重くないシーンばかりなのに一人号泣。不器用だけどみんなに優しい町田くんが、恋をしたりまわりのみんなをちょっとだけ変えていく物語。「みんなが大切」と「あなたが大切」はきっと両立するというメッセージをもらった気がしました。この時、エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んでいたので、「愛はあたえるもの」という部分で被ったのかも。

 

インスタント沼」は、1月に見て、その後三木聡にしばらくハマってました。コメディにはまったことはあまりなかったのですが、これは本当に最高。ぬふふふって感じのシュールな笑いだけど、どこかで大切なことを教えてくれている気がする。こういうささいなことから笑いを生み出して生きるすべがあれば、ずっと笑っていられるもんね。感動させるより笑わせる方がきっと難しいから、すごい。

最後のセリフが大好きなので、貼っておきます。

いい?世の中の出来事の、ほとんどはたいした事無いし、人間、泣いてる時間より笑ってる時間の方が圧倒的に長いし、

信じられない物も見えるし、一晩寝れば、大抵の事は忘れられるのよ。とにかく、水道の蛇口をひねれ。

そして、その嘘と意地と見栄で塗り固められたしょうもない日常を洗い流すのだー!

 

 

 

0.5ミリ」は衝撃作。現代社会が見落としていることを表現してくれた感じ。安藤サクラの演技がものすごいし、しばらくなんだか呆然としてしまった。最後のシーンで寺尾早穂の歌がよかった。

 

「wild tour」も衝撃って意味でのランクインですね。完全素人の中高生に出演してもらっているという…自分も映画をつくりたい、という気持ちになりました。あの、中学生の素の表情に胸がきゅんとする。4月のしましま本店というイベントで出会った映画雑誌を作る仕事をしている男の子に教えてもらった映画。

 

食べる女」は、とても見やすい(かわいい女優が多いのでそれも含めて笑)映画でした。女の子が何かを食べてる表情が素敵だし、古い家に1人で住んでいる小泉今日子がいろんな女の子を招き入れてごはんつくってあげるのも、リアルにそういうの良いなと思った。恋愛観や家族観も多様で現代的で、共感できました。

 

続いて、残りの五作。ベスト5には邦画しかありませんでしたが、ちょっとだけ洋画も入りました。

 

6.Before SUNRISE(1995)

7.愛がなんだ(2018)

8.人のセックスを笑うな(2007)

9.ギフテッド(2017)

10.ある船頭の話(2019)

 

「ビフォアサンライズ」を見たのは11月でしたが、そこからちょっとだけ洋画にハマってます。男女が電車で出会って、一日だけウィーンの街を歩いて過ごす、それだけの映画なのになぜかすごく心に入ってきました。

私の映画で好きな部分が「展開」というより「セリフや表情」だということが分かったし、人の距離が近づく理由も、「タイミングと言葉」なのかもしれないと思いました。英語ならではの行間もあるなあと。リズムがいい。

三部作となっていて続きがあるので、それを楽しみに。

 

「愛がなんだ」はちょっとした話題作。角田光代の原作小説を読んだときには、「むむ、面白いけどつらいなあ、登場人物に共感はできないかも」と思ったけれど、実際に映画を見たら思ったよりも消耗しない感じのいい映画でした。

次に書いた「人のセックスを笑うな」の方が、ある意味せつなさの固まりかも。なんというか、繊細で脆い、初めての恋を素晴らしくマイペースなリズムで描いてるのが「人セク」で、全部の登場人物が超人間らしくて、意外に泥臭くて強いのが、「愛がなんだ」。好きになったり、振り回されたり、愛がなんなのかわからなくなっても、この人たちは結構生きていけそうな気がした。

両作品とも、俳優陣がめちゃくちゃはまり役で良い表情してくれてるので、おすすめ。

 

「ギフテッド」は、家族もので、とにかく泣きました。笑 教育ってなんだというのも考えた。近所のおばちゃんがすごく良い感じ。最後のシーンが本当に泣ける。泣ける映画というのは、涙を無条件に出してくれるので、とっても貴重です。たまにはみんな泣いた方がいいと思うなー

 

「ある船頭の話」は、12月に仕事をやすんで高田世界館に見に行った映画。まだ若干整理しきれてませんが、この時期この場所で見ておいてよかった、と後から思う気がしています。オダギリジョーが初監督で、新潟の阿賀町で撮影をしたもの。

物語としては、華はあまりなく少し暗い印象ですが、とにかく川や山の映し方が美しいのと、人間の弱さや孤独、日常について思いを馳せるきっかけになる映画。どきっとしたりざわっとしたりするようなシーンもありました。船頭という今まであまりスポットが当たらなかったであろう仕事にスポットをあてたオダギリジョーの、表現したい美しさってなんだろう…とかちょっと考えすぎてしまったかも。

 

長くなりましたが、以上が私の2019年良かった映画ベスト10でした!映画評論家でもなんでもないので、客観的な評価はかけらもしていません。そもそも作品に客観的な良い悪いなどなくて、なんならその時たまたま私の状態とマッチしただけなのだろうと思っています。

去年の私の映画を通して考えたテーマが「家族」だとしたら、今年は「愛」だったのかも、とラインナップを眺めて思いました。

今年こそこれの「本」バージョンをやるぞと思いながら、果たしてどうなるかな…笑

とりあえず、皆様良いお年を。

そろそろ東京に着きそうです。

 

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高田世界館はほんと、新潟が誇るべき場所。この日もよく晴れてたな

 

 

 

生命力と人文知

今年後半、びりりと響いた本。それが、奈良で家を開いて私設図書館を運営する青木夫妻の書いた「彼岸の図書館」だった。

yukatakamatsu001.stores.jp

本の紹介のところには、

「本書は、青木夫妻が移住を決意してから私設図書館『ルチャ・リブロ』を立ち上げ、『土着人類学研究会』を開催しながら現代社会の価値観に縛られない異界としての知の拠点を構築していくまでの『社会実験』の様子を、12の対話とエッセイで綴る、かつてない「闘う移住本」です。」

とある。

ここだけ抜き出すと少しわかりづらいけれど、中身は対談・対話が多いので、意外と読みやすい。するすると一気に読んでしまった。

 

この本を出版した「夕書房」さんは、7月に東京で開催された「TOKYO ART BOOK FAIR」でブースを見つけ、気になっていた一人出版社。その場で青木さんたちが出していたZINE「ルッチャ」を買い、帰って読んで、その共感度と言葉選びの良さに感動していた。

tokyoartbookfair.com

大好きな内田樹さんが対談相手にもなっているところから、「この本はきっと面白いぞ」とは思っていたけれど、読めば読むほど「私が言語化できていなかったことを言語化してくれている」感がすごかった。

思わずツイートをしたら、著者の青木さんがリプをくれたのは感激。

 

 

この彼岸の図書館の中に、共感ポイントはたくさんあるのだけど、読んで欲しい友達たちの手にまわされてる今、手元に本がない中でぼんやりと残っているキーワード2つについて考えてみる。

 

1.生命力

たしか対談の中で建築家の光嶋さんが仰っていた言葉だったと思う。

それが、「生命力」だ。

 

私は人間の中の、その人固有の、本能や直感のようなもの、それを信じて行動できることの大切さについて考えてきた。そしてなんとなくそれを「感性」という呼び方で表現してきた。

例えば、私がストレートに就職せずに新潟で米屋をやる1年間を選択した理由。

内定した就職先を蹴って、一緒に居たい人や地域を選んだ理由。

それは、理性や論理に基づいて、万人の理解できる言葉では説明できないものだった。

説明できなくてもいい。私が私の「感性」を信じられれば、行動の理由はまずは充分。

そんなことを休学した1年間で学んだし、何度もブログでも書いて来た。

 

光嶋さんは建築家なので、「生命力とは何か」ということよりも、「生命力がより高まる空間とはなにか」ということの方に注目しているし、その話の方が多かったけれど、私はその「生命力」という言い方が気に入った。

「数値化できないもの」「生命力を内包する身体の感覚」「見えないものを見ようとする」「自分のセンサー」…

それって、さっき私が言っていた「感性」に近いものなんじゃないだろうか。感性という言葉からは、センスとか美的感覚みたいな印象も受けるけれど、私が言いたかったのはこっちの、もっと身体や命に近いものかもしれない。

しかも、生命力が高い状態というのは、「じぶんと世界の境界がなく、すべてが溶け合っている状態」だという。

自分の生命力を最大限に高めるとき、それは一見矛盾しているようだけど、「自分」をより他のものと差別化したり優秀に見せたり、要は「分ける」ことではなくて、むしろ同化していくことの方が大切だと言うことみたいだ。

その状態に実際に、故意になることはたぶんとても難しいことだけれど、世界との同化を受け入れられることが自由だという発想は、なんだか私に新たな道を開いた気がした。

 

そして一番思ったのは、自分の生命力がより高まるような選択をしたいということ。それは、「能力を最大に生かす」とかいうことではなく、ただ自分という自然の一部があるがままに居れるような環境や空間、行動をしていくということだと思う。

本当にこの環境や空間で生命力が高まるのか?と疑っていきたい。それが理由で居る場所を変えたっていいのかもしれない。

山や森、海、農村に身を置くことはひとつの分かりやすい例で、それ以外にも生命力が高まる場はたくさんあるのだろう。

これについてはもっともっと掘り下げたい…(対話好きの友人たち、ぜひ議論しましょ!)

 

2.人文知

もうひとつのキーワードは、「人文知」。

内田樹さんが、この奈良にある図書館ルチャ・リブロのことを「人文知の拠点」という言い方をしている。

また、ルチャ・リブロの青木さんは、ラジオや本やその中での対話を通して「答えのない時代をいかに楽しく送るのかを研究・実践する場」を「土着人類学」と呼んで提唱している。

土着人類学については、もっとたくさん説明が必要そうだけど、詳しくは本を読んでください。笑

「人文知」は、姜尚中さんが専門的な知識である「専門知」と区別して定義していて、「人生をいかに生きるべきか」を考えるための哲学や文化や社会や宗教などの知識だと説明している。

つまり、とにかく青木さんも内田さんも、この場所も、「そもそもへの問い」を繰り返しているのだ。

「豊かさってなにか」「生活とはなにか」「場とはなにか」…

哲学対話にも通ずるけれど、どれも「根源的な問い」には違いない。

そして、すぐに経済活動に役に立つことじゃなくても、そういう「役にたつ・たたない」という議論で揺れ動かないものを、本や場を通して届けていきたいそうだ。

本を読んだ直後の私のツイートがこれ。

 

 

 

そして、「混乱・激動の時代こそ人文知が必要だ」という心強い言葉に、私の今を大いに肯定してもらった。

経済成長もしない、人口も減る、行政も厳しい、民間も厳しい、そんな声ばかりが聞こえる昨今。国はすぐに「役に立つ」理系や資格系の学問を優先し、人文系の資格の取れない学問は減らされていく。企業でも「即効性」が求められる。

一見、必要なのは「すぐに役に立つ(お金になる)」知識だと思ってしまいそうになるけど、内田さんはそうじゃないと言ってくれた。

 

激動の時代だからこそ、心を、問いを、対話を、大切にしよう。きっと過去のどんな激動の、動乱の時代にも、「幸せとはなにか」とかって問うてきた人たちがいたと思う。文学や芸術などの作品を生み出した人もいただろう。

そこにきっと価値がある。

 

そして、良い問いへの思考をするためには、「自分の生活をおくる」ことも大事。畑で食べるものをつくったり、草を刈って土地を管理したり、山や季節の循環や恵みを実感したりしながら日々を送ること。

そのうえで遠くに想いを馳せたり作品をつくること。

そんな「自然」な状態に近づく人が一人でも増えていくといいな。そのうちの何人かと一緒に、この地で暮らしていきたい。

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「一緒につくる」という道

書きたいことはいっぱいありましたが、なんだか書きあぐねていたここ最近。

最近は、イナカレッジの仕事以外でやりたいことやこれからのことにたくさん頭を使っていたような気がします。

一昨日登壇したイベントで、「学生や地域のサポートをしている井上さんですが、井上さん自身の夢や今後は何を考えていますか」という質問が出て、うまく答えられなかったのは、それを考えてないからではなく、考えすぎているからでした。

そもそも私がなにもなくてゼロからやりたいということはないですが、依頼がないけどやりたいことは増えてきています。

その中の一つが、やっぱり「本屋」あるいは「本屋的なもの」。

そのことが頭をよぎっていた10月、なんと意外にも実家のお母さんから「これ興味あるなら申し込むよ?」というLINEが来ました。

それが、10月27日に開催された、神保町ブックフェスティバル内の「出版産業シンポジウム」で行われたトークイベント「本屋を開業する」。

行きたかった本屋titleの店主辻山さん、さわや書店の田口さん、HABookstoreの松井さんという豪華なメンバーでの対談です。

勉強になる話盛沢山だったんですが、あえて何点かを抽出して考えたことを書いてみます。

1.本屋の役割

ゲストである田口さん、辻山さんはどちらも、お金を稼ぐ手段というのではない、「本屋の役割」を強く意識して活動されていました。

田口さんは、もはや町の社会福祉的な立ち位置としての本屋、辻山さんは、たくさんの本を知る中で良い本を選んできちんと伝えるという意味での個人本屋。

どちらも強く必要性を感じているんだと思います。

個人的には辻山さんの、「今ここにある本は氷山の一角だと身をもって知っているということ」という話が面白かった。以前規模の大きい書店で書店員をやっていたことが生きているそう。

「選んでいない本もどこかで知っていないといけない」

最近増えている個人本屋も、「好きそうな本」ばかりになってしまうと意味がない。アマゾンみたいに、「関連商品」が出て来るだけであれば、2回目3回目は行かない、と。

私はこれを、「本屋では違う世界への扉が開かれている」ことが重要なのかなと解釈しました。多様性の担保というか、同じ価値感に閉じていかないというか。

私が本に没頭して通っていたのは、中学校の図書館。そこには、伝記も文学も小説も図鑑もありました。あの、ばらばらな感じは実は、様々な世界への扉を開いていたのだと思う。

まずは本がある空間にするだけでも良いけど、「本屋」にするなら多様性が必要だと思いました。

2.一緒にお店をつくるということ

こっちが本題。笑 

辻山さんがしていた話で、titleはカフェとギャラリーもやっているという話になったときのこと。

「ギャラリーを使ってもらう人は、こちらから声をかけるのと向こうから言ってくるのの割合は、半々です」

つまり、「場所代を公開して誰でも使っていいよ」というわけではないということ。

「お互いがここでやりたい・この人とやりたいって思わないと、この店がやりたいことはお客さんに伝わらない」

「一緒にお店をつくる意識なんですよね」

ここ、めちゃくちゃ共感。ちょうど、私が使っている物件のギャラリーでも同じことを感じていました。

これは結構いろいろなことにあてはまると思っていて。

特に、「インフラ的に必要不可欠」「設備や技術や労働に対してお金を払う場合」ではない、プロジェクトや場の運営や仕事や人間関係において、「一緒につくる」という意識をどこまで作れるかが大事だと思います。

 

「ウィンウィン」という言葉があまりしっくりきません。

「お互いがやりたいこと」がどちらもやれて、どちらかが何かを「提供する」か「提供される」側になって、…一見良さそうな感じがするけれど、結局自分の「損具合」「得具合」をなんとなく測って、判断している感じ。それを「とりあえずみんなハッピーだからいいよね」って言われてる感じ(ひねくれ)。

もちろんそうやって測らなければ自分が傷ついたりすることがあるのであれば、仕方ない。けれど、ちょっとでもそんな可能性がある相手や事柄なら、そもそも距離をとって関わらない方がいいのです。

せっかくやるなら、「完全に自分本位」でも「相手の要望に応える」でもなく、「一緒につくる」という第三の道のことを、できる限り考えたいです。

だってその方が、様々なものを超えられると思うから。予測不可能なことにも向かって行けそうな気がするから。

いちいち行動ひとつひとつの損得を考える相手とは、なるべく安全なやり方にしか向かえない気がします。

この「一緒に未来に向かう」「一緒に価値だと思うものに向かう」が共有できる人たちと、人生を楽しんでいきたいなと思いました。

あれ、途中からイベントの感想でもなんでもないや笑

でもとにかく、私の仕事以外の今後の妄想はふくらむばかり…笑

またちらりとお見せしたいなと思います。

ちなみに、この次の日にtitleに行って買った本「彼岸の図書館」がめちゃくちゃに良かったので、またそのことで書こうかな。

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(当日のメモ、解読むずい笑)

 

 

安心感と好奇心

最近も、脳内哲学対話を繰り広げている井上です。哲学対話とは、何人かであるテーマについて「なぜ?」「そもそも○○とは?」を深掘りする対話のこと。先日哲学対話×筆談のイベントに出て、とても面白かったです。

「答えがたくさんある問いの話」をぐるぐるするのが大好きなので、最近はそういうことができる友達とばかりつるんでいます。これはこれでコミュニティを狭めているのかな…

 

そんなわけで、最近私の中でテーマになったキーワードについて書きます。

上に書いた、「答えがないこと」も関連する話かな。

 

**

「好奇心」。または、「知的好奇心」。

現代、そしてこれからの時代を切り抜ける上で、とても大切になるものだと思う。

Wikipediaには、「物事を探求しようとする根源的な心」とある。

知らないことを知る喜び、あるいは、体験したことのない体験をする喜び。

好奇心が強いタイプの私からすると、大げさに言えば、生きていくための原動力だ。

気のせいかもしれないけれど、おじいちゃんになっても生き生きしている人は好奇心が強い人なような気がする。

 

最近、中田敦彦YouTube大学にハマっている。少し前から話題だったけれど、おすすめされていたこともあって、そういえばとふと開いてみたら、面白くて見続けてしまった。

歴史や文学について、教科書で一度聞いたことのあるようなものを取り扱い、ホワイトボードの前で解説している動画なんだけれど、あっちゃんの話術もあってか、全然飽きない。

これのすごいところは、「知るの楽しい」「もっと知りたい」という気持ちにさせることである。何より、あっちゃん自身が楽しそうだ。

文学にしても、歴史にしても、「今の自分達」につなげる話を忘れず、かつ「これが答えだ」とは言わずに、「いろんな説があるんだよ、あくまで俺はこう解釈した」と言う。(登場人物になりきってしゃべるのに笑っちゃうのは芸人ならではとして)

 

塾で講師をしていたとき、一番大切なことは「この勉強おもしろい」と思わせることだとずっと実感していた。その土台ができてしまえば、あとはどんな子も自分から進めることができる。

「範囲の進め方」「ドリルのこなし方」「単語の覚え方」だけ教えていても、「好奇心」の土台がなければ、本当に表面をなでるだけだった。

すべての教科で、数年の間にそうなることはなかなか難しいから、結局無理矢理暗記して大学受験の時期に合わせるんだけどね。

 

私は学校での勉強としては、理系分野が好きだった。どうしても、文学や歴史を心から楽しんだことがなかった。だからこそ、大人になってこういう動画で面白い、と思えると、私にも歴史が楽しめるんだと嬉しい。

 

で、何の話だっけ。

そうそう、本や過去の中の世界だけじゃなく、現実に起こることに対しても好奇心があると生きやすいということ。

好奇心があると、わりとなんでも「学び」に思えるから、失敗も成功も、「学べた喜び」に置き換わってしまう。

好奇心があると、「もっとこうしたらどうなるかな」「ここに行ったら、この人に聞いたら、知れるかな」が自分の中から湧いてくるので、自然と自発的になる。能動的になる。

 

ではどうやったら、まわりの目を気にしたり、誰かと比べたりしないで、好奇心を発動させることができるのだろう。

好奇心があることと、それを素直に出したり行動に移せたりするのは別問題だ。

そこで私は、「安心感」が大切だと思っている。

先日参加した「未来言語」というワークショップでも、「コミュニケーションの土台は安心感だ」という話が出ていた。

 

「主体性の創出」

「行動・挑戦する人を育成しよう」

「個性や能力を最大に引き出す」

というような言葉をよく目にするけれど、これらはすべて、

「ここでは自分を出してもいいんだ(自分が感じたことを言ったりしたいことをしていいんだ、もしくはしなくてもいいんだ)」という「安心感」がないとなかなか表には出てこないと私は思う。

じゃあ何が「安心感」なのか。それは受け取る人によって違うからわからない。

でも、工夫はできる。安心を生む工夫。そして、姿勢。

もちろん「気心知れた相手」に対しては安心しやすいけれど、それ以外でも安心感を生む工夫は様々なところにある。

そして強調したいのは、立場や年齢的に、上→下へのコミュニケーションにおいて、本当にささいなことが圧力やプレッシャーになるということ。

自分にも言い聞かせているけれど、言葉だけではない、表情や空気、声、…様々なものが相手に威圧感を与えることがある。

圧力を感じた側は、なかなかそこから「自らこうしよう」「これをしたい」という気持ちにならない。「主体性」からどんどん遠のいていく。

圧力ある環境でも行動するべきだ、精神が弱すぎる、という意見は無視しておこう。

圧力のある環境だから何かが鍛えられる・成長する、ということは、意外とないんじゃないかと私は思っている。たまに、そういう人種がいるだけで笑

圧力で成長する可能性より、圧力で心を閉じてしまう怖さの方が、私にとっては大きい。「素敵な感性」を圧力のせいで見たり聞いたりできないのは辛い。

だったら基本的に圧力なんてない方がいい、と思う。

 

少し話はそれてしまったけれど、地域インターンを通して、自分なりの安心感と好奇心を得られるようになってほしいんだよな、たぶん。

 

「自分の安心感」「他人に与える安心感」に敏感であること、

自分の好奇心を育てたり開放したりすること。

 

そんなふうになれる人が増えたらいいなあ。

 

 

 

 

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(料理するのも、まずは好奇心。揚げ浸し×すだち、美味しかった)

 

自分を消さずに働く

今日は少し、勢いに任せて書きます。なので、あんまり筋が通ってないかも。

そして、いつもの、自分の感性をまさぐるような話ではなくて、少し、じれったい話かも。

実は、この夏のインターンは少ししんどいものがありました。

それこそ勢いでやってきたもののツケがまわってきたというか…

大事にしたかった人たちを辛くさせてしまいました。

やっと関係事項が落ち着いてきて、収束・改善に向かっているところです。

そんな中、今日した話。インターン生と上司と。

 

インターンがらみの仕組みや出来事を説明するのは難しいので書きませんが、たぶんこれはわりとどんな仕事で思い当たる話かも。

組織と組織の間にお金が発生したとき、たいてい組織の人間は「組織の人」としてのふるまいを求めらる。

そこで生まれるやりとり、交渉や契約、実務…人が行うその部分に、「個人」の意見や思想も多少は出てくることもあるかもしれないけれど、それが「組織」とずれている時には絶対に組織の意見の方が優先される。

だって、組織のお金には他にも色々な人や設備が関係しているから。そこには1人だけじゃ負えない責任があるから。

組織だからこそ生み出せているお金をもらって働いている以上、組織の人間として外に出て仕事をするときには、組織の顔でふるまわなくてはならない。

 

すんごく、たぶん、当たり前。

当たり前なんだけど。

 

それが私には辛かった。全然言葉が出てこなかった。

とりあえず相手の気分を害さないようにと投げた言葉は、相手に全く刺さらず、むしろ違和感を強めさせた様だった。

なぜつらいか。それが自分を消すことだからだ。

自分は確かに何かを感じているのに、それに反する形で自分の口や目や手を動かさなければならないからだ。

そういう時間が長くなっていくと、麻痺してきて何も感じなくなる(ある意味順応)か、辛くなって手や口が動かなくなるかのどちらかになっていく。

何も感じなくなるよりかは、辛くなって動かなくなって立ち止まる方が健康的だと思う。

何も感じなくなった人たちは、今度は「自分が何を感じているか」を思い出せなくなっていく。とってもとっても、それは怖い。

 

組織に所属していることが不自由なわけでは、きっとない。

組織の中のふるまいにおいては、私は本当にのびのびできている。自分を消さずに意見を言えている方だと思う。

それは偶然、組織のやっていることや方向性・分野と私が合ったからだと思う。ただただ、運がいい。

組織の中でも、「新人の顔」「○○部としての発言」に押しつぶされて自分を消していたら辛いのかも。

 

色々な顔があることが自分を救っている、という考え方もある。

いや、本当の自分は複数あっていい。けれど、それは自分を消しているわけではない。

Aの顔の自分と、Bの顔の自分は、それぞれの場で違う、でもまぎれもない「自分」を出せているから楽なのだ。

誰かに押し付けられた顔は、窮屈だ。

 

そもそも出したい自分なんていない、という人もいるかもしれない。

いや、でもどんな人も何かしら「感じている」んだ。それが自分。隣の人とは、きっと違う。

「感じたことを言う」ことがどんなにすっきりして、嬉しくなって、可能性に満ちているか。私は何十人ものインターン生を見てきてなんとなく知っている。

感じたことをわりとすぐに言えるようになった人、また言える関係や手段を得た人は、少し生き生きしだす。

それは表現の第一歩で、あなたにしかないものだ。

そういうものを見たり聞いたりするのが私はたまらなく好きで、パワーをもらう。

なので、「自分を消さなければならない」状況からはなるべく遠ざかって欲しいと思うのです。

 

自分は消したくないけれど、目の前のことやまわりの人も大事だから一生懸命戦っている皆さんの味方です、私は。

そして、願わくば自分を消さずに働ける組織が増えて、組織にいるかいないかも自分の状況に合わせて選べるといいなあ、と思います。

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小さな自分と創造すること

今年は梅雨が長いな~涼しい夏だな~と思って7月を超えたら、うだるような暑さが待っていました。

季節の変わり目と言われる土用に、まさにどかんと暑くなり、1日ばかり体調不良に。

ただ、今年は初めて梅干しを干せた!これはとっても満足。

そして、7月最後の週末にはさくらちゃんと一緒に、愛梨ちゃんとその息子君に会いに行けたのも最高でした。

 

さて、前から書きたかった話を。

だいぶ前に、「料理をすると精神状態がよくなる」という話を書いた。

坂口恭平が「cook」という本の中でも言っている。料理が鬱に効く、という話。

最近も、疲れた時に簡単でいいから家でごはんつくって食べると回復していたので、ますます実感していたのだけど、

それ以外にも同じように、少しだけ精神が健康的になる行動はいくつかあって、その共通点があるんじゃないかな、と思ったのだ。

 

精神が健康的になる、というのは、ただ疲れや辛さや寂しさを埋める・癒すことではなくて、自分の中にエネルギーや力のかたまりができてくるような感覚のこと。

こういうことができればこれから生きていけそうだなあ、と思うような感覚のことだ。

 

料理の他には、例えば畑仕事。草取り。

あと、映画や演劇。美術館に行くこともそうかも。

 

この辺の行動の共通点、それは「自分がすべて生み出すわけではない創造」なのではないだろうか。

材料がたまたま目の前にある、きっかけが向こうから差し出される、その上で自分が能動的に手を動かして何かを創造する。

全部を自分が計画したり、作ったりするわけでない行為。

畑や料理は確かにそうだけど、映画を見ることは創造なのか?と思うかもしれない。

けれどこれが結構、創造的行為だと思う。

特に、すべてを説明しすぎない、見る側の視点や思考があって初めて完成するような映画はたくさんあって、そういう映画を見るときって意外と能動的なのだ。

(だからそういう映画が好きなのかもしれない。わかりやすいセリフやキャラの映画はたまにでいいな)

 

 

なんで、「自分がすべて生み出すわけではない創造」が精神を健康的にするのだろう。

これは、さらにもう一つの別の考え方?に基づいて推測するのだけど、

「自分が大きすぎないこと」が鍵なんじゃないかと思うのだ。

 

自分の意思を尊重しよう。自分の個性を活かそう。自分の感覚を大事にしよう。

とよく言われるけれど、

じゃあ「自分ってなんだ?」と考え始めると、意外と行き詰まる。というかそれを考えること自体が辛かったりする。

自分の中へ中へ矢印を向けすぎると、他人と比べてしまうこともあるし、答えが見つからないで焦ってしまうこともあるけれど、本当に焦る必要なんてない。

自分ではなくて目の前にあるものに矢印を向けること。それをきっかけに手を動かしてみること。身体で感じること。

やってみてから、その時の私がどうなったか、心地いいかそうでもないか、それを考えてみればいい。

その状態は、やっぱり精神が健康的になっていっている気がする。

 

他人と違う自分を見つけようとしすぎないこと。

ただここにいる自分が、まわりの環境と目の前のものをきっかけに作り出したものを信じていくこと。

 

日々のことに関しても、長期的なことに関しても、そういうふうに生きていきたいと思う。

 

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向き合いすぎない

「梅」と「雨」をしっかり味わった6月だった。

去年のインターン先でもあった集落の畑で梅の管理を始めた今年。しっとりと深い緑色をした木々の中で、何度も梅をもいだ。

剪定をしていないこともあり、梅の実の数がすごい。とってもとっても取りきれず、何人もの人におすそ分けをした。

その合間に、夏休みのインターンの募集・半年プロジェクトのサポート・9月以降のトビラプロジェクトの準備…などなどやっていたら、6月はリアルに1日休みだったのは4日間?くらいだった。。その4日間もいろいろ詰め込んでしまったので、反省。

良い時間や出会いや気づきもたくさんなのだけど、振り返れていないなー。

 

そんな時の、定例「コメタク合宿」があった。定例とはいえ、今回はさくらちゃんが宮崎に帰省していたのもあり、たぶん10カ月ぶり?くらい。

「コメタク合宿」といってももはや最近はコメタクの活動には関係ないことばかり話している。私にとって、いつもと違う場所で、頭の中を整理したり立ち戻るべきところへ立ち戻る、みたいな時間だ。

大好きなさくらちゃんとコメタクのデザイナー、めいさんとじっくり話せる機会でもある。

 

まずは出雲崎で梅もぎをした(いきなり笑)。1時間で20キロほど。集落の人たちにも会ってもらい、おひるごはんももらった。

その後、宿泊先がある津南へ。途中、十日町のリオンドール内の喫茶店でふりかえりグラフを書いた。

津南では、モリクラフトへ寄り道。雨の森の中にたたずむ、落ち着いた色のログハウスに、入るとぷんと香るコーヒーの匂いに癒される。ここではさっき書いたふりかえりの共有をした。

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津南の目的地は、いつもお世話になっている諸岡江美子さんの柳の家。手仕事ワークショップなどのイベントや、宿泊業をやっている古民家だ。

classic-lab.comさくらちゃんとめいさんを連れて来たかったので、念願の想いが叶って嬉しい。

江美子さんてづくりの、宿泊者限定のノートに感動。私もこういうことしたい~

わいわい夕食を食べ、なんともいえない空間の心地良さに任せて、それぞれの時間を過ごした。なんだろう、いつものように「なんか話すか」とならなかった夜。

外にはカエルの声と雨音が響いていた。

 

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次の日の午前は、十日町の美術館「キナーレ」内のカフェにておしゃべり。その時間がすごくよかった。

 

向き合う、に少しだけ違和感がある。

良い行動のように聞こえる、その言葉に。

自分に、向き合う。

友達の悩みに、向き合う。

大事にしたいことに、考えなければならないことに、向き合う。

なにかを解決するためには、そのことに正面から向き合わなくてはいけない?本当にそうだろうか。

「向き合わない」と言うと、「逃げる」なのではないかと思われる。

でもきっとそうじゃない。

 

「向き合う」ということは、「すぐに答えを出そうとする」ことでもある。

「向き合う」ことそのものがしんどいときもある。

人が「決められない」「進めない」ときに、正面からコトの中心に向かってボールを投げるのは、何かを突破するかもしれないけれど、何かを失うことにもなるかもしれない。

 

そういうときに私がしたい関わり方は、

正面じゃなくて隣に座り

「なにが?どうして?」と聞くのではなく美味しいお茶を出し

一緒に眺めて待つことだなあと。

自分の身にも重要そうだぞ、ということがあっても、急いでそれには向き合わくてもいい。今心地良いと思う時間を過ごせばいい。

それは、向き合わずに逃げているように見えて、むしろ気がつかないうちに案外するっとクリアして進んでしまうコツかもしれない。

 

重そうなことからは少し気をそらして進んでいくくらいが、人生にはちょうどいい。

 

大学生に、大学時代に経験してほしいこと、みたいな話を授業などでも話す機会が増えてきたけれど、それも、「今するべき!!」と言い過ぎない。だってそれもあくまで私が一方的にそう思ってるだけだし、今しかないなんてこと、世の中には意外とないと思う。

 

エーリッヒフロムと町田君の世界に影響されて、最近はずっと「愛」について考えているけれども、

私は「お茶を出すような軽やかな愛」をみんなに渡したいのだと思う。

 

コメタク合宿を振り返ってみても、良い感じに「向き合いすぎない」旅でした。

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